第五話 バチバチの火花
長泉は、衣服を汚さぬよう白衣のボタンを端正に留めたまま、培養槽のガラスのすぐ目の前に立っていた。その濁った、けれど底知れない双眸は、液体の中で緩やかに揺れる器の肉体を、食い入るように見つめている。
「なるほど。これは驚きましたね。情報工学による電気信号のパスと、合成生物学による人工細胞核の結合が、これほど高密度で融和しているとは。お二人の構築したこの配列は、控えめに言っても神の領域ですよ」
長泉の口から漏れ出たのは、感嘆の言葉だった。病院の跡取りとして、幼少期から最高峰の医学と生体組織の限界を見続けてきた彼だからこそ、この白紙の肉体がどれほど凄絶な論理の積み重ねによって形を成したのかが、一目で理解できたのだ。
しかし、長泉はすぐにその視線をモニターのバイタルグラフへと移し、口元に冷酷な笑みを浮かべた。
「ですが、だからこそこれは美しい死体に過ぎない。あなたたちの論理は完璧ですが、肝心の細胞に『生きろ』という命令が下っていませんよ」
「死体だと?」
悠一が、椅子の背もたれに身を預けたまま、低い声で応じた。シャツの袖口をわずかに手繰り寄せながら、長泉を射抜く。
「論理としての不備はない。環境定義の依存関係もすべて解決している。なぜこれがアポトーシスを起こす」
「簡単な話ですよ、柿枝先輩。あなたたちが組んだのは、回路であって生命ではない」
長泉はポケットから取り出した医療用メスを、指先で滑らかに、チカチカと銀色の光を放たせながら回転させた。顕微鏡を使わずに極小の縫合を行う指先が、流れるような運動エネルギーでメスを遊ばせている。
「人間の肉体は、ただ配置されただけでは動きません。心筋も、神経も、すべての細胞が『環境に適応して自律駆動を開始せよ』という物理的な刺激を待っている。……この緩やかなアポトーシスを叩き潰すには、外部から直接、微弱な生体パルスを叩き込むしかない。心臓の電気ショックと同じ原理です。臨床の現場では、これが最も早くて確実な蘇生の手順ですよ」
その丁寧な、けれど医学の優位性を確信した長泉の提案に対し、真っ向から激しい拒絶の声を上げたのは、里村だった。
「――馬鹿なことを言わないでください! そんな粗暴な出力を加えたらどうなるか、あなたには想像もつかないのですか!?」
里村はデスクをバンと叩いて立ち上がった。その手元には、すでに三缶目となるエナジードリンクの空き缶が、寸分の狂いもなく垂直に置かれている。眼鏡の奥の瞳を怒りで烈火させながら、里村は長泉に詰め寄った。
「私たちが構築した人工細胞核の根幹には、ナノグラフェンによる超微細な演算回路が組み込まれているんです! 外部からそんな無制御な高電圧パルスを力任せに叩き込んだら、その瞬間にグラフェン回路が過電流でショートして、結合中のDNAごと一瞬で灰になりますよ。あなたのやろうとしていることは、精密機械のサーバに直接雷を落とすようなものです。臨床だか何だか知りませんが、現場のドクターはいつもこれだから困る。物理構造をリスペクトしない力技は、ただの野蛮な破壊行為です!」
「野蛮、ですか。随分と言ってくれますね、里村くん」
長泉はメスをピタリと止め、その刃先を里村の鼻先へと向けた。口調こそ静かで丁寧だが、その物腰の裏には、同じ年齢の天才に対する明確な不敵さが満ちていた。
「いくら構造が美しかろうが、動かなければただの生ゴミですよ。あなたたちのその繊細なグラフェンを守るために、この器が静かに腐り落ちていくのを、指をくわえて見ていろと言うのですか? エンジニアのプライドのために生命を殺すくらいなら、ショートのリスクを背負ってでも電極を突き刺す方が、遥かにロジカルな延命処置だ」
「だからそれが、ロジカルではないと言っているんです! 構造が崩壊すれば延命も何もありません!」
里村は、ガサツにエナジードリンクの四缶目を開けると、一気にそれを飲み干した。そして、その空き缶を、既存の三つの缶の上にカチリ、とミリ単位のズレもなく積み重ね、見事な三角形の土台を構築し始めた。極限の集中状態である。
「必要なのは、細胞一つ一つに対して、グラフェン回路が許容できる極小単位の入力を、完全に独立した状態で、かつ完璧な同期制御で行うことです。それができない限り、あなたの電気ショックはただの処刑宣告だ!」
「独立した最小単位の入力? 冗談を言わないでいただきたい」
長泉は一歩、里村に歩み寄り、慇懃無礼に首を振った。
「人間の指先で、数億におよぶ細胞のすべてにそんな微小電極を一本ずつ刺し分けろと? 顕微鏡を使ったって、物理的な空間の限界で不可能です。あなたの頭の中の理想は、現場の三次元の肉体を無視している。だからあなたのコードは、いつまで経っても空回りするんですよ」
「物理が追いつかないなら、あなたのその自慢の『神の指先』とやらはただのハサミと同じだ、この解剖マシーンが!」
「あなたこそ、そのアルミ缶ピラミッドに脳みそごと等価圧縮されていろ、この引きこもりエンジニア!」
深夜の研究室で、同い年の二人の天才が、激しく火花を散らして罵り合っていた。
里村は、寸分の狂いもない構造の安全性を守るために、エナジードリンクの缶を狂気的な精度で積み上げながら論理を研ぎ澄ます。長泉は、肉体という冷酷な物理を動かすために、メスの刃先で空気を切り裂きながら臨床の現実を突きつける。
水と油。工学と医学。完璧な理論と、泥臭い現場。
交わるはずのない二人のロジックが、互いのプライドを懸けてバチバチに衝突し、互いの限界を容赦なく暴き立てていく。
だが、そのバチバチとした摩擦こそが、彼らを結ぶ最高の対話だった。相手の専門領域の正しさを認めざるを得ないからこそ、その不完全さが許せない。二人の天才による剥き出しの技術論争が、狭い研究室の空気を、爆発寸前の熱量へと沸騰させていく。
――その時だった。
二人の怒号の残響を裂くように、デスクの後方から、乾いた、けれど圧倒的な質量を持ったタイピング音が響いた。
タン、タン、タン。
それは、二人の激烈な衝突を特等席で眺めていたゲームマスター――柿枝悠一の指先が奏でる音だった。
「おい、お前たち」
悠一の低くよく通る声が、室内の熱を、一瞬にして氷点下へと凍りつかせた。
里村と長泉は、言葉を飲み込んで同時に悠一を振り返った。悠一は蒼白いモニターの光を浴びながら、その唇の端を、これまでにないほど愉しげに、そして傲慢に吊り上げて笑っていた。
「里村、長泉。お前たちのその、出来の悪い小競り合いのおかげで、今、最適解が導き出されたぞ」
「え?」
里村が眼鏡の位置を直しながら呟く。悠一はモニターを二人の方へと回転させ、そこに展開された新たな数式モデルを指し示した。
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