蜃気楼の街
少年が住む町は、蜃気楼で有名だ。毎年春から初夏にかけて、海上に蜃気楼が浮かび上がる。少年は、幼い頃から蜃気楼を見慣れていた。だからというわけではないが、少年はそんな蜃気楼には興味がなかった。
春先のよく晴れた日、いつものように少年は防波堤に立ち、空と海とが朱色に染まるまで海を見つめていた。それは、母と二人きりになった3年前からずっと続けていることだった。
去年から、仲間が一人加わった。二人とも黙ってただ海を見ていた。それでも、二人には分かっていた。ここにいる目的が同じだということを。
「三浦君、さっきからずっと外を見てるけど、今は授業中だよ。授業に集中しよう」
教室の窓からぼんやり海を眺めていた海斗を先生が注意した。
校舎は高台にあるので、教室から海が見下ろせる。窓の外には、空と海との境界が分からないくらい真っ青な海が広がっていた。
「そう言えば最近、下田君も授業中ぼんやり海を見ていることが多くなったな。二人ともどうしたんだ?」
「先生、蜃気楼の街って知ってる?」
「急になんだ。光の屈折で海の上に浮かんで見える街のことかい」
「違うよ。それは普通の蜃気楼。おれが言ってるのは、桜色の霧の中にあるっていう街のことだよ」
「ああ、この町に伝わる伝説だな。先生もこの町の生まれだから聞いたことはあるよ」
「そこに行くと、海で亡くなった人に会えるって本当?」
「実際、そんな街なんて、あるわけないだろう。都市伝説のようなものだな」
先生は海斗の頭を優しく押さえながら言った。
数日後。
「いってきます」
「また、行くの?日曜なのに、朝早くから出て行っちゃうし。昼ご飯に帰ってきたと思ったら、もう出かけるんだから。いくら海を見ていたって、父ちゃんは帰ってこないよ」
「そんなこと・・・」
「分かっている」という言葉を思わず飲み込んだ。海斗の心の中に、父の死を認めたくないという気持ちがあるのだろう。
「父ちゃんが、操縦ミスなんかするわけないよ。おれ、父ちゃんに会って確かめたいんだ」
「会うったって、会えるわけないだろう」
「蜃気楼の街に行けば会えるよ」
「そんな夢みたいなもの、ありゃしないよ」
「絶対ある。きっと見つける!」
そう言うと、海斗は家を飛び出していった。
「あっ、海斗待ちな・・・。やれやれ」
海斗の父は、漁船の船長だった。
3年前の早春、よく晴れて波の穏やかな日だった。その日父は、漁に出たまま帰らぬ人となった。父の船は、遭難信号を最後に消息を絶ったのだ。海上保安庁や多くの漁船の捜索にもかかわらず、手掛かりのないまま捜索は打ち切られた。
一ヶ月後、近くの島に船の残骸の一部が打ち上げられた。しかし、父を含めて乗組員6名全員の行方は、分からなかった。
船は沈没したと結論づけられた。原因は、不明だったが、船長である父の操縦ミスが、事故を招いたのだと、父を非難する者もいた。
防波堤には、良夫が先に来ていた。早速海斗も自分の持ち場につき、海を見渡し始めた。
二人とも言葉を交わすことなく、じっと海を見つめていた。
「あーーーあ」
春の初めで、ぽかぽかと暖かな気候のせいか、しばらくすると、海斗は眠気を催して大きく伸びをした。目をこすって眠気を払っていた時、海斗は突然叫んだ。
「出た!あれ!」
海斗が指さす先に、うわさ通り、桜色の霧がかかっていた。街は見えなかったが、海斗は、必ずそこにあると信じていた。
「海斗君」
「えっ」
良夫がしゃべったのが意外だった。良夫の声を聞いたのは何日ぶりだろう。
「ぼくも連れてって」
「いいけど。大丈夫か、海」
「ボートの上にいれば平気」
二人は、以前海斗の父が使っていたボートに乗り込むと、蜃気楼の街めざしてこぎ出していった。
近くに見えていた蜃気楼の街は、実際にはかなり遠かった。海斗は、はやる気持ちを押さえながら一生懸命ボートをこいだ。
海は穏やかだった。ボートは、すべるように水面を進んでいった。それでも、良夫と交替でボートをこいで一時間ほどかかった。
霧の中に入ると、霧がねっとりと肌にからみつくような不快感と、視界がきかないもどかしさで、海斗の不安がつのった。しかし、もう後戻りはできない。
しばらく進むと、前方に砂浜が見えてきた。海斗は、砂浜に向かってまっすぐにボートをこぎ進めた。
砂浜の手前までボートを寄せると、海斗はボートから降りた。
「ちょっと待ってて」
海斗はひざまで水につかりながら、良夫が乗ったボートを砂浜に押し上げた。
海斗は霧にかすんだ街の方を見た。蜃気楼の街は、どんな街なのか。どんな危険があるか分からない。だが、ここまで来たら引き返すわけにはいかない。
「ようし、行こう」
海斗は自らを奮い立たせ、良夫と街の中心に向かって歩き出した。
街の中には、霧はかかっていなかった。空は厚い霧に覆われているが、なぜか太陽の光は地上までとどいていた。道路には、自動車など一台も走っていなかった。人通りもなく、街は寂しくひっそりとしていた。
どこからか焼きたてのパンの甘い香りが漂ってきた。海斗と良夫は、誘われるように香りのする方へと歩いていった。
歩道のオープンカフェのテーブルの上に焼きたてのパンが並べられていた。
こちらに背を向けて二人の男が椅子に座っている。側に行くと、男たちは同時に立ち上がって、振り向いた。
「父ちゃん」
「海斗」
懐かしい父の笑顔がそこにあった。
「兄ちゃん」
「良夫」
久しぶりの再会で、言葉につまる良夫。
しばしの沈黙。
「父ちゃん・・・」
「話は後だ。腹、へってるだろう。お前たちのために用意してたんだ。これを食べてからゆっくり話を聞かせてくれ」
二人は、勧められるまま椅子にすわってパンに手を伸ばした。
「食べちゃだめ!」
突然、建物の陰から女の子が飛び出してきて、海斗と良夫の手からパンをたたき落とした。
呆気にとられている二人に、女の子が言った。
「それを食べたら、ここから出られなくなるよ」
海斗は「そんなことあるもんか」と言おうとして、父の方に目を向けた。すると父も良夫の兄も陽炎のようにゆらめいて、全身が透けて消えてしまった。テーブルも焼きたてパンも同時に消えてしまった。
「な、なに?」
訳が分からず、女の子を見た。歳は海斗と同じくらいだろうか。ショートヘアで、まだ肌寒い季節なのにTシャツと短パン姿。しかも裸足だった。
「今のは眠っている蜃の意識が、あなたたちの強い思いに感応してつくりだした幻よ。蜃は、ものすごく大きな貝の化け物なの。蜃気楼の街は、蜃がつくった幻の街。海で亡くなった人の魂は、蜃に囚われてしまうの」
「じゃあ、君も死んでるの?」
「よく見て、影があるでしょ。あなたたちにも、ほら。生者には影があるけど、死者には影がないの。あなたたちと同じで、わたしも生きたまま蜃につかまったの」
「つかまったって!おれたちは、蜃気楼の街に行けば、海で亡くなった人に会えるって聞いて、この街に来たんだよ。
おれは父ちゃんに、良夫は兄ちゃんに会いに来たんだ。でも幻だったのか・・・」
がっくりと肩を落とす海斗に、少女が言った。
「さっきのは偽物だったけど、本物の二人なら、ここにいるよ」
「本当。どこにいるか知ってるの?」
「何年かぶりに蜃が海の上に出てきたの。ここの住人は、地上の新鮮な空気を吸って、暖かな太陽の日差しを浴びることができるって、みんな喜んでる。それで広場でお祭りをしてるの。きっとそこに行けば会えると思うわ」
「その広場って、どこ?」
「案内してあげる。その代わりと言えばなんだけど、わたしをここから連れ出して欲しいの」
「自分で出て行けばいいじゃない」
海斗が不思議そうに言った。
「それができれば苦労しないわ。何度もやってみたけど、砂浜から海に入ったと思ったら、また砂浜に戻ってしまうの」
「どうして、そんなことになっちゃったの」
「食べた・・・」
女の子は、小さな声で言った。
「たぺた?何を食べたって?」
「だから、ここの食べ物を食べたの。おなかがすいてたし、それに、街から出られなくなるなんて知らなかったし」
女の子は、少しむくれたような表情をした。
「だったら、おれたちが連れ出すのも無理じゃない」
海斗は両手を肩まで挙げて、お手上げのポーズをした。
「外から来た生者で、しかもここの食べ物を食べていない者、つまり、あなたたちと一緒なら出ることができるの」
「よくわかんないけど、いいよ、連れてってあげるよ」
「本当。やったあ。じゃあ急ぎましょう。蜃が目を覚ましたら、殻が閉じてここから出られなくなっちゃう」
「君、名前は。あっ、こっちが先に紹介しなきゃな。おれは海斗。こっちは良夫。二人とも地元の小学5年生さ」
「わたしは、デルフィー」
「どこから来たの」
「海のずっとずっと向こうからよ」
「外国から来たの?」
「わたしのことは、どうだっていいから。とにかく急ぎましょう」
デルフィーは不機嫌そうに言った。
広場に近づくにつれて、にぎやかな音楽と楽しそうな笑い声が聞こえてきた。広場には大勢の人が集まっていた。
老若男女、音楽に合わせて楽しそうに歌ったり、踊ったりしていた。人垣の中に、父の姿があった。隣に良夫の兄もいた。
「父ちゃん」
「兄ちゃん」
父と良夫の兄とが同時に振り返った。海斗も良夫も駆けだした。
「父ちゃん」
少しの間、海斗と父、良夫と兄は、お互いの顔を見つめ合っていた。
「海斗、しばらく見ない間に、随分大きくなったな」
父が、海斗の頭をなでた。
「良夫、元気だったか」
「うん」
祭りが最高潮に達したのであろう、踊りの音楽と手拍子が一段と大きくなり、あちこちから歓声が上がった。
「ここでは、なんだ。静かな所へ行こう」
父について狭い路地をぬけた。前を歩く父と良夫の兄には、デルフィーが言った通り影がなかった。やがて一軒の家に入った。
「ここ、父ちゃんの家?」
「まあ、そんなもんだ」
海斗たちは居間に通され、ソファーに腰をおろした。
「ゆっくりしてってくれ、と言いたいところだが、そういうわけにはいかない。ここは死者の街だ。お前たちのような生者の来るところじゃない。できるだけ早く、ここから出た方がいい」
「父ちゃん」
「うん?」
「父ちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「何だ」
「父ちゃんの船が沈没した原因は、何だったの?世間では、父ちゃんが操縦ミスをしたって言ってるんだ。でも、おれ、父ちゃんが操縦ミスをしたなんて信じられない」
「今更そんなことを聞いてどうするんだ。父ちゃんが話したことを世間の連中に話したって、誰も信じちゃくれないぞ」
「それでもいい。おれだけでも本当の事を知っておきたいんだ」
しばらく沈黙した後、父は話し始めた。
「お前の言うとおり、沈没の原因は、父ちゃんの操縦ミスなんかじゃない。あの日、海は波もなく穏やかだった。視界も良好で順調な航海のはずだった。だが、あいつが、突然海の中から現れた。真っ黒で巨大な胴体からクジラかと思ったが、そうじゃなかった。そいつは、潜水艦だった。どこの国のものかは分からない。そいつが船を真っ二つにしたんだ。 あっという間の出来事だった。父ちゃんたちは、逃げ出す暇もなく船もろとも海の底に沈んだんだ」
「やっぱり、父ちゃんは悪くなかったんだ」
「当たり前だ!」
「だけど、この事を世間の人に分かってもらえないのが悔しいよ」
「言いたいやつには、言わせとけばいいさ。お前が、父ちゃんのことを信じてくれるだけで、父ちゃんはうれしいよ」
「良夫」
兄が微笑みかけた。良夫が最後に見た顔と同じ、優しい笑顔だった。
「臆病なお前が、わざわざこんな所まで来たということは、何か訳があるのか?」
「兄ちゃん・・・。なんで・・・。なんで死んだんだよ。ぼくが死ねばよかったんだ・・・」
良夫のひざに大粒の涙がこぼれ落ちた。
去年の夏、浜辺で水遊びをしていた良夫は、波にさらわれて沖まで流された。良夫の悲鳴を聞きつけた兄の健一、がすぐに助けに来た。そして、水の中でもがいていた良夫の体を横から抱えた。
「良夫、もう大丈夫だ」
健一は微笑んで、持っていた浮き輪を良夫の頭からすっぽりとかぶせた。
「兄ちゃん、あ」
そのとき、一際大きな波が二人を飲み込んだ。良夫が水の上に顔を出したときには、健一の姿はなかった。
「兄ちゃーん」
声を限りに叫んだが、返事は返ってこない。
それから再び健一が水面に上がってくることはなかった。こうして健一は16年の短い生涯を閉じた。
明るくて優しく、成績優秀でスポーツも得意な健一は、両親にとって自慢の息子だった。 それに比べ良夫は、引っ込み思案で人と話すのが苦手、成績も中の下だった。スポーツもあまり得意な方ではなかった。
元々口数が少なかったが、兄が亡くなってからは、さらに口数が減った。家族ともほとんど口をきかなくなった。
兄が亡くなってから両親は、ふさぎがちになった。そして、良夫に冷たくなり、何かにつけつらく当たった。健一が死んだのは、良夫のせいだといわんばかりの態度だった。
良夫の心の中に、自分がおぼれなければ、兄は死ななかったという後悔の念が日増しにつのっていった。だんだん自分が死んだ方がよかったと思うようになった。
「母ちゃんも父ちゃんも、ぼくのことなんかどうでもいいんだ。ぼくが死んだほうがよかったんだ」
兄に会って、押さえていた感情が涙と一緒に一気にあふれ出した。
「良夫も苦労してるんだな。でもな、父ちゃん、母ちゃんも苦しんでいるんだ。今は二人とも兄ちゃんを亡くした悲しみで頭がいっぱいで、良夫のことを考える余裕がないだけさ。そのうちきっと気がつくはずさ。良夫も、父ちゃん、母ちゃんにとって、かけがえのない存在だってことに。時が悲しみをいやしてくれる。そのときは、今よりずっと愛情を注いでくれるようになるさ」
「兄ちゃん」
良夫は、涙をふいて顔をあげた。
「何だ、あらたまって」
「ありがとう。それから、ごめんなさい」
良夫は、兄に会ってこの言葉を伝えたかった。海でおぼれたとき、言えなかった言葉。助けてくれた兄への感謝の言葉。それと自分を助けたために死んでしまった兄への謝罪の言葉。
「良夫が謝ることなんて何もないよ」
「だって、ぼくがおぼれたりしなきゃ・・・」
「そうやって自分を責めるのはやめろ。兄ちゃんが死んだのは、良夫のせいじゃない。兄ちゃん、良夫のことちっとも恨んでないよ。良夫が生きててくれてよかったって思ってる。だから、死んだほうがいいなんて考えないで、兄ちゃんの分まで長生きするって約束してくれ」
「そうだぞ、良夫君。過去は変えられない。いつまでもくよくよしてないで、前を向いて生きるんだ。その方が、お兄さんも喜んでくれるはずだ」
「・・・分かった。約束するよ」
兄と会って自分の気持ちを伝え、さらに、ずっと押さえていた感情をはき出すことができた良夫は、胸のつかえがおりたように晴れ晴れした気持ちになった。
そのとき突然、大地が大きく波打った。
「蜃が目覚めかけている。そろそろ帰った方がいい」
父が席を立った。海斗たちも続いて立ちあがり、外に出た。夕方になり、辺りは薄暗くなっていた。
「我々は、ここで見送ることにしよう。いつまでも別れを惜しんでいては、お前たちまで蜃に囚われてしまうからな」
「父ちゃん、また会える?」
「それは、分からん。蜃は気まぐれだ。それに、人間よりもずっとずっと長生きだ。今度海上に出てくるのは明日かもしれないし、何十年、何百年先になるかもしれない」
「父ちゃん」
海斗の目に涙がにじんだ。
「泣くな、海斗。強くなれ。立派な大人になって、父ちゃんの代わりに母ちゃんを守ってくれ」
父は、強く海斗を抱きしめた。
「兄ちゃん、一緒に帰ろう」
「それは無理だ。ここからは出られない。それに、もし出られたとしても、良夫と一緒にはいられないんだ。兄ちゃんは、もうこの世の者じゃない。それは、分かるだろう」
「うん・・・」
「デルフィー、やっとこの街から出られるな。二人のこと頼んだよ」
父がデルフィーの手をしっかりとにぎった。
「まかせといて」
「二度とこんなところに迷い込むんじゃないぞ」
「わたしだってこんなとこ、二度とごめんよ」
「時間があまりない。急いだ方がいい」
健一が言った。
「さあ、行きなさい」
父が、海斗の肩をぽんと押した。
「良夫、デルフィー。急いで脱出するぞ!」
海斗は、自分自身を奮い立たせるように、声を張り上げた。
三人は、海岸へ向かって歩き出した。霧が次第に濃くなっていく。まるで三人の行く手を阻むかのように。
「さようなら」
三人が振り返ると、父と健一が手を振っていた。
「さようなら」
三人も手を振って応えた。しかし、すぐに深い霧が、父と健一の姿を隠してしまった。
三人の姿が見えなくなった後も、父と健一は、三人が去っていった方向をずっと見つめていた。
やがて、すぐ側にいる人の輪郭が、ぼんやりとしか見えないくらい、霧が濃くなった。
「離ればなれにならないように、手をつないで」
デルフィーが海斗と良夫の手を取った。
「放さないように、しっかりにぎって」
「これじゃあ、海岸の方角が、ぜんぜんわかんないよ」
「大丈夫、わたしにまかせて。潮の香りがする。こっちよ」
デルフィーが、二人の手を引き、しっかりした足取りで歩き出した。
海斗たちは、デルフィーのおかげで深い霧の中から、迷わずに抜け出し、海岸までたどり着くことができた。
海に立ちこめていた霧は、うそのように晴れていた。
砂浜に置いていたボートが、満ち潮で沖に流されていた。
「ボートまで泳ぐぞ」
海斗が声をかけたが、良夫は凍りついたように全く動こうとしない。おぼれたときの恐怖が、よみがえり足がすくんだのだ。良夫は海でおぼれてから、海に入ることができなくなっていた。
そのとき、良夫に兄の声が聞こえた。
「良夫、勇気を出すんだ。兄ちゃんと約束したろ。兄ちゃんの分まで長生きするって」
「兄ちゃん・・・」
「良夫、頑張れ」
「良夫君」
海斗が励まし、デルフィーが良夫の手をぎゅっとにぎった。
良夫は、大きく深呼吸をした。
「良夫、いくぞ。せーの」
海斗のかけ声とともに、良夫は、勇気をふりしぼり足を一歩踏み出した。
デルフィーも、不安そうに海に足を入れた。
「やったー。街から出られた」
デルフィーは、飛び上がって喜んだ。
だが、まだ蜃の殻から出てはいない。
「良夫、やったな。ボートまで泳げるか」
「む、無理」
「しようがないな。おれの肩につかまれ」
「あそこまで人をつれて泳ぐのは大変よ。わたしにつかまって。わたし、泳ぎには自信があるの」
「それなら、おれだって」
「今言い争っている暇はないわ。ここは、わたしにまかせて。良夫君、わたしの腰につかまって」
「で、でもー」
「ぐずぐずしないで、早く!」
蜃の殻が、三人の頭上近くまで下りてきていた。
良夫はデルフィーの腰をしっかりと抱え込んだ。デルフィーは、良夫に腰をつかまれていることなど感じさせないくらい、すいすいと泳いだ。水泳が得意な海斗より、はやくボートに着いた。
ボートには、海斗が先に乗り込み、良夫を引き上げた。
街の方を見ると、ちょうど殻を閉じた蜃が、ゆっくりと海に沈んでいくところだった。
「デルフィー!」
海斗が海の中のデルフィーに手を差し出した。
「わたしのことはいいから、もっと蜃から離れないと。ボートもいっしょに海の中に引き込まれてしまうわ」
「ない!オールがない。どうしよう、ボートをこげないよ」
海斗が、あわててボートの中を探している。
海中へ沈んでいく蜃の起こした渦がボートへと迫る。
「つなを投げて」
「どうするの?」
「いいから、早く」
言われるまま海斗は、ともづなをデルフィーに投げた。つなを受け取ったデルフィーは、海に潜った。
すると、ゆっくりとボートが動きだした。ボートは少しずつ速度を増して、ぐんぐん沖へと進んでいった。後ろの方からぶくぶくと蜃が海に潜る音が聞こえた。
蜃が沈んでしまう前に、ボートは、なんとか安全な距離まで離れることができた。海斗は安心すると同時に、デルフィーのことが心配になった。ボートの先から海をのぞくと、大きくて黒い魚影が見えた。水面から鋭い背びれが突き出ている。
「うわっ、サメだ!」
海斗は、あわてて転びそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「デルフィー」
ボートの縁から、海に向かって呼びかけた。
「ピー」
サメが返事をした。よく見るとサメだと思ったのはイルカだった。イルカが、ともづなを口にくわえて、ボートを引っ張っていた。
「デルフィー」
もう一度呼ぶと、再び「ピー」という返事。
「良夫。デルフィーが、イルカになっちゃったよ」
海斗は、ひどく驚いた。
「へえー」
「へえーって。驚かないの?」
「だってぼくたち、もっと不思議な体験をしたじゃない」
「えっ」
一瞬何のことか分からず、ぽかんとしていた。
「あっ、そうか、そうだね。あははははっ」
二人とも声を出して笑った。良夫がこんなに笑うのを見るのは久しぶりだと、海斗は思った。
海は、何事もなかったかのように穏やかだった。太陽が、西の海に沈もうとしていた。
イルカのデルフィーに引かれたボートは、無事港に帰り着いた。
ボートを岸に着けると、デルフィーは、海から頭を出し、二人に向かって「ピピーピピ」と鳴いた。まるで「さようなら」と言っているように。
それから、空中に高くジャンプして、沖へ向かって泳いでいった。水平線に沈む太陽から、海面に真っ直ぐのびた金色の路を、跳ねながら。
「さようなら、デルフィー」
二人は、デルフィーが見えなくなるまで岸壁から手を振った。
「海斗君。デルフィー、ちゃんと仲間の所に帰れるかな?」
「心配ないさ、デルフィーならきっと」
「おれたちも家に帰ろう。バイバイ、良夫。またな」
「バイバイ、海斗君。またあした」
二人は、笑顔で別れた。
家路をたどる二人の足取りは軽かった。
二人とも今日のことは、自分だけの胸にしまっておこうと思った。




