第5話 心あてに 折らばや折らむ 初霜の
翌日。金曜日。
澪がページを繰っていると、机に白い筋がすっと走った。木目に沿うでもなく、まるで侵食するかのように、霜が広がっていく。
澪は、待っていました、と言わんばかりに立ち上がった。
和歌の世界の入口からは、冷気が流れ込んできていた。目に見えるほど、真っ白に霞んでいる。
自分の腕に視線を落とすと、そこには露になっている素肌がある。ここに単身、半袖で乗り込むのは、あまりにも無謀に思えた。
そんな澪に構うことなく、冷気は迫り、広がっていく。当然澪も巻き込まれたが、そこでとある違和感を持った。
思った以上に平気だったのだ。もちろん寒さは感じるものの、身を竦めるほどではない。せいぜい肌寒い止まりである。もっと容赦なく、寒さが骨に沁み込んでもいいはずだ。
感覚が鈍ったと言うべきか、必要な分だけ感じさせられていると言うべきか。いずれにせよ、想像していたよりも問題ないように感じられた。
訝しく思いながらも、紫乃に会うためには、この中に踏み込んで行く他なかった。実際に行ってみれば、この違和感についても何かわかるかもしれない。
「……行くよ、紫乃ちゃん」
少し気合いを入れ直すと、澪は立ち上がった。霜の走る床を辿り、その先へと足を向けた。
本棚の奥へ踏み込むほどに、足元の白が濃くなっていった。霜は層を成し、踏み締める度に感触を主張する。靴底の下で、細かな結晶がシャリシャリと砕ける。
その乾いた響きに耳を傾けているうちに、本棚の列は途切れ、視界が開けた。
そこは、日本庭園だった。地面は緩やかな起伏を描き、曲線が重なり合っている。人の手で整えられているように見えながらも、どこか自然に任せたような余白が残されていて、その曖昧さが日本古来の美意識を彷彿とさせた。
そしてその全てが、薄く白み掛かっていた。一面に張りついた霜が、芝も土も石も、区別なく包み込んでいる。植え込みの低木は葉先まで白く縁取られ、枝という枝が細い氷の線でなぞられていた。
よく見ると、ところどころに白い花が咲き乱れている。それなりの大きさがあるのに、霜と同じ色をしているせいで、遠目だと周囲の景色に溶け込んで見える。
音はほとんどなかった。池は凍っているわけでもないのに、その水面は微動だにしていなかった。虫の気配も、鳥の気配もない。ぴんと張りつめた静けさが漂っていた。
素人目に見ても、この日本庭園はよく手入れが行き届いていた。しかし、そこに人の影はなく、ただ景色だけが残されている。霜に覆われた庭園は、まるで時間そのものが凍りついたかのように、白い沈黙の中に佇んでいる。
そこで澪ははっとし、紫乃の姿を探して視線を巡らせた。
背後に隣接するように、平安貴族の屋敷のようなものが建っていた。そしてその縁側に、一人座る影が見える。この屋敷や庭園に相応しいような淡い色の着物に身を包み、庭を眺めている。白い景色の中でも、その姿は埋もれていない。
澪は、霜を踏み鳴らしながら駆け寄った。一歩一歩踏むたびに鳴るシャリシャリという音が、静まり返った庭園に自分の存在を刻んでいく。
「紫乃ちゃん」
呼び掛けると同時に、紫乃も振り向いた。
「澪さん」
名前で呼ばれて、澪の顔が思わず綻ぶ。ほんの一言なのに、それだけで胸の奥が少し軽くなる。
澪は勢いをつけて、そのまま縁側にぴょいと飛び乗った。紫乃の右隣に腰を下ろし、紫乃と同じ景色を見る。
「今日も来たよ! で、今日の歌は?」
弾んだような声でそう尋ねると、紫乃は歌を詠み上げた。早朝の澄んだ空気の中で、その声はよく通った。
――心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
余韻が、霜の張った庭に静かに落ちる。
澪は少し考えるように首を傾げると、
「うーん……意味はよくわからなかったけど……最後の『白菊の花』っていうのは、なんか素敵」
紫乃は小さく笑う。
「いいセンスですね」
からかうように言われ、澪も肩を竦める。
紫乃は視線を庭へ戻し、コホンと軽く咳払いをした。
「真っ白な霜が降りて見分けが付かなくなっている白菊の花を、当てずっぽうで折ってみよう、ということです」
「当てずっぽう?」
「はい。霜か花かわからないけど、とりあえず手に取って折ってみよう、と言ったところでしょうか」
「ちょっと大袈裟すぎない?」
「まさにそうなんです」
鋭いですね、と言いながら澪の顔を覗き込んだ。
「この歌は誇張しすぎて、現実離れしているって批判されたこともあるんです」
「やっぱりそうなんだ。まあ、目の前の霜と花くらいわかるはずだもんね」
紫乃は静かに頷くと、視線を庭園の遥か先へと飛ばした。
「でも、私はこの表現は好きです。真っ白な霜に覆われた庭園と、そこに咲く白菊の花。この幻想的な風景の表現方法としては、これくらいの誇張はむしろ良いと思ってます」
「確かに……」
改めて、今回の歌を噛み締めてみる。盛られているのは承知の上で、それでも神秘的な様子を詠んだ、美しい歌だと感じた。
「そして今回の歌は、多分こういうことです」
そう言うと、紫乃は縁側から跳ねるようにして下りた。霜を踏む小さな音を立てながら、近くに群生している白菊のもとへ歩み寄る。その中の一輪に、ためらうことなく手を伸ばした。
紫乃の指先が花弁に触れた、その瞬間。
ついさっきまで、確かに白菊だったはずのものが、ふっとその質感を失い、氷の塊へと姿を変えた。直後、ぱきりと乾いた音がしたかと思うと、触れた箇所から亀裂が走り、花全体を覆い尽くす。そのまま静かに、バラバラに砕け散ると、穏やかな風に乗ってどこかへ飛んで行った。
「……」
その様子を黙って見ていた澪に、紫乃が淡々と告げる。
「この世界では、それは誇張ではありません。本当に、白菊と霜の見分けが付かなくなってしまっているんです」
紫乃はその隣の白菊を再度摘まむと、それも同様に霜へと変わり、あっけなく砕け散った。
「本物の菊がどれなのか……本当に、当てずっぽうになっちゃったってわけね」
紫乃は振り返り、小さく頷いた。
「そういうことです」
紫乃は、砕け散った花の余韻を振り払うように、くるりと体を回す。そのまま縁側へ戻ると、澪の横に腰を下ろした。ただし、先ほどよりもほんの少しだけ――十数センチほど、間隔が広くなった気がした。
澪はそんなことは気にも留めず、確かに見ただけじゃわかんないかも、と小さく呟きながら、目の前に並ぶ白菊とにらめっこしていた。
紫乃は座り直すと、改めて白い庭園を眺めた。その様子を見て、澪もつられて眺めた。
縁側という額縁越しに切り取られた景色は、どこまでも白い。霜に覆われた地面、点々と浮かぶ白菊、輪郭の曖昧な池や石。その全てが静まり返り、早朝の光を受けて淡く輝いている。
そのまま数分間経っただろうか、鑑賞に耽っているうちに、澪はふと、あることに気付いた。
「今更だけどさ」
自分の腕を見下ろし、澪は苦笑する。
「そういえば今のわたし、半袖なのにあんまり寒くないんだよね。紫乃ちゃんも大丈夫?」
「大丈夫です」
紫乃はそう短く答えると、何かを思い出したようにして、
「この世界では、気温も和歌の言うがままです。今回の和歌は寒さがテーマではありませんから、あまり反映されていないんでしょう」
「こういうところでも、やっぱり和歌の言葉が絶対なんだね」
「はい。和歌が絶対ってことは逆に、言葉になっていない部分は曖昧になるってことです」
「確かに、今までも暑さや寒さを詠んだ歌はなかったし、あんまり感じたこともなかった気がする」
これまでの和歌とその世界を軽く思い返しながら言う。
「……あ! 今気付いたんだけど、もしかして今日で四季制覇しちゃった感じ?」
秋の紅葉、春の桜、夏の夜。そして今日、冬の霜である。
「……昨日の『朝ぼらけ』が冬の歌なので、四季は昨日の時点で制覇してますね」
少し考えるようにした後、紫乃が言う。
「あ、そうだったんだ」
「網代木が冬の季語ですからね」
「なるほど……まあでも、ザ・冬っていう感じの歌は今日が初めてだから!」
「ちなみに今日のは秋の歌です」
「え?」
紫乃が悪戯っぽく笑う。
「和歌を分類する部立てって言うものがあるんですけど、そこでは秋になっていますね」
「へぇ……そうなんだ。全然秋っていう感じはしないけどね」
「そうですね。実際は秋と言うよりも、秋の終わりから冬の始まりくらいの時期でしょうか」
「あ、確かに。言われてみるとそんな感じかも」
秋だと違和感があるが、そう言われると納得感がある。
「そういえば……澪さんが来てからは季節の歌ばかりですね」
「それはさっき言ってた……部立て?ってやつの話?」
「はい。百人一首の四季の歌は、全部で大体三十首くらいなんです」
「あれ、思ったより少ないんだね。ちなみに他のは?」
「一番多いのは……恋ですね。四十首以上あったはずです」
「半分近くが恋なんだね」
「そうですね。当時の平安貴族の間では、恋愛に和歌は付きものでしたから」
「恋愛ねぇ……紫乃ちゃんって、恋愛したことある?
「……!」
澪からの突然の質問に、紫乃は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「もう……そんな話はいいですから、そろそろ本物の菊を探しましょう」
澪は少しからかってみようと思っていたが、話を逸らされ、まんまと逃げられてしまった。
紫乃はそう言うと、身を乗り出して縁側から下りた。着地時の霜を踏む音が、早朝の庭園に響く。
紫乃は軽く着物を整えると、すたすたと歩き始めた。
再び先ほどの菊が群生しているところで止まると、迷いなく花へ手を伸ばした。摘まみ上げた瞬間、やはりそれは虚しく散る。
ぱきり。ぱきり。
紫乃はまさに当てずっぽうというように、次々と花を掴んでいく。乾いた音とともに、順々に花は砕け散る。白い欠片が風に煽られ、庭の白へ溶けていく。
澪も縁側から下りると、加勢しようと庭へ一歩踏み出した。そのとき――ふと、ある可能性が脳裏をよぎった。
「あのさ、もしかしてなんだけどさ……」
澪は紫乃の背に向かって声を掛けた。
「本物の白菊を見つけたら、いつもみたいに元の世界に帰される感じなのかな?」
その瞬間、紫乃の手がピタッと止まった。
「……」
少し待ってみても、返答はない。
二人の間に漂う妙な空気を誤魔化すように、澪は言葉を続けた。
「じゃあさ、もしかして白菊を探さなければ……もっと紫乃ちゃんと一緒にいられるんじゃない?」
そこまで言うと、少しの間を置いて、紫乃は白菊を折る手を再開した。
「……そういうわけには、いきません」
澪の位置からは、ちょうど紫乃の顔が見えない。その表情を伺い知ることはできない。
「どうして?」
「この世界に、あまり長時間いるのはおすすめできません。私と……同じ轍を踏んで欲しくないんです」
「同じ轍?」
「……いえ、何でもありません。とにかく、早く探さないといけません」
声が大きかったり、低かったりするわけではなかった。それなのに、その言葉はずっしりとした重さを帯びていた。そして、これ以上の追及を許さない雰囲気も纏っていた。数日前、あの桜の木の下で感じたものと、同じ空気だった。
紫乃の言葉の真意を測れないまま、澪は色々と言いたいことを飲み込むと、白菊探しに加わることにした。
せわしなく調べている紫乃の右隣に立ち、目の前に咲く数輪の白菊の花へと視線を落とした。
花びらは細かく、幾重にも重なっている。それらは中心から放射状に広がっており、霜の結晶を彷彿させる形だった。近くで見てみると、その花は意外と白一色ではなく、中心に行くにつれて滲むような緑色をしている。
地面からすっと伸びた茎は細いながらも、確かにそこに立っていた。この寒さの中を、じっと耐え抜いただけの力強さを感じる。
触れればすぐ消えてしまいそうな繊細さと、確かに存在していると主張するかのような生命力を同時に感じる。澪が手を伸ばした瞬間に砕けても砕けなくても、どちらに転んでもおかしくないように思えた。
そこで澪は、今回の歌を改めて思い返してみた。心あてに――当てずっぽうにと言っているのだ。よく観察しても意味がないことを悟り、一歩引いたところから白菊を見てみた。
その中の一輪が、ピンと来た。根拠は何もない。色も形も、周りの他の花と大差ない。ただ、何となく、雰囲気が少しだけ違うような気がした。まさしく当てずっぽうだ。
澪は恐る恐る手を伸ばし、その茎に触れてみた。
そこには、確かな感触があった。しかし、霜や氷の硬さではない。細いけれども、折れずに応える生命力――植物の感触だった。
澪の手が、白菊を確かに握り締めていた。
「……あった…………」
思わず声が漏れた。
それを聞き、紫乃は手を止め、パッと振り返った。すぐさま駆け寄って来ると、澪の手元に収まった菊を覗き込んだ。
「……本物ですね」
紫乃が静かに頷く。
「うん、一発で見つけちゃった」
「凄いです……私は全然見つけられなかったのに……」
「まぐれまぐれ! 当てずっぽうで適当に選んだだけだから」
左手をぶんぶん振りながら言う。
「何にせよ、ちゃんと見つかってよかったです」
澪は、そう言う紫乃の表情を見つめた。その言葉通り、安堵しているようなのは間違いなかった。だがそこに、ほんのわずかな陰りが混じっているように見えた。喜びながらも、何かが引っかかっているような顔。そしてそれが、先ほどの含みのある言い方に、何か関係があるような気がしてならなかった。
「歌の通りなら……それを折ってみればいいんじゃないですか?」
固まったままの澪に、横から紫乃が声を掛けた。
「あ、うん。そうだね」
別のことを考えていたせいで、変な返事をしてしまう。
気を取り直し、紫乃の言う通りに茎を曲げてみた。左手で茎の元を押さえ、右手を倒す。
生物ならではの反発を手に受ける。霜や氷ではこうはならない。白菊の存在をひしひしと感じながらも、そのまま右手を押し込んだ。
ぽきっと小さな音を立て、茎はあっさりと折れた。実際に持ってみると、花は思ったよりも軽い。しかし、折れてもなお、その存在感は確かだった。
そのとき、庭園を切り裂くように、寒風が吹き抜けた。
「寒っ」
澪は思わず声を漏らし、身を竦めた。紫乃も反射的に、体を縮こませていた。
「やっぱり、折るので正解だったっぽいね」
「そうですね」
二人で手元の白菊に視線を落としながら言った。
「あ、そういえば」
今回も別れの時間が近付いてきて、話しておかなければならないことを思い出した。
「今日って金曜日じゃん。土日の間は来れないからさ、二日間空いちゃうけど、ごめんね」
「なんで澪さんが謝るんですか。それに……別に、そんなこと言われなくても私は大丈夫です」
「本当? わたしがいなくて、寂しくなっちゃうんじゃない?」
「……大丈夫ですから!」
澪がからかい、紫乃が反応する。もう何回かやったことがあるやりとりだ。
そのはずなのに今回、澪は少しばかり違和感を覚えた。どこか、紫乃が無理をしているように感じられた。
恐らく、本当は大丈夫ではない。この一週間で、紫乃の人となりは少しずつわかってきたつもりだ。こういうときに、彼女は本音を言うことができない質なのだ。
「絶対、また月曜日になったら来るから! わたしもまた会うのを楽しみにしてるから、それまで待ってて!」
咄嗟に、そう口を開いた。その瞬間、わずかに強張っていた紫乃の表情が緩んだ気がした。
「はい。お待ちしてます。また……月曜日ですね」
「うん、また月曜日」
その言葉を最後に、風が一気に強まっていった。まるで風に攫われるようにして、世界から引きずり出される。視界がぼやけ、白い庭園が遠のく。
最後にいくらか表情が明るくなった紫乃を見られたことに、澪は安心して、そのまま目を閉じた。
目を開けると、そこはやはり放課後の図書館で、澪は机に突っ伏していた。
普段は感じないほどの、わずかな木の温もりを感じる。これ程ありがたいと思ったのは初めてだった。
だが、それもほんの一瞬のことで、またすぐに夏の空気を思い出す。さっきまで温かく感じていたはず机も、今の気温に比べるとむしろひんやりとしている。
澪はゆっくりと体を起こした。そこで初めて、さっきまで手に握っていたはずの菊がなくなっていることに気付いた。やはり、あの世界から何かを持ち帰って来ることはできないようだ。その代わりとでも言うかのように、今日も本に栞が挟まっている。
『心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花』
その栞の裏には、一輪の白菊が描かれていた。背後には、花と見分けがつかないほど白い霜。その境目は曖昧で、少し遠くから見れば、それらの見分けは付かなくなる。
紫乃にも告げた通り、土日は休館日で、ここには来ることができない。普段は気にしていないのに、今日はそれをやけに惜しく思った。
「……また月曜日、か」
澪は小さく呟き、栞を本に挟み直した。




