最後の女王になれと言われましたが、「炎なき騎士」だけは私の一歩後ろではなく隣を選んでくれました(sji)
【あらすじ】
母から娘へだけ継がれる《炎の法》を持つ王国。最後の女王候補マリアは、継承を強制される旅へ出る。護衛は、母由来の炎を持ちながら旧基準に届かず《炎なき者》と呼ばれた騎士ジウ。女王になりたくない少女と、資格がないと切り捨てられた男。二人は三つの試練を越え、血統だけでは測れない「命を繋ぐもの」を知る。いつも一歩後ろにいた護衛が、最後に選ぶ場所は――。
「女王にはなりたくありません」
王宮の謁見室でそう言ったのは、マリア一人だった。
大臣たちは黙った。
炎の一族、最後の娘。
母から受け継いだ炎を次代へ渡せる、最後の女王候補。
断れるはずがない。
「護衛を一人つけます」
扉が開いた。
入ってきた男を見て、今度は大臣たちがざわめいた。
ジウ。
元近衛騎士。
母から炎を受け継いでいるのに、旧基準の五十パーセントへ届かず《炎なき者》と呼ばれた男。
「炎なき者を女王候補の護衛に?」
誰かが笑った。
ジウは何も言わない。
マリアの一歩後ろへ立った。
「出発します」
その位置は、旅が始まってからも変わらなかった。
*
旅の初日、昼に村で食事をとるまで、ふたりは話さなかった。
旅の途中、マリアの草履の紐が切れた。ジウが何も言わずに降りて、自分の荷物から予備の紐を出した。マリアの草履に結んだ。慣れていない手つきだったが、なんとか歩ける程度になった。
「なぜ予備を持っていたんですか」とマリアが聞いた。「道中、何が壊れるかわからない」
とジウが答えた。
でも夕方、マリアがジウの靴を見ると、紐が一本足りなくなっていた。翌朝、村で予備の紐を買ったとき、マリアがジウに渡した。「道中、何が壊れるかわからないから」と言って。
ジウが馬を操り、マリアが後ろに座った。山岳地帯に向かう街道は石畳が続き、馬の蹄の音だけが響いた。ジウは進行方向を見続けた。マリアは景色を見た。
昼に村で食事をとったとき、ジウが初めて口を開いた。
「試練の地まで、四日かかります。山を二つ越えます」
「わかりました」
「夜は村の宿を使います。野宿は避けた方がいい。体力を温存してください」
「……あなたは、以前にも試練の地に行ったことがありますか」
「ありません。地図と文献で調べました」
「文献を、自分で」
「命令を受けたとき、最初にやることです」
マリアはジウを見た。淡々とした言い方だったが、それは準備を怠らないということだった。
炎の試練に関する文献を、護衛の騎士が自分で調べてくる。当然のようにやっている。
「……調べて、どう思いましたか」
ジウが間を置いた。
「試練は三段階あります。それぞれが、王国の炎の本質を問うものです。難しいが、不可能ではない。ただ」
「ただ?」
「炎を持つ者にしか、試練には参加できない。私はサポートしかできません」
声に、何かが含まれていた。感情を含んだ言い方ではなかった。でも、その事実の重さを知っている、という声だった。
「……悔しいですか」
ジウがマリアを見た。
「悔しいという感情は、今は役に立たないので」
「でも、あるんですか」
沈黙。
「……あります」
マリアは何も言わなかった。その正直さが、意外だった。
*
二日目の夜、宿の食堂でジウが食事を終えた後、マリアは「聞いていいですか」と言った。
「炎無き者、と呼ばれているのは、なぜですか」
ジウはカップを持ったまま、間を置いた。
「父方の血筋が、炎の一族ではなかったからです。母は一族の傍系でしたが、私に渡るはずだった炎の紋が、継承の途中で薄くなった。継承に必要な濃さに達しなかった、と判定されました」
「それで近衛を外されたと」
「炎の法により、王国の護衛は炎の紋を持つ者でなければならない。私の紋は『継承に不十分』と判断されたので、近衛の資格を失いました」
「でも今は護衛をしている」
「今回は『炎の法の護衛資格』ではなく『戦闘能力による特例任命』です。ソフィア大臣の裁量で」
マリアは考えた。ソフィアが「最も戦闘能力が高い」と言っていた。その裏に、こういう事情があったのだ。
「……ジウさんは、それについてどう思っているんですか」
「どう思う、というのは」
「炎無き者、という烙印について」
ジウがカップを置いた。
「……受け入れています」
「受け入れている、というのは納得しているということですか」
「事実として受け入れている、ということです。納得かどうかは別の話です」
その区別が、マリアには刺さった。事実として受け入れることと、納得することは違う。ジウはその二つを、きちんと分けていた。
「……私も、女王になることを納得しているかどうか、よくわかっていません」とマリアは言った。「それは正直な言葉です」
「そう言えるのも、ジウさんが正直だから、かもしれません」
ジウはマリアを見た。何か言いかけて、やめた。
「……おやすみなさい」と彼は言って、席を立った。マリアはその背中を見ながら、「おやすみなさい」と返した。
*
三日目の午後、街道を外れた林道に入ったとき、盗賊が出た。
四人。木の陰から現れた。剣を持っている。マリアは馬の上で息をのんだ。
ジウが馬から降りた。マリアに「そのまま動かないでください」と言ってから、四人の前に立った。
何が起きたのか、マリアにはよく見えなかった。ジウが動き、次の瞬間には四人のうち三人が地面にいた。最後の一人が逃げた。全部で、三十秒もかかっていなかった。
ジウが戻ってきた。傷一つなかった。
「大丈夫ですか」と彼は言った。「……はい」マリアはかろうじて答えた。「あなたが、怪我をしなかった」
「怪我をしない方が、護衛として効率的なので」
淡々とした答えだったが、マリアは笑った。こういう言い方をする人だ。感情を込めない言い方で、でも言っていることは確かなことだ。
「……炎がなくても、あれだけ動けるんですね」
「炎は力の源ですが、炎がなければ強くなれないわけではありません。別の方法で鍛えればいい」
「別の方法、というのは」
「体の構造を理解すること。動きの原理を学ぶこと。炎は一種のエネルギーですが、それ以外にも人は動ける」
マリアはその言葉を、頭の中で繰り返した。炎は一種のエネルギーだが、それ以外にも人は動ける。
炎の法は、炎こそが全てだと言っていた。でも、ジウは今、炎なしで三人を制圧した。それは何を意味するのか。
考え始めると、止まらなかった。
*
試練の地に向かう前夜、ジウは一人で火を見ていた。火が揺れ、薪が一本崩れた。
護衛だから傍にいる。それが答えのはずだった。
だが旅の三日で、マリアが少しずつ自分の言葉を持ち始めているのがわかった。
明日からの試練に、自分は参加できない。できるのは一歩後ろで待つことだけだ。
それでも傍にいることを、なぜ当然のように選んでいるのか。
試練の地は、山の奥にあった。
四日目の夕方、ふたりは目的地に着いた。古い神殿の跡地。石造りの建物が、時間をかけて風化していた。中心部は残っていた。三つの試練の場は、それぞれ別の部屋に設けられていた。
神殿の管理人が一人いた。老人で、もう何十年もここにいるらしく、石のように顔が動かなかった。ふたりを見て、「女王候補が来るのは十一年ぶりだ」と言った。
翌朝から、試練が始まった。
*
第一の試練は「炎の生成」だった。
試練の部屋の中央に、台座がある。その台座に両手を置き、王国の炎を可視化させる。炎が一定の強さと持続性を示せば、合格。
マリアは台座の前に立った。ジウは部屋の外で待つように言われた。旧認定基準で「炎無き者」とされた者は、試練の場に入れない。
マリアは深呼吸をした。台座に手を置いた。体の奥の振動を探した。ある。弱いが、ある。
その振動を、手のひらに集める。集めて、台座に送る。
台座が、光った。
老人が何も言わなかった。もっと強く、ということだろう。マリアはもう一度、奥から振動を引き出そうとした。でも、今度は出てこなかった。体の奥で、振動が揺れているのがわかる。でも、手のひらまで来ない。
十分後、マリアは試練の部屋を出た。
外でジウが待っていた。
「どうでしたか」
「……一度は光ったんですが、続かなかった。老人は何も言わなかった。合格か不合格かも」
「文献によると、第一の試練は複数回の試行が認められています。今日は最初なので、状態の確認だったかもしれない」
「状態の確認」
「炎の現状把握。どのくらいの強さがあるか。今後の指針になる」
マリアは神殿の外の空を見た。山の空は低かった。
「……正直に言うと、怖かった。炎を出そうとしたとき、体の奥が揺れているのに、手まで届かない感覚があって」
「それは」ジウが考えてから言った。「王国の炎が弱まっているからかもしれない。奥にはあるが、伝達経路が細くなっている」
「どうすれば」
「経路を広げればいい。ただ、私にはそれをする手段がない。でも」
ジウが間を置いた。
「夜、試してみることはできますか。私が補助できることがあるかどうか、確認したい」
「補助? 『炎無き者』と判定されているのに」
「公的な認定がなくても、体の動きを導くことはできます。炎を使う体の動かし方というのが、あるはずです」
マリアは考えてから、「やってみます」と言った。
*
その夜、ジウが示したのは呼吸の方法だった。
「王国の炎は、体の奥で生まれます。でも体が緊張していると、伝達経路が狭くなる。まず体を緩める。呼吸から始めます」
マリアが座り、ジウが向かいに座った。ジウが自分で呼吸してみせた。と、深く。腹から。
「お腹が膨らむ呼吸です。胸ではなく、腹から。炎は体の深いところにあるので、深い呼吸の方が伝わりやすい」
マリアが真似た。最初はうまくいかなかった。でも三回目くらいから、変わった気がした。
体の奥の振動が、近くなった。
「……何かが、変わった」
「経路が開いたかもしれない。体が温まると、さらに通りやすくなります」
「あなた、これはどこで学んだんですか」
「独学です。『炎無き者』と判定されてから、炎とは何かを自分で調べました。体のどこにあって、どう機能しているか。わかると、補助する方法も考えられる」
マリアはジウを見た。
「炎無き者」と言われた後、その炎について誰よりも深く調べた。資格がないから諦めるのではなく、なぜそう判定されたのかを理解する。その方向に進んだ。「……あなたは、変わった人ですね」
「よく言われます」
「褒めてます」
ジウの顔が緩んだ。笑う手前の、変化。
「……ありがとうございます」
*
第二の試練は「外との共生」だった。
試練の部屋には、古い記録が並んでいた。王国の歴史。炎の一族の系譜。その中に一つ、異質な記録があった。
ミトコンドリア王国の起源の記録だった。
それによると、王国は元々「外から来た存在」だった。何十億年も前、体の外にあった生命体が、別の細胞の中に入り込み、共に生きることを選んだ。その関係がやがて不可分になり、今の王国になった。炎を生み出す力は、元々この「外来の存在」が持っていたものだ。
試練は、この記録を読み、その意味を「体で理解する」ことだった。
老人が言った。「王国の炎は、あなたのものであると同時に、外から来たものでもある。その二つを同時に感じたとき、第二の試練は終わる」
マリアは記録を読んだ。何度も読んだ。でも「体で理解する」ということの意味がわからなかった。
試練の部屋を出て、ジウに話した。
「外から来た、という感覚が、わからない」
「炎は、自分のものでもあり、自分のものでもない」とジウが言った。「それは、試練の地まで来るこの旅も、同じかもしれない」
「どういうことですか」
「あなたは一人でここに来たのではない。私がいる。『炎無き者』とされた私が、補助している。あなたの試練は、あなたのものだが、一人のものでもない。外からの力を借りている」
マリアは黙った。
「……それが、共生ということですか」
「王国の起源がそうだったように。外から来た存在と共に生きること。それが炎の本質かもしれない」
マリアは神殿の外を見た。山の空が夕暮れで赤かった。
翌朝、試練の部屋に入った。記録の前に立った。深呼吸した。ジウがいることを思った。この人が外で待っている。「炎無き者」とされた人が、自分のためにここまで来た。それが「外から来た力と共に生きること」ではないか。
体の奥の振動が、変わった。
老人がうなずいた。
第二の試練は、終わった。
*
第三の試練は「継承の意志」だった。
これが最も難しかった。試練の部屋には何もなかった。台座もない。記録もない。ただ、石の部屋があるだけ。
老人が言った。「女王になる意志を、炎に示せ。強制された意志ではなく、自らの意志を」
マリアは部屋の中央に立って、考えた。自らの意志。でも私は、「なりたい」とは思っていない。ただ、「なるべきだ」という状況がある。それは意志なのか。
一時間後、マリアは部屋を出た。何も起きなかった。
ジウが外で待っていた。
「うまくいかなかった」とマリアは言った。「意志がわからない。私は女王になりたいのか、ただなるべきだからなるのか、区別できない」
ジウは何も言わなかった。黙っていた。
「……マリア様、一つ聞いていいですか」
「はい」
「なぜ、ここまで来たのですか」
「試練のためです」
「それは理由ではありません。誰かに言われたから来た、ということなら、意志ではない。でも、あなたは出発前夜に母の墓に行きました。なぜですか」
マリアが動きを止めた。
「……見ていたんですか」
「護衛なので。あなたが何をしているか、確認する義務があります。でも邪魔しなかったのは、一人でいる必要があると思ったからです」
マリアは間を置いた。
「……行ってきます、と言いに行きました」
「誰に言われたのですか」
「誰にも。自分で行きたかった」
「それが意志です」
マリアは、ジウを見た。
「誰かに強制されたのではなく、あなたが自分で行きたいと思った。女王になることへの意志は、まだはっきりしないかもしれない。でも、この旅に出ることへの意志は、あなた自身の中にあった」
マリアは何も言わなかった。目の奥が、熱くなった。
翌朝、もう一度試練の部屋に入った。中央に立った。母の墓の前での言葉を思い出した。
「行ってきます」。誰に言われたわけでもなく、自分で言いに行った。その夜のことを、炎に見せた。部屋全体が、一瞬だけ温かくなった。老人が「三つの試練、終わり」と言った。
*
試練が終わった夜、マリアとジウは神殿の外の石段に座った。
空に星が多かった。山の空は空気が澄んでいるので、街では見えない星まで見えた。
「試練が終わりました」とマリアは言った。「ありがとうございます」
「私は試練に参加していません」
「でも、私が終わらせることができたのは、あなたのおかげです」
ジウは星を見た。何も言わなかった。
「……ジウさん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「お母さんのことを、教えてもらえますか」
ジウがマリアを見た。
「なぜ」
「炎の一族の傍系だったと言っていた。それ以上のことを、聞いていなかったので」
ジウは星に視線を戻した。黙った。
「……母は、早くに亡くなりました。私が五歳のときです。炎の一族の遠縁で、傍系の中でも弱い炎の紋しか持っていなかった。それが私に渡るとき、さらに薄くなった、と記録には書かれています」
「記録には」
「自分の炎の紋の判定記録を、後で取り寄せました。母から受け継いだ紋は、継承に必要な濃度の三十パーセントしかなかった、と」
「三十パーセント……それは、全くないわけではない」
「そうです。全くないわけではない。でも、炎の法の基準は五十パーセント以上。私は届いていない」
マリアは星を見た。空が広かった。
「……その三十パーセントの炎を、あなたは今、どう使っているんですか」
「使っていません。炎の法により、資格を持たないと判定されたので、使うべきでないと思っていました」
「使うべきでない?」
「規定外の炎を使うことへの、懸念がありました。認められていないものを使うことへの」
マリアは間を置いた。
「……三十パーセントでも、炎は炎です」
「……そうですか」
「三十パーセントの炎がある人と、ゼロの人は、違います。あなたは炎を持っている」
ジウは何も言わなかった。でも、石段の上で、姿勢が変わった。
*
帰路は三日かかった。
行きと帰りでは、ふたりの間の空気が変わっていた。話す量が増えた。話す内容も変わった。
行きは必要なことしか話さなかった。帰りは、必要でないことも話した。
ジウが子供の頃のことを、話した。父が商人で、炎の一族とは無縁の人だったこと。母が亡くなった後、父と二人で暮らしたこと。「炎の法に縛られない」父の考え方が、ジウの物の見方を形づくった。
マリアも話した。母のことを。女王として生きた人の娘として生まれたことの重さを。でも母が早く亡くなって、その重さを一人で背負うことになったことを。
「……母が生きていたら、色々教えてくれたと思う。でも亡くなってしまったので、何も知らないまま女王候補になった」
「何も知らなくはないでしょう」
「でも、女王になることの意味を、誰にも教えてもらっていない」
「……今回の試練で、少し知ったのではないですか」
マリアは馬の上で、ジウの背中を見た。
「……そうかもしれません。炎は自分のものでもあり、外から来たものでもある。王国は一人のものではない。そういうことを、わかった気がします」
「それで十分だと思います」
「十分?」
「女王は一人で王国を支えるのではない。王国には多くの人がいる。支える仕組みがある。女王は、その中心にいるだけでいい。全部知らなくてもいい」
マリアは考えた。
「……ジウさんは、私が女王になることを、支持しているんですか」
一瞬の沈黙。
「……支持しています」とジウが言った。「あなたが女王になるべきだと思っています」
「なぜですか」
「あなたは、なりたくないと言いながら、出発前夜に墓に行った。なりたくないという感情と、行かなければという意志が、両方ある人は信頼できます。どちらかだけの人より」
マリアは返事ができなかった。
ジウが前を向いたまま、馬を進めた。山の道を、まっすぐに。
*
王都に着く前日の夜、ジウが珍しく自分から話しかけてきた。
宿の食堂に二人しかいない時間に、ジウが「一つ話があります」と言った。
「私の炎の紋のことで」
「はい」
「帰路で、マリア様が『三十パーセントでも炎は炎だ』と言いました。その言葉を、ずっと考えていました」
「どう考えましたか」
「……使ってみようと思います。三十パーセントの炎を。規定外かもしれないが、あるなら使えるはずです」
マリアは驚いた。
「今まで使っていなかったのは、規定に縛られていたから、と言っていた」
「そうです。でも、規定は人が決めたものです。炎の法は自然の理ですが、継承の資格基準は人が決めた数字です。三十パーセントではなく、五十パーセントにしたのは、人の判断です」
「……それに気づいたのは」
「マリア様が、試練の意志を問われたとき、自分で答えを見つけたからです。誰かに正解を教えてもらうのではなく、自分の中から見つけた。それを見て、私も自分で考えることにしました」
マリアは窓を見た。夜の街道が見えた。
「……ジウさんが炎を使い始めたら、烙印が変わるかもしれない」
「変わらないかもしれない。でも、使わないまま終わる方が、もったいない気がした」
マリアは微笑んだ。
「……それも、意志ですね」
ジウが間を置いてから、「そうかもしれません」と言った。
*
王都に戻ったとき、ソフィアが出迎えた。
試練の結果を報告すると、ソフィアは「三つとも終わらせたか」とだけ言った。表情は変わらなかった。でも目が、違った。安堵か、驚きか、どちらかだった。
「継承の儀式は、一週間後に行います。それまでに、準備を整えてください」
「……ソフィア大臣、一つ聞いていいですか」
ソフィアが止まった。
「炎の法の継承基準、五十パーセント以上という数字は、誰が決めたのですか」
ソフィアが、初めて表情を変えた。眉が動いた。
「……三百年前の審議会が決めました。当時、炎の紋の強さを数値化する技術が生まれ、基準が設けられました。当時は濃度しか測れませんでしたが、今は炎の質と安定性まで測定できます」
「三百年前に決まった数字が、今も使われている」
「法とはそういうものです」
「でも、変えることはできますか」
ソフィアはマリアを見た。
「……それは、女王になった後に考えることです」
マリアは頷いた。「わかりました」と言った。でも頭の中で、その問いはまだ続いていた。
*
一週間、マリアは準備を続けた。
継承の儀式の内容を学んだ。女王としての役割を学んだ。王国の歴史を読んだ。
同時に、ジウと毎日会った。特に決めたわけではなく、自然に会うようになった。ジウは宮廷の訓練場にいることが多く、マリアが通りかかると声をかけた。それだけのことだったが、毎日になった。
ある夜、マリアが「ジウさんの炎を、感じてみてもいいですか」と言った。
「感じる、というのは」
「女王の炎は、近くにある炎を感知できると本で読みました。私の炎はまだ弱いですが、あなたの三十パーセントの炎が、どういう形か確かめてみたい」
「確かめて、どうするつもりですか」
マリアは考えた。
「……わかりません。ただ、あなたの炎が本物かどうか、確認したかった」
「本物かどうか」
「三十パーセントでも、炎は炎です。私はそう言いました。でも、私自身がそれを感じてみないと、ただの言葉で終わる」
ジウはマリアを見た。それから「わかりました」と言った。
マリアは手を伸ばした。ジウの胸の近くに。触れない程度の距離で。体の奥の振動を探るように、意識を向けた。
ある。
かすかだが、ある。炎の紋の振動。五十パーセントには届かないが、確かにそこにある。小さいが、温かい。
「……あります」とマリアは言った。「ちゃんと、あります」
ジウは何も言わなかった。でも、マリアが手を引いた後、彼が右手を自分の胸に当てた。炎がある場所を、確かめるように。
マリアはそれを見て、何も言わなかった。
*
継承の儀式の前日の夜、マリアは眠れなかった。
明日、女王の炎を受け取る。正式に。今まで持っていた「生まれながらの炎」に加えて、先代から受け継ぐ「継承の炎」が加わる。それが何を変えるのか、まだわからなかった。
廊下に出た。夜の宮廷を歩いた。訓練場の近くを通ったとき、灯りがついていた。
ジウがいた。一人で、剣を振っていた。誰もいない訓練場で、静かに。
マリアは扉の前で止まった。
ジウが気づいて、剣を止めた。
「眠れないんですか」
「はい。ジウさんも?」
「……私は夜の訓練が習慣なので」
マリアは訓練場に入った。隅の台に座った。ジウが剣を置いた。
「明日、怖いですか」とジウが聞いた。「怖いです」
「何が怖いですか」
マリアは考えた。
「女王になったら、全部が変わる気がして。今の自分がいなくなるような。女王というのは、役職じゃなくて、存在になる気がして」
「存在になる」
「王国を支えるために生きる存在に。それは、今のマリアという個人とは違う何かに、なることだと思って」
ジウは間を置いた。
「……マリア様、一つ言っていいですか」
「どうぞ」
「女王になっても、あなたはあなたです」
「でも――」
「役割は変わります。責任は増えます。でも、お母さんの墓に行ってきますと言いに行った人は、変わらない。試練で自分の中から意志を見つけた人は、変わらない。それはあなた自身のもので、女王という肩書きが奪えるものではない」
マリアは訓練場の天井を見た。
「……ジウさんは、どうしてそんなに落ち着いているんですか」
「落ち着いてはいません。あなたが怖いのはわかります。私も、あなたが変わってしまうことが」
止まった。
「……変わってしまうことが、怖いですか」とマリアが続けた。ジウが間を置いた。短い間だったが、確かにあった。「……そうかもしれません」
マリアは何も言わなかった。夜の訓練場に、静かがあった。
「でも」とジウが言った。「変わっても、変わらない部分がある。それを、私は信じます」
「私の、何を信じるんですか」
「あなたが、あなたであることを」
マリアは台から立ち上がった。扉に向かった。それから一度、振り返った。
「……ありがとうございます。明日、行けそうな気がしてきました」
ジウは何も言わなかった。ただ、頭を下げた。
*
継承の儀式は、王宮の最も古い部屋で行われた。
参列者は少なかった。ソフィアと数人の大臣たち。それからジウ。旧認定基準で「炎無き者」とされた護衛が儀式に参列することは、本来規定外だったが、マリアが「来てほしい」
と言って、ソフィアが認めた。
儀式は古い言葉で書かれた典礼に従って進んだ。継承の石には、在位中の女王が余剰の炎と記憶を少しずつ残す。継承の儀式では、その蓄積が次代へ転写される。マリアが石の前に立ち、手を当て、炎を受け取る。
マリアは石の前に立った。手を当てた。
体の奥の振動が、揺れた。
石から何かが来た。熱い。先代から、その前の代から、さらにその前から積み重なってきた炎の記憶が、一度に流れてきた。マリアの体の奥の振動と、それが重なった。
足がふらついた。
ソフィアが「マリア様」と声を上げた。
マリアは離れなかった。流れてくるものが多すぎて、処理できない。でも離れたら、途切れるかもしれない。
視界の端に、ジウが動くのが見えた。規定外と言われても、こちらに来ようとしていた。
マリアは目を向けた。
来ないで、という意味ではなかった。来てほしい、という意味でもなかった。ただ、見た。
ジウが、ここにいる。それだけを確認した。
ジウが止まった。マリアが見たことに気づいて、止まった。
マリアは石に向き直った。流れてくる炎を、受け取った。全部を。
十分後、儀式が終わった。
マリアは石から手を離した。体が、前と違う感じがした。重さが増したような。でも、軽くなったような。両方あった。
ソフィアが一礼した。参列者全員が、一礼した。
ジウが、一番深く礼をした。
*
式が終わると、二人は王都の外れの秋道を歩いた。
いつものように、ジウは一歩後ろへ下がった。
――と思った。
彼の足が止まる。
長い旅で染みついた護衛の位置へ戻りかけて、戻らなかった。
マリアの隣に立つ。
「今日は、後ろじゃないんですね」
「はい」
「護衛なのに?」
「式は終わりました」
「では、今は?」
ジウは前を見たまま答えた。
「隣を歩きたいだけです」
マリアは何も言えなくなった。
代わりに歩幅を合わせた。
落ち葉を踏む音が、二人分並んだ。
王宮では、マリアの前にも後ろにも大勢の人が立つ。
それでも彼女が欲しかった場所は、一つだけだった。
隣。
ジウはもう、一歩後ろへ戻らなかった。
了




