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最後の女王になれと言われましたが、「炎なき騎士」だけは私の一歩後ろではなく隣を選んでくれました(sji)

掲載日:2026/09/21

【あらすじ】

母から娘へだけ継がれる《炎の法》を持つ王国。最後の女王候補マリアは、継承を強制される旅へ出る。護衛は、母由来の炎を持ちながら旧基準に届かず《炎なき者》と呼ばれた騎士ジウ。女王になりたくない少女と、資格がないと切り捨てられた男。二人は三つの試練を越え、血統だけでは測れない「命を繋ぐもの」を知る。いつも一歩後ろにいた護衛が、最後に選ぶ場所は――。


「女王にはなりたくありません」

王宮の謁見室でそう言ったのは、マリア一人だった。

大臣たちは黙った。

炎の一族、最後の娘。

母から受け継いだ炎を次代へ渡せる、最後の女王候補。

断れるはずがない。

「護衛を一人つけます」

扉が開いた。

入ってきた男を見て、今度は大臣たちがざわめいた。

ジウ。

元近衛騎士。

母から炎を受け継いでいるのに、旧基準の五十パーセントへ届かず《炎なき者》と呼ばれた男。

「炎なき者を女王候補の護衛に?」

誰かが笑った。

ジウは何も言わない。

マリアの一歩後ろへ立った。

「出発します」

その位置は、旅が始まってからも変わらなかった。

*

旅の初日、昼に村で食事をとるまで、ふたりは話さなかった。

旅の途中、マリアの草履の紐が切れた。ジウが何も言わずに降りて、自分の荷物から予備の紐を出した。マリアの草履に結んだ。慣れていない手つきだったが、なんとか歩ける程度になった。

「なぜ予備を持っていたんですか」とマリアが聞いた。「道中、何が壊れるかわからない」

とジウが答えた。

でも夕方、マリアがジウの靴を見ると、紐が一本足りなくなっていた。翌朝、村で予備の紐を買ったとき、マリアがジウに渡した。「道中、何が壊れるかわからないから」と言って。

ジウが馬を操り、マリアが後ろに座った。山岳地帯に向かう街道は石畳が続き、馬の蹄の音だけが響いた。ジウは進行方向を見続けた。マリアは景色を見た。

昼に村で食事をとったとき、ジウが初めて口を開いた。

「試練の地まで、四日かかります。山を二つ越えます」

「わかりました」

「夜は村の宿を使います。野宿は避けた方がいい。体力を温存してください」

「……あなたは、以前にも試練の地に行ったことがありますか」

「ありません。地図と文献で調べました」

「文献を、自分で」

「命令を受けたとき、最初にやることです」

マリアはジウを見た。淡々とした言い方だったが、それは準備を怠らないということだった。

炎の試練に関する文献を、護衛の騎士が自分で調べてくる。当然のようにやっている。

「……調べて、どう思いましたか」

ジウが間を置いた。

「試練は三段階あります。それぞれが、王国の炎の本質を問うものです。難しいが、不可能ではない。ただ」

「ただ?」

「炎を持つ者にしか、試練には参加できない。私はサポートしかできません」

声に、何かが含まれていた。感情を含んだ言い方ではなかった。でも、その事実の重さを知っている、という声だった。

「……悔しいですか」

ジウがマリアを見た。

「悔しいという感情は、今は役に立たないので」

「でも、あるんですか」

沈黙。

「……あります」

マリアは何も言わなかった。その正直さが、意外だった。

*

二日目の夜、宿の食堂でジウが食事を終えた後、マリアは「聞いていいですか」と言った。

「炎無き者、と呼ばれているのは、なぜですか」

ジウはカップを持ったまま、間を置いた。

「父方の血筋が、炎の一族ではなかったからです。母は一族の傍系でしたが、私に渡るはずだった炎の紋が、継承の途中で薄くなった。継承に必要な濃さに達しなかった、と判定されました」

「それで近衛を外されたと」

「炎の法により、王国の護衛は炎の紋を持つ者でなければならない。私の紋は『継承に不十分』と判断されたので、近衛の資格を失いました」

「でも今は護衛をしている」

「今回は『炎の法の護衛資格』ではなく『戦闘能力による特例任命』です。ソフィア大臣の裁量で」

マリアは考えた。ソフィアが「最も戦闘能力が高い」と言っていた。その裏に、こういう事情があったのだ。

「……ジウさんは、それについてどう思っているんですか」

「どう思う、というのは」

「炎無き者、という烙印について」

ジウがカップを置いた。

「……受け入れています」

「受け入れている、というのは納得しているということですか」

「事実として受け入れている、ということです。納得かどうかは別の話です」

その区別が、マリアには刺さった。事実として受け入れることと、納得することは違う。ジウはその二つを、きちんと分けていた。

「……私も、女王になることを納得しているかどうか、よくわかっていません」とマリアは言った。「それは正直な言葉です」

「そう言えるのも、ジウさんが正直だから、かもしれません」

ジウはマリアを見た。何か言いかけて、やめた。

「……おやすみなさい」と彼は言って、席を立った。マリアはその背中を見ながら、「おやすみなさい」と返した。

*

三日目の午後、街道を外れた林道に入ったとき、盗賊が出た。

四人。木の陰から現れた。剣を持っている。マリアは馬の上で息をのんだ。

ジウが馬から降りた。マリアに「そのまま動かないでください」と言ってから、四人の前に立った。

何が起きたのか、マリアにはよく見えなかった。ジウが動き、次の瞬間には四人のうち三人が地面にいた。最後の一人が逃げた。全部で、三十秒もかかっていなかった。

ジウが戻ってきた。傷一つなかった。

「大丈夫ですか」と彼は言った。「……はい」マリアはかろうじて答えた。「あなたが、怪我をしなかった」

「怪我をしない方が、護衛として効率的なので」

淡々とした答えだったが、マリアは笑った。こういう言い方をする人だ。感情を込めない言い方で、でも言っていることは確かなことだ。

「……炎がなくても、あれだけ動けるんですね」

「炎は力の源ですが、炎がなければ強くなれないわけではありません。別の方法で鍛えればいい」

「別の方法、というのは」

「体の構造を理解すること。動きの原理を学ぶこと。炎は一種のエネルギーですが、それ以外にも人は動ける」

マリアはその言葉を、頭の中で繰り返した。炎は一種のエネルギーだが、それ以外にも人は動ける。

炎の法は、炎こそが全てだと言っていた。でも、ジウは今、炎なしで三人を制圧した。それは何を意味するのか。

考え始めると、止まらなかった。

*

試練の地に向かう前夜、ジウは一人で火を見ていた。火が揺れ、薪が一本崩れた。

護衛だから傍にいる。それが答えのはずだった。

だが旅の三日で、マリアが少しずつ自分の言葉を持ち始めているのがわかった。

明日からの試練に、自分は参加できない。できるのは一歩後ろで待つことだけだ。

それでも傍にいることを、なぜ当然のように選んでいるのか。

試練の地は、山の奥にあった。

四日目の夕方、ふたりは目的地に着いた。古い神殿の跡地。石造りの建物が、時間をかけて風化していた。中心部は残っていた。三つの試練の場は、それぞれ別の部屋に設けられていた。

神殿の管理人が一人いた。老人で、もう何十年もここにいるらしく、石のように顔が動かなかった。ふたりを見て、「女王候補が来るのは十一年ぶりだ」と言った。

翌朝から、試練が始まった。

*

第一の試練は「炎の生成」だった。

試練の部屋の中央に、台座がある。その台座に両手を置き、王国の炎を可視化させる。炎が一定の強さと持続性を示せば、合格。

マリアは台座の前に立った。ジウは部屋の外で待つように言われた。旧認定基準で「炎無き者」とされた者は、試練の場に入れない。

マリアは深呼吸をした。台座に手を置いた。体の奥の振動を探した。ある。弱いが、ある。

その振動を、手のひらに集める。集めて、台座に送る。

台座が、光った。

老人が何も言わなかった。もっと強く、ということだろう。マリアはもう一度、奥から振動を引き出そうとした。でも、今度は出てこなかった。体の奥で、振動が揺れているのがわかる。でも、手のひらまで来ない。

十分後、マリアは試練の部屋を出た。

外でジウが待っていた。

「どうでしたか」

「……一度は光ったんですが、続かなかった。老人は何も言わなかった。合格か不合格かも」

「文献によると、第一の試練は複数回の試行が認められています。今日は最初なので、状態の確認だったかもしれない」

「状態の確認」

「炎の現状把握。どのくらいの強さがあるか。今後の指針になる」

マリアは神殿の外の空を見た。山の空は低かった。

「……正直に言うと、怖かった。炎を出そうとしたとき、体の奥が揺れているのに、手まで届かない感覚があって」

「それは」ジウが考えてから言った。「王国の炎が弱まっているからかもしれない。奥にはあるが、伝達経路が細くなっている」

「どうすれば」

「経路を広げればいい。ただ、私にはそれをする手段がない。でも」

ジウが間を置いた。

「夜、試してみることはできますか。私が補助できることがあるかどうか、確認したい」

「補助? 『炎無き者』と判定されているのに」

「公的な認定がなくても、体の動きを導くことはできます。炎を使う体の動かし方というのが、あるはずです」

マリアは考えてから、「やってみます」と言った。

*

その夜、ジウが示したのは呼吸の方法だった。

「王国の炎は、体の奥で生まれます。でも体が緊張していると、伝達経路が狭くなる。まず体を緩める。呼吸から始めます」

マリアが座り、ジウが向かいに座った。ジウが自分で呼吸してみせた。と、深く。腹から。

「お腹が膨らむ呼吸です。胸ではなく、腹から。炎は体の深いところにあるので、深い呼吸の方が伝わりやすい」

マリアが真似た。最初はうまくいかなかった。でも三回目くらいから、変わった気がした。

体の奥の振動が、近くなった。

「……何かが、変わった」

「経路が開いたかもしれない。体が温まると、さらに通りやすくなります」

「あなた、これはどこで学んだんですか」

「独学です。『炎無き者』と判定されてから、炎とは何かを自分で調べました。体のどこにあって、どう機能しているか。わかると、補助する方法も考えられる」

マリアはジウを見た。

「炎無き者」と言われた後、その炎について誰よりも深く調べた。資格がないから諦めるのではなく、なぜそう判定されたのかを理解する。その方向に進んだ。「……あなたは、変わった人ですね」

「よく言われます」

「褒めてます」

ジウの顔が緩んだ。笑う手前の、変化。

「……ありがとうございます」

*

第二の試練は「外との共生」だった。

試練の部屋には、古い記録が並んでいた。王国の歴史。炎の一族の系譜。その中に一つ、異質な記録があった。

ミトコンドリア王国の起源の記録だった。

それによると、王国は元々「外から来た存在」だった。何十億年も前、体の外にあった生命体が、別の細胞の中に入り込み、共に生きることを選んだ。その関係がやがて不可分になり、今の王国になった。炎を生み出す力は、元々この「外来の存在」が持っていたものだ。

試練は、この記録を読み、その意味を「体で理解する」ことだった。

老人が言った。「王国の炎は、あなたのものであると同時に、外から来たものでもある。その二つを同時に感じたとき、第二の試練は終わる」

マリアは記録を読んだ。何度も読んだ。でも「体で理解する」ということの意味がわからなかった。

試練の部屋を出て、ジウに話した。

「外から来た、という感覚が、わからない」

「炎は、自分のものでもあり、自分のものでもない」とジウが言った。「それは、試練の地まで来るこの旅も、同じかもしれない」

「どういうことですか」

「あなたは一人でここに来たのではない。私がいる。『炎無き者』とされた私が、補助している。あなたの試練は、あなたのものだが、一人のものでもない。外からの力を借りている」

マリアは黙った。

「……それが、共生ということですか」

「王国の起源がそうだったように。外から来た存在と共に生きること。それが炎の本質かもしれない」

マリアは神殿の外を見た。山の空が夕暮れで赤かった。

翌朝、試練の部屋に入った。記録の前に立った。深呼吸した。ジウがいることを思った。この人が外で待っている。「炎無き者」とされた人が、自分のためにここまで来た。それが「外から来た力と共に生きること」ではないか。

体の奥の振動が、変わった。

老人がうなずいた。

第二の試練は、終わった。

*

第三の試練は「継承の意志」だった。

これが最も難しかった。試練の部屋には何もなかった。台座もない。記録もない。ただ、石の部屋があるだけ。

老人が言った。「女王になる意志を、炎に示せ。強制された意志ではなく、自らの意志を」

マリアは部屋の中央に立って、考えた。自らの意志。でも私は、「なりたい」とは思っていない。ただ、「なるべきだ」という状況がある。それは意志なのか。

一時間後、マリアは部屋を出た。何も起きなかった。

ジウが外で待っていた。

「うまくいかなかった」とマリアは言った。「意志がわからない。私は女王になりたいのか、ただなるべきだからなるのか、区別できない」

ジウは何も言わなかった。黙っていた。

「……マリア様、一つ聞いていいですか」

「はい」

「なぜ、ここまで来たのですか」

「試練のためです」

「それは理由ではありません。誰かに言われたから来た、ということなら、意志ではない。でも、あなたは出発前夜に母の墓に行きました。なぜですか」

マリアが動きを止めた。

「……見ていたんですか」

「護衛なので。あなたが何をしているか、確認する義務があります。でも邪魔しなかったのは、一人でいる必要があると思ったからです」

マリアは間を置いた。

「……行ってきます、と言いに行きました」

「誰に言われたのですか」

「誰にも。自分で行きたかった」

「それが意志です」

マリアは、ジウを見た。

「誰かに強制されたのではなく、あなたが自分で行きたいと思った。女王になることへの意志は、まだはっきりしないかもしれない。でも、この旅に出ることへの意志は、あなた自身の中にあった」

マリアは何も言わなかった。目の奥が、熱くなった。

翌朝、もう一度試練の部屋に入った。中央に立った。母の墓の前での言葉を思い出した。

「行ってきます」。誰に言われたわけでもなく、自分で言いに行った。その夜のことを、炎に見せた。部屋全体が、一瞬だけ温かくなった。老人が「三つの試練、終わり」と言った。

*

試練が終わった夜、マリアとジウは神殿の外の石段に座った。

空に星が多かった。山の空は空気が澄んでいるので、街では見えない星まで見えた。

「試練が終わりました」とマリアは言った。「ありがとうございます」

「私は試練に参加していません」

「でも、私が終わらせることができたのは、あなたのおかげです」

ジウは星を見た。何も言わなかった。

「……ジウさん、一つ聞いていいですか」

「はい」

「お母さんのことを、教えてもらえますか」

ジウがマリアを見た。

「なぜ」

「炎の一族の傍系だったと言っていた。それ以上のことを、聞いていなかったので」

ジウは星に視線を戻した。黙った。

「……母は、早くに亡くなりました。私が五歳のときです。炎の一族の遠縁で、傍系の中でも弱い炎の紋しか持っていなかった。それが私に渡るとき、さらに薄くなった、と記録には書かれています」

「記録には」

「自分の炎の紋の判定記録を、後で取り寄せました。母から受け継いだ紋は、継承に必要な濃度の三十パーセントしかなかった、と」

「三十パーセント……それは、全くないわけではない」

「そうです。全くないわけではない。でも、炎の法の基準は五十パーセント以上。私は届いていない」

マリアは星を見た。空が広かった。

「……その三十パーセントの炎を、あなたは今、どう使っているんですか」

「使っていません。炎の法により、資格を持たないと判定されたので、使うべきでないと思っていました」

「使うべきでない?」

「規定外の炎を使うことへの、懸念がありました。認められていないものを使うことへの」

マリアは間を置いた。

「……三十パーセントでも、炎は炎です」

「……そうですか」

「三十パーセントの炎がある人と、ゼロの人は、違います。あなたは炎を持っている」

ジウは何も言わなかった。でも、石段の上で、姿勢が変わった。

*

帰路は三日かかった。

行きと帰りでは、ふたりの間の空気が変わっていた。話す量が増えた。話す内容も変わった。

行きは必要なことしか話さなかった。帰りは、必要でないことも話した。

ジウが子供の頃のことを、話した。父が商人で、炎の一族とは無縁の人だったこと。母が亡くなった後、父と二人で暮らしたこと。「炎の法に縛られない」父の考え方が、ジウの物の見方を形づくった。

マリアも話した。母のことを。女王として生きた人の娘として生まれたことの重さを。でも母が早く亡くなって、その重さを一人で背負うことになったことを。

「……母が生きていたら、色々教えてくれたと思う。でも亡くなってしまったので、何も知らないまま女王候補になった」

「何も知らなくはないでしょう」

「でも、女王になることの意味を、誰にも教えてもらっていない」

「……今回の試練で、少し知ったのではないですか」

マリアは馬の上で、ジウの背中を見た。

「……そうかもしれません。炎は自分のものでもあり、外から来たものでもある。王国は一人のものではない。そういうことを、わかった気がします」

「それで十分だと思います」

「十分?」

「女王は一人で王国を支えるのではない。王国には多くの人がいる。支える仕組みがある。女王は、その中心にいるだけでいい。全部知らなくてもいい」

マリアは考えた。

「……ジウさんは、私が女王になることを、支持しているんですか」

一瞬の沈黙。

「……支持しています」とジウが言った。「あなたが女王になるべきだと思っています」

「なぜですか」

「あなたは、なりたくないと言いながら、出発前夜に墓に行った。なりたくないという感情と、行かなければという意志が、両方ある人は信頼できます。どちらかだけの人より」

マリアは返事ができなかった。

ジウが前を向いたまま、馬を進めた。山の道を、まっすぐに。

*

王都に着く前日の夜、ジウが珍しく自分から話しかけてきた。

宿の食堂に二人しかいない時間に、ジウが「一つ話があります」と言った。

「私の炎の紋のことで」

「はい」

「帰路で、マリア様が『三十パーセントでも炎は炎だ』と言いました。その言葉を、ずっと考えていました」

「どう考えましたか」

「……使ってみようと思います。三十パーセントの炎を。規定外かもしれないが、あるなら使えるはずです」

マリアは驚いた。

「今まで使っていなかったのは、規定に縛られていたから、と言っていた」

「そうです。でも、規定は人が決めたものです。炎の法は自然の理ですが、継承の資格基準は人が決めた数字です。三十パーセントではなく、五十パーセントにしたのは、人の判断です」

「……それに気づいたのは」

「マリア様が、試練の意志を問われたとき、自分で答えを見つけたからです。誰かに正解を教えてもらうのではなく、自分の中から見つけた。それを見て、私も自分で考えることにしました」

マリアは窓を見た。夜の街道が見えた。

「……ジウさんが炎を使い始めたら、烙印が変わるかもしれない」

「変わらないかもしれない。でも、使わないまま終わる方が、もったいない気がした」

マリアは微笑んだ。

「……それも、意志ですね」

ジウが間を置いてから、「そうかもしれません」と言った。

*

王都に戻ったとき、ソフィアが出迎えた。

試練の結果を報告すると、ソフィアは「三つとも終わらせたか」とだけ言った。表情は変わらなかった。でも目が、違った。安堵か、驚きか、どちらかだった。

「継承の儀式は、一週間後に行います。それまでに、準備を整えてください」

「……ソフィア大臣、一つ聞いていいですか」

ソフィアが止まった。

「炎の法の継承基準、五十パーセント以上という数字は、誰が決めたのですか」

ソフィアが、初めて表情を変えた。眉が動いた。

「……三百年前の審議会が決めました。当時、炎の紋の強さを数値化する技術が生まれ、基準が設けられました。当時は濃度しか測れませんでしたが、今は炎の質と安定性まで測定できます」

「三百年前に決まった数字が、今も使われている」

「法とはそういうものです」

「でも、変えることはできますか」

ソフィアはマリアを見た。

「……それは、女王になった後に考えることです」

マリアは頷いた。「わかりました」と言った。でも頭の中で、その問いはまだ続いていた。

*

一週間、マリアは準備を続けた。

継承の儀式の内容を学んだ。女王としての役割を学んだ。王国の歴史を読んだ。

同時に、ジウと毎日会った。特に決めたわけではなく、自然に会うようになった。ジウは宮廷の訓練場にいることが多く、マリアが通りかかると声をかけた。それだけのことだったが、毎日になった。

ある夜、マリアが「ジウさんの炎を、感じてみてもいいですか」と言った。

「感じる、というのは」

「女王の炎は、近くにある炎を感知できると本で読みました。私の炎はまだ弱いですが、あなたの三十パーセントの炎が、どういう形か確かめてみたい」

「確かめて、どうするつもりですか」

マリアは考えた。

「……わかりません。ただ、あなたの炎が本物かどうか、確認したかった」

「本物かどうか」

「三十パーセントでも、炎は炎です。私はそう言いました。でも、私自身がそれを感じてみないと、ただの言葉で終わる」

ジウはマリアを見た。それから「わかりました」と言った。

マリアは手を伸ばした。ジウの胸の近くに。触れない程度の距離で。体の奥の振動を探るように、意識を向けた。

ある。

かすかだが、ある。炎の紋の振動。五十パーセントには届かないが、確かにそこにある。小さいが、温かい。

「……あります」とマリアは言った。「ちゃんと、あります」

ジウは何も言わなかった。でも、マリアが手を引いた後、彼が右手を自分の胸に当てた。炎がある場所を、確かめるように。

マリアはそれを見て、何も言わなかった。

*

継承の儀式の前日の夜、マリアは眠れなかった。

明日、女王の炎を受け取る。正式に。今まで持っていた「生まれながらの炎」に加えて、先代から受け継ぐ「継承の炎」が加わる。それが何を変えるのか、まだわからなかった。

廊下に出た。夜の宮廷を歩いた。訓練場の近くを通ったとき、灯りがついていた。

ジウがいた。一人で、剣を振っていた。誰もいない訓練場で、静かに。

マリアは扉の前で止まった。

ジウが気づいて、剣を止めた。

「眠れないんですか」

「はい。ジウさんも?」

「……私は夜の訓練が習慣なので」

マリアは訓練場に入った。隅の台に座った。ジウが剣を置いた。

「明日、怖いですか」とジウが聞いた。「怖いです」

「何が怖いですか」

マリアは考えた。

「女王になったら、全部が変わる気がして。今の自分がいなくなるような。女王というのは、役職じゃなくて、存在になる気がして」

「存在になる」

「王国を支えるために生きる存在に。それは、今のマリアという個人とは違う何かに、なることだと思って」

ジウは間を置いた。

「……マリア様、一つ言っていいですか」

「どうぞ」

「女王になっても、あなたはあなたです」

「でも――」

「役割は変わります。責任は増えます。でも、お母さんの墓に行ってきますと言いに行った人は、変わらない。試練で自分の中から意志を見つけた人は、変わらない。それはあなた自身のもので、女王という肩書きが奪えるものではない」

マリアは訓練場の天井を見た。

「……ジウさんは、どうしてそんなに落ち着いているんですか」

「落ち着いてはいません。あなたが怖いのはわかります。私も、あなたが変わってしまうことが」

止まった。

「……変わってしまうことが、怖いですか」とマリアが続けた。ジウが間を置いた。短い間だったが、確かにあった。「……そうかもしれません」

マリアは何も言わなかった。夜の訓練場に、静かがあった。

「でも」とジウが言った。「変わっても、変わらない部分がある。それを、私は信じます」

「私の、何を信じるんですか」

「あなたが、あなたであることを」

マリアは台から立ち上がった。扉に向かった。それから一度、振り返った。

「……ありがとうございます。明日、行けそうな気がしてきました」

ジウは何も言わなかった。ただ、頭を下げた。

*

継承の儀式は、王宮の最も古い部屋で行われた。

参列者は少なかった。ソフィアと数人の大臣たち。それからジウ。旧認定基準で「炎無き者」とされた護衛が儀式に参列することは、本来規定外だったが、マリアが「来てほしい」

と言って、ソフィアが認めた。

儀式は古い言葉で書かれた典礼に従って進んだ。継承の石には、在位中の女王が余剰の炎と記憶を少しずつ残す。継承の儀式では、その蓄積が次代へ転写される。マリアが石の前に立ち、手を当て、炎を受け取る。

マリアは石の前に立った。手を当てた。

体の奥の振動が、揺れた。

石から何かが来た。熱い。先代から、その前の代から、さらにその前から積み重なってきた炎の記憶が、一度に流れてきた。マリアの体の奥の振動と、それが重なった。

足がふらついた。

ソフィアが「マリア様」と声を上げた。

マリアは離れなかった。流れてくるものが多すぎて、処理できない。でも離れたら、途切れるかもしれない。

視界の端に、ジウが動くのが見えた。規定外と言われても、こちらに来ようとしていた。

マリアは目を向けた。

来ないで、という意味ではなかった。来てほしい、という意味でもなかった。ただ、見た。

ジウが、ここにいる。それだけを確認した。

ジウが止まった。マリアが見たことに気づいて、止まった。

マリアは石に向き直った。流れてくる炎を、受け取った。全部を。

十分後、儀式が終わった。

マリアは石から手を離した。体が、前と違う感じがした。重さが増したような。でも、軽くなったような。両方あった。

ソフィアが一礼した。参列者全員が、一礼した。

ジウが、一番深く礼をした。

*

式が終わると、二人は王都の外れの秋道を歩いた。

いつものように、ジウは一歩後ろへ下がった。

――と思った。

彼の足が止まる。

長い旅で染みついた護衛の位置へ戻りかけて、戻らなかった。

マリアの隣に立つ。

「今日は、後ろじゃないんですね」

「はい」

「護衛なのに?」

「式は終わりました」

「では、今は?」

ジウは前を見たまま答えた。

「隣を歩きたいだけです」

マリアは何も言えなくなった。

代わりに歩幅を合わせた。

落ち葉を踏む音が、二人分並んだ。

王宮では、マリアの前にも後ろにも大勢の人が立つ。

それでも彼女が欲しかった場所は、一つだけだった。

隣。

ジウはもう、一歩後ろへ戻らなかった。

了



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