第4話 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
澪は、教室で孤立しているわけでも、友人がいないわけでもなかった。むしろ、コミュニケーション力は高い方だった。
朝、登校して自分の席に鞄を置けば、周りの席の誰かに「おはよ」と声を掛けられる。澪も適当に挨拶をする。するとそのまま、軽く談笑が始まる。
最近の流行の話。昨日の投稿がどうだとか、カフェチェーンの新作がどうだとか。それから、授業についての話。今日の時間割がだるいとか、何限に小テストがあるらしいとか。
そんな他愛のない会話を交わしているうちに、朝礼開始のチャイムが鳴る。
昼休みも同じだった。近くの席の人と、これまた取るに足らないような会話をしながら弁当を食べる。おかずの交換をするほど親密ではないけれど、沈黙で気不味くなることもない。
クラスメイト全員とある程度仲が良く、休み時間に暇をすることはほとんどない。誰かしらと話して、笑って、時間は勝手に流れていく。
ただ、放課後となると話は変わってくる。
部活などの特定のコミュニティに入っていない澪は、自然と行き場を失う。教室での「じゃあまたね」を最後に、その日クラスメイトたちと顔を合わせることはない。
澪の交友関係は、まさに「広く浅く」だった。
それを悪いことだと思ったことはなかった。むしろ、放課後の自由な時間が確保できて、良いことだとさえ思っていた。
不自由なく学校生活を送るために、一定の交友関係は必要である。
しかし、どうしてもそれ以上の興味を持つことができず、踏み込む気になれなかったのだ。
大して興味がないクラスメイトのことに時間を使うくらいなら、自分の興味のあることをもっと深めていきたいと思っていた。ただ、肝心のその「自分の興味のあること」がなかなか見つからず、ずっとあやふやなまま、ここまで来てしまった。
――というのは、つい先週までのことである。
今の興味は、専ら和歌の世界、そして紫乃にあった。澪は、かつてないほどに惹かれていた。
和歌で詠まれた言葉が、そのまま具現化する世界。しかもそれは、あらゆる法則よりも優先されるほどの力を持っているようだった。その原理とまでは言わないが、なぜそのようなことが起きるのか、非常に好奇心をくすぐられる。
その不思議な世界で出会った、これまた謎に包まれた少女、紫乃。当初は神秘的で触れにくい存在だと思っていたが、いざ話してみると、案外普通の少女と変わりなかった。むしろ、彼女はクラスメイトたちと比べてもずっと、話していて心地が良かった。それがなぜなのかは、澪自身にもよくわかっていない。
そして、時折見せる寂しげな表情が、やけに脳裏にこびり付いていた。なんとなく、彼女を放っておいてはいけない気がしていた。一緒にいてあげないといけないという、妙な庇護欲を掻き立てられるのだ。
澪はその興味や欲望の赴くまま、今日も図書館へと足を運んでいた。
席に鞄を置き、百人一首の本のページをめくっていく。
その指先が、ふと止まった。
紙の匂いに混ざって、冷たい水の気配がする。顔を上げると、本棚の間から真っ白な靄が漏れ出ていた。
靄は床を這うみたいに広がり、既に通路へ、机や椅子の下へ、そして図書館の静けさへ、薄く流れ込んでいた。
四回目にもなると、もう驚きはない。鍵を差して回せば扉が開く、というくらいには自然なことだと思うようになっていた。
迷いなく、澪はその間に踏み入った。
進むほどに本棚の輪郭は靄に溶けていく。背表紙の色も文字も、白の中へすり潰されて、すぐ目の前の視界もままならない。
空気もほんのりと冷えてきた。半袖で無防備に晒された肌が粟立つ。
いつもなら、そろそろ開けた空間へと出る頃のはずだった。
しかし今日は、どこまでも続く靄のせいで見通しがきかない。自分が今どこにいるのかが、全くわからない。
不安が、遅れて胸に追い付いてくる。
ホワイトアウトという言葉を聞いたことがある。大雪や吹雪によって視界が真っ白になると、周りの様子が見えなくなるだけでなく、方向感覚も失ってしまうという話だ。
澪も、今自分がその状況に陥っていることに気付いた。先程から、本当に自分が真っ直ぐに歩いているのか、確証が持てない。それはつまり、来た道を戻って引き返すことができないことも意味していた。
澪はその場に座り込んだ。下手に動くよりも、じっとしていた方が良い気がした。
「紫乃ちゃん……」
思わず、口から言葉がこぼれた。だが、その声もすぐ白に吸われて、手応えなく消えてしまった。
ちょうどそのときだった。
まるで澪の呼び掛けに応えるかのように、細く澄んだ声が降ってきた。
――朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
どこからか、紫乃の声がした。澪には、これが紫乃からの合図であるような気がしてならなかった。いつものように和歌を詠み上げながら、自身の居場所を知らせてくれているのだ。
澪は息を止めて耳を澄ませ、続くはずの下の句に備えた。
――あらはれわたる 瀬々の網代木
読み終えるとすぐに、澪は立ち上がった。確実に、声は右の方から聞こえた。
その方向に、紫乃がいるはずだ。
澪は少しずつ歩みを進めながら、
「紫乃ちゃーん!」
両手を口元に添え、叫んだ。ただ声を出しただけでは、この霧に飲み込まれてしまうような気がした。そして紫乃のように、それに負けない澄み切った、通る声も出せない。だからせめて、声量で押してやろうと思った。
「澪さん!?」
一拍空いて、驚いたような返答が聞こえた。
紫乃の声を聞き、澪の肩から力が抜ける。口元も綻ぶ。自然と活力も湧いてくる。
思ったよりも近い。しかし、霧のせいもあってまだ見えない。
「澪だよ! そっちに行くから、今のもう一回お願い!」
一応、確実に聞こえるように声を張った。
――朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
声との距離感を探りながら、澪は歩み寄っていく。
心に余裕もできて、今度は詠まれている和歌の言葉を捉ることもできた。
「紫乃ちゃん! この辺かな?」
「はい、すぐ傍から声が聞こえます」
「わたしも! どこにいる!?」
紫乃の声は、すぐ横に立っているのかと思うほど近くから聞こえた。しかし、辺りをキョロキョロ見回してみても、彼女の姿はない。
「……もしかしたら、今の時点では会うのは無理なのかもしれません」
戸惑う澪の様子を察してか、紫乃は落ち着きを促すような声で言った。
「今日は、霧で何も見えなかったところが徐々に見えてくるという歌です。霧が晴れるまでは、お互いの姿は絶対に見つけられないのかもしれないです」
「すぐ近くにいるはずなのに、絶対に見えない……これも法則を捻じ曲げる和歌の力ってやつなのかな」
「恐らく」
本当にそうであるとしたなら、霧が晴れるまでの間、澪たちにはどうすることもできない。
「じゃあ、この場で待とうか」
ただ、声だけでも互いの存在を確認できたのだ。それだけで、先程までの不安や恐怖は吹き飛び、今は安堵に満ちている。
「とにかく、また紫乃ちゃんに会えて良かった」
改めて、澪の緊張が解けた。思わず、その場に座り込んでしまう。
それを感じ取ったのか、紫乃も腰を下ろしたのだろう、声の発する位置が低くなった気がした。
「澪さんも無事そうで何よりです」
その息遣いさえ、肌で感じることができた。霧さえなければ、ちょうど隣り合って腰掛けている距離なのだろう。
しかし、やはりその姿を認めることはできない。
こんなに近くに存在を感じるのに、見ることはできない。変な感覚だった。
「そういえば結局、今日ってどういう歌なの?」
互いにくつろぐ準備が整ってきたであろう頃、澪が切り出す。
「今日のは、夜明けの宇治川の歌です」
「宇治川って、京都の?」
「はい。そこにかかる霧がだんだんと晴れていって、徐々に網代木が見えてくる様子を詠んでいます」
「アジロギ?」
「魚を獲るための仕掛けのことです。多分これから、川に何本も木の棒が刺さっているのが見えるようになると思います」
そこまで聞くと、澪はあることに思い当たり、辺りを見回しながら言う。
「あ、ということは近くに宇治川があるはずだよね」
「そうですね。今は見えませんけど、音は聞こえるかもしれませんよ」
紫乃が頷きながら言う。
二人は黙り込み、耳を澄ませた。確かに、どこからか水音が聞こえた。だが、思ったよりも近い。音も大きい。
「すごく近くに聞こえる」
「本当ですね。さっきまで全然音がしなかったのに、急に聞こえるようになりました」
気付けば、わざわざ耳を澄ませずとも聞こえる音量になっていた。まるでここが川岸で、この霧が晴れるとすぐ目の前に宇治川が広がっているかのような距離感だ。それに合わせるかのように、空気も先程より少しだけ冷えた気がした。
「これも和歌の力ってやつなのかな」
「私も完全には把握できていないんです。もしかしたら、そうなのかもしれません」
澪は首を捻る。霧で見えないが、紫乃も首を傾げているような気がした。
「それもこれも、この霧がなかったら全部解決なんだけど」
「この歌は霧が晴れる過程を詠んだものですから、多分今が一番濃いです。これから薄くなっていくはずです」
「じゃあ、やっぱり待つしかないのかぁ」
澪は項垂れた。だが、これは裏を返せば、霧が晴れるまでの間はこの和歌の世界に居続けられるということだ。また紫乃と色々と話をするチャンスである。
「紫乃ちゃんはさ……宇治って行ったことある?」
何かトークテーマを……と考えた結果、とりあえず今回の和歌の舞台について投げてみることにした。その場の話題に乗るのは得意だが、自分から切り出すのは不慣れだった。こういうときに、普段適当に過ごしている自分を呪いたくなる。
「中学校の修学旅行で行きました」
「あ、わたしも修学旅行で行った!」
ひとまず話題が続いたことに安堵しつつ、そこから会話を広げてみる。
「宇治と言ったら、平等院鳳凰堂!」
「もちろん私も行きました。池の前で集合写真を撮ったりした記憶があります」
「もしかして、ここの近くにも平等院あるのかな?」
辺りを眺めようとしたところで、霧で何も見えないことを思い出した。さっきまでその話をしていたはずなのに、恥ずかしい。紫乃から見えていないのが、せめてもの救いだ。
「宇治川の近くに建ってたはずなので、少し探せば見つかると思いますが……」
紫乃は少し考えるようにして言い淀んでいた。
「時代的に、まだ平等院になっていないかもしれません」
「ん? どういうこと?」
「ここは現在の宇治ではなく、歌が詠まれた当時の宇治です」
「そうなの?」
「はい。ここは和歌が具現化した世界なので、その当時の風景になっているはずです」
「なるほど」
「確か、この歌を詠んだ藤原定頼は、平等院を建てた頼通と同じくらいの年代だったはずです」
「だから、ちゃんと平等院になってる時期なのか怪しいってことね」
「そういうことです」
澪は、その観点がすっかり抜けていたことに気付かされた。平等院のような歴史的建造物は非常に古く、澪から言わせてみれば、ずっと昔からそこに建っていたものだ。だがそれらと同じくらい、歌によってはそれ以上に、百人一首も古いものなのである。
「じゃあ宇治抹茶とかもまだないのかな? お茶って元々中国から入ってきたものなんじゃなかったっけ?」
「そうかもしれませんね。ちゃんと覚えてはいませんが、抹茶は鎌倉時代や室町時代のイメージがあります」
「今は平安だもんね」
改めて、和歌から歴史を感じた。もちろん、歴史があるものだとは頭ではわかっていた。しかし、今となっては当たり前なものがなかったような時代から、脈々と続いてきたという事実に、実感が伴ったのはこれが初めてである。
「澪さんって、意外とこういうのも詳しいんですね」
「んー? 意外とはなんだー?」
本当に感心しているのが半分、冗談めかしてからかっているのがもう半分といったような口調だった。
澪が笑いかけると、紫乃の方からも、笑いながら「すいません」と言っているのが聞こえた。
紫乃が軽口を叩いてくれるようになったのが嬉しかった。だんだんと仲良くなれたのを実感した。意外と言われてしまったのは、少々心外ではあるが。
「そういえば」
からかわれたままでいるわけにはいかない。少し前から気になっていたことを口にしてみた。
「紫乃ちゃん、今日は『澪さん』って名前で呼んでくれてるね。この前までは『あなた』としか言ってくれなかったのに」
小さくうっと聞こえた気がした。
「だって……」
消え入りそうなくらい、小さな声だ。
「あ、別に全然嫌ってわけじゃないよ! むしろ嬉しい! だけど、なんで急に名前で呼んでくれるようになったのかなって」
「それは……」
何やら言いにくい様子だった。澪はその続きをじっと待つ。
「……こうやってお互いのことが見えないから、名前を呼ばないと不安になっちゃうじゃないですか」
それを聞いて、思わず澪は吹き出してしまう。拍子抜けする理由だ。
「もう……笑わないでくださいよ」
「いやごめん、可愛いと思って」
顔は見えていないはずなのに、何となく、紫乃が真っ赤になっている気がした。
「まあまあ、これでおあいこってことで」
目尻に浮かんだ涙を一滴拭いた。
そのときだった。
霧が一瞬すっと薄れたかと思うと、その切れ間から棒が一本だけ覗いて、すぐにまた隠れた。
「今、一瞬見えた!」
「何がですか?」
「例の……網代木だっけ? 何か木の棒みたいなものがちょっとだけ見えた」
二人で目を凝らし、川の音が聞こえる方向を固唾を呑んで見つめる。
すると、霧がまた薄れて、杭の列がさっきより長く現れた。
さっき紫乃が言っていたことは、やはり合っていたのだろう。霧はいつまでも同じ濃さで留まっているわけではない。
「晴れてきましたね」
紫乃もその様子を見たのだろう。安堵が混ざったような声だった。
霧は、音もなく形を変えていく。
さっきまで世界の全てを白で塗り潰していたものが、薄い布を引き裂くみたいにして、ところどころでほつれ始めた。
――来る。
まずは、水の色が覗いた。昼の青でも、夕方のオレンジでも、夜の黒でもない。朝方特有の、冷たい光を帯びた銀色の川面。
瀬の音も、だんだんはっきりしてくる。近い。速い。
その音の根元に黒い線が一本、すっと立っている。これが網代木というやつなんだろう。
続くようにして、別の場所で一本、また別の場所でさらに一本現れる。
すぐに全てが見通せるようになるわけではない。あくまでも一本ずつ、徐々に、ゆっくりと現れていく。
「まさにたえだえに……って感じですね」
横から声が発せられた。紫乃も同じような光景を目にしているのだろう。
澪がその声の方向をちらっと見遣ると、霧が一瞬、ふっと薄れた。僅かに影が滲んでいた。
「……!」
澪は考えるより先に体が動いていた。影に向かって、咄嗟に手を伸ばし、飛び込んだ。
空を切る――そう思われたが、その先に確かな温度を感じた。指を目一杯伸ばし、掴んだ。
澪の右手の中には、紫乃の左手が収まっていた。手の甲側から、四本指をがっしりと握っていた。
そこからすらっと伸びる白い腕の先には、いつも通りの藤色の着物が覗いた。
その瞬間、澪と彼女――紫乃の周りの霧がすっと薄れた。伸ばした腕の先に、影だけではない、明確な紫乃の姿を認める。
遂に見えた。
紫乃の目が丸くしている。そんな顔を見るのは初めてで、なんだか可笑しくなってきてしまう。思わず笑みがこぼれた。
「……!」
まさに絶句といった様子の紫乃に、澪は手を握ったまま微笑みかける。
「少しでも早く会いたくて。紫乃ちゃんの影が見えたから、つい」
「……もう……驚かせないでくださいよ」
責める声ではなかった。心臓を落ち着かせるような仕草をしながらも、紫乃の表情は優しく緩んでいた。
澪はそれに「ごめん」と小さく返すと、手をくるっと返し、今度はしっかりと手を繋ぎ直した。紫乃はそこに視線を落としながらも、振りほどく様子はない。
「今日もちゃんと紫乃ちゃんに会えて良かった。見えないままだったらどうしようって、ちょっと不安だったから」
「そんなに心配しなくても、霧が晴れたら見えるようになるはずって言ったじゃないですか」
「いや、でもやっぱり不安なものは不安だよ。何にせよ、良かった」
改めて、握っている手の感触を確かめながら、胸を撫で下ろした。
そこに川の音が飛び込んで来た。いや、正確には、ずっと聞こえていたのだろう。意識の外に追いやられていた音が、戻って来た。
「そういえば、川はどうなったんだろう?」
澪が視線を前に戻すと、もう随分と見えるようになっていた。
白い靄の奥に、はっきりと水の流れが見えた。薄い光を反射しながら、速い音を立てて走っている。
瀬の辺りには、何本もの杭が並んでいた。霧の名残が、その列の間をすり抜けながら、だんだんと引いていく。
「なんか……綺麗……」
思わず、口からそうこぼれた。
朝、霧が晴れてきて、宇治川に仕掛けられた魚用の罠が徐々に見えてくる。ただそれだけの光景なのに、しみじみと感じ入るものがあった。川面を覆う紅葉や、咲き乱れる桜の木々のような特別感はないはずなのに、それらに比肩するものに思えた。
「この歌は感情を入れずに、ありのままの景色を詠んでいます」
すぐ右隣で、紫乃が言う。澪は今回の和歌を頭の中で反芻し、「ほんとだ」と呟いた。
「そしてこの歌の特徴は、時間の流れを織り込んでいるところです。霧の中に宇治川が見えたというだけではなく、霧が徐々に晴れていく様子から描かれているんです」
「確かに、最初から川が見えてたら、こんなに感動できなかったかも」
「そういうことです」
その説明を聞くと、漠然と感じていた趣が、何となくわかったような気がしてきた。
刻一刻と変化していく景観。霧というベールから、ゆっくりと現れる宇治川。朝日を反射しながら揺らめく水面と、そこに無機質に刺さる杭。これらが映画のように、眼前に広がっているのである。
「朝が近付いてきましたね」
紫乃の声に、意識を引き戻される。澪がこの風景に見惚れている間にも、時間は確かに流れていた。
川の流れも網代木の列も、もうはっきりと見えていた。そして霧と入れ替わるように、ぴんと張り詰めたような、朝特有の冷たい空気に満ちていた。
そしてそれは、別れの時間が迫っていることを暗示していた。昨日の和歌から察するに、一連の再現が終わると、例の風に元の世界に連れ戻されるのだろう。
澪は繋いだ手を引き、紫乃に向き合うような形へ導いた。
「そろそろ、あっちに戻らなきゃいけない気がするからさ」
「そうですね……多分そろそろです」
「最後に、もう一回『澪さん』って呼んで欲しいなーって思ったり?」
澪がその話をしてから、全く呼んでくれなくなってしまった。それだけが少しばかりの心残りだ。
あえておどけたように言いながら、わざとらしく首を傾げてみる。
「……もう、またからかうつもりですか? もう呼んであげませんっ」
頬を膨らせてそっぽを向こうとする紫乃を、違う違う、と止める。
「嬉しかったからさ。こうやって紫乃ちゃんと仲良くなれた感じがして」
瞳で訴えかけると、紫乃は根負けしたように振り向いた。改めて呼んで欲しいと言われると恥ずかしいのだろう、顔を赤くして俯きながらもじもじと、
「……澪さん」
消え入りそうなほど小さな声だが、川の音に混じりながらも、確かにそう呼ぶのが聞こえた。
「ありがと、紫乃ちゃん」
下の名前で呼んでもらえた――その事実に改めて嬉しくなり、目線の高さにある紫乃の頭をぽんぽん叩いた。
「……もう、澪さんったら」
「んー?」
「何でもないです」
そんな話をしている中に、一陣の風が吹き込んだ。髪が煽られ、スカートと着物の裾がはためく。
「時間かな」
「ですね」
「じゃあ、また明日ね、紫乃ちゃん」
「はい。澪さん、お待ちしています」
風になびかれ、僅かに残った霧に覆われ、視界が再び真っ白になった。
気が付けば、澪は図書館の椅子に座っていた。
窓の外は夕方の色で、さっきまでの冷たさは嘘みたいに消えている。水の匂いも、紙に置き換わっている。
目の前の百人一首の本には栞が置かれている。薄い霧の向こうを走る川と、その瀬に並ぶ影。紫乃が言っていた通り、一枚の静止したイラストにしてしまうと、どこか迫力に欠けてしまう。だが、この絵を通してあの風景を思い起こすには十分だった。
裏には、
『朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木』
いつもと変わりないことを認めると、そっとポケットにしまった。
これで四枚目。
紫乃との記憶が証拠として積み上がっていくようで、何だか嬉しかった。




