序章
義経の生存伝説に的を絞り、その伝説から新たな構想を描いていきたい。
次回再開します。
義経の郎党に、片岡常春という、郎党が存在するという事実を知ったのは、義経に興味を抱いてからであろうか。主人の終始に側近く仕え、弁慶と双璧をなす片岡常春は、鎌倉時代初期の武将として、今日まで語り継がれている。常春は、平安中期の武将である、房総平氏の祖といわれる平忠常の子孫であり、両総平氏一族の子と伝えられている。
その片岡常春は、平泉で義経と運命を共にし、高舘で壮絶な最期を迎えた事になっている。そうした事実は、覆されることもなく現代までの定説となっているのだが…。
そんな義経の生きざまに興味を抱いた。
私は今、執筆活動をしている人間であるが、義経を研究して知るようになってから、何かしら興味がわいて、その物語を書くきっかけとなったのは自然の成り行きといえるかもしれない。
わたしの長年住んできた土地柄には、義経の生存伝説があるのですが、ここはなんとも摩訶不思議な場所で立体的な岩で作られた説明のつかない伝承の場所が存在する。
その場所には、続石という伝説の義経ゆかりの言い伝えが古くからあり、現在にその意味を伝えています。その続き石こそが、義経の郎党の武蔵坊弁慶にまつわる怪力の言い伝えが残っているのである。
武蔵坊弁慶は、調べるところ生没年不詳であり - 文治五年閏四月三〇日(一一八九年六月一五日に義経と運命を共にするように岩手県の平泉で没しています。平安時代末期の僧衆(僧兵)であり、源義経の郎党であったのです。
その伝説なる武蔵坊弁慶は、五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされている。今に残る講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高いことで有名である。
「平家物語」では熊野別当湛増の子で、紀伊国出身だと言われるだが詳細は今日では不明である。
さて場面は奥州は遠野路にある続石に雨宿りした場面から語ることにする。
義経の郎党である弁慶は怪力無双の腕力を見せ、二つの岩の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石を横にして乗せようとしている。そして今の泣石という別の大岩の上に乗せた。
そうすると、その岩石が泣きながら弁慶に懇願して云ったのである。
「おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だ!」といって、一夜じゅう泣き明かしたというのである。
弁慶は、「それなら他の石を台にしよう」と、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いたという。
それゆえに続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがあると言われる。泣石という名もその時からついたとされる。
今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っているという。
これが、民話のふるさとの物語に残っている伝承なる言い伝えである。真実は闇の中であるが、興味のある古い伝説の話であのは地域の民話じみた意味が残るという意味合いかもしれない。
続く




