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第3話 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを

 昨日家に帰ってから今日の朝まで、(みお)は色々と試してみた。


 リビングのテーブルで本を開いたり、閉じたり。自室の机の上でもやってみた。一応、ベッドで寝転びながらも試してみた。しかし、何も起こらなかった。


 今日の朝は登校してすぐ、教室の机でも本を開いてみたが、やはり何も起こらない。


 昨日紫乃(しの)が言っていた「色々な条件」には、理由はよくわからないが、とにかく場所――図書館も含まれるようだった。


 放課後、澪は駆け足で図書館へと向かう。


 誰に急かされたわけでもない。ただ、再び紫乃に会いたいという思いが、澪を早足にさせた。


 図書館の扉を開けると、当然ながら今日も、そこには静けさが満ちていた。場違いに息切れしているのを整えながら、いつもの席へと向かった。


 鞄の中から例の本を取り出して、机に置く。家や教室では何も起こらなかったが、ここならまた入口が開いてくれるはず。


 本を開き、ページをめくっていく。ぺらぺらとめくる音が、図書館の静けさに吸い込まれていく。


 一昨日の十七番「ちはやぶる」もまだ記憶に新しい。


 昨日訪れたのは、そこから何ページかめくった先の三十三番「久方の」だった。春の光が、花吹雪が、そして紫乃の姿が思い起こされる。あの光景を思い返してみると、やたらとムードのある再会を果たしたように思う。


 そのページを通り過ぎると、またぺらぺらとページを進めていく。見ているのは文字のはずなのに、目の奥はもう別のものを探していた。



 次の瞬間だった。


 図書館全体が急に暗くなった。蛍光灯が切れたわけではない。それだけでは説明が付かない。


 気付けば、窓の向こうも暗くなっていた。夕方のオレンジが、濃く深い夜の藍色に塗り潰されている。


 空気も変わっていた。肌に纏わり付くような湿り気はそのままに、いくらか過ごしやすい気温にまで落ちていた。


 耳を澄ますと、微かに虫の声も聞こえる。耳の奥をくすぐるような心地よい音色だ。


 自然と、視線が本棚へと向いた。


 奥行きが深い。だが今回は、それだけじゃない。そこから道標のように、橙の光が差し込んでいた。和歌の世界も、澪を歓迎しているかのように感じられた。


 澪はそっと立ち上がる。椅子の脚がまた短く鳴り、その音が夜の湿り気に吸われていった。



 本棚の間に踏み込むと、足元からすっと床の感触が消えた。湿った土のやわらかさに変わる。鼻先をくすぐるのは紙の匂いではなく、青い草の匂いと、夏の夜のぬるい空気だった。


 開けた草原だった。見渡す限りの草むらが、波のように揺れている。


 西の空には、今にも沈みそうな太陽が薄い光を放っていた。


 その縁に、一人立っている影がある。


「紫乃ちゃーん!」


 澪が呼ぶと、紫乃が振り向いた。その瞬間、ほんの少しだけ表情が緩んでいるようだった。驚きと、どこか安堵の混じった顔。


「今日も来ちゃった」


 駆け寄りながら澪が言うと、紫乃は返事の代わりに、軽く息を吸い込む。


 

 ――夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ


 

 細い声が、闇を切り裂くように真っ直ぐ伸びた。その声がちょうど地平線まで届いた頃だろうか。それに応えるかのように、西の空の淡い光がふっと吸い込まれるように消えた。


 真っ暗になる――そう思ったのも一瞬で、気付けば頭上には満月が上っていた。空の真ん中で、まるで最初からそこにあったみたいに、雲の縁を薄く銀色に染めていた。草の先が白く光り、夜気が一段と迫る。


 澪は息を呑んで、思ったままを口にした。


「やっぱり紫乃の声、綺麗」


 紫乃がえっと言いながら目を見開き、こちらを見てきた。頬を赤らめたような気がしたが――月明かりだけのこの環境下では、それも定かではない。


 澪は、その様子を少し面白がりながらも、すぐに話題を切り替える。


「そんなことより、それが今日の歌?」


 紫乃は気を取り直すように、軽く頷いた。


「はい。今夜は……短いです」


「短い?」


 澪が首を傾げると、紫乃は満月を見上げたまま、言葉を選ぶ。


「見ていればわかります。ただ、流石にもうちょっと時間がかかります」


 それだけ言って、紫乃は草の上にふわりと腰を下ろした。少し遅れて、澪もその隣に座る。肩が触れそうな距離が、妙にくすぐったかった。


 しばらく、二人で黙って月を眺めていた。虫の声が時々途切れては、また始まる。風が草を撫で、波のような音が立っていた。


「月が綺麗だね」


 澪のぽつりとした一言が、沈黙を破った。


「な……」


 紫乃が勢いよく澪の方を向く。さっきよりもずっと面食らったような顔をして、声もわずかに上ずっていた。何か出かかっていた言葉を飲み込むようにすると、訝しげな視線を送ってきた。


「……それ、意味わかって言ってますか?」


「え? 意味?」


「……じゃあいいです」


 ぽかんとしている澪に、紫乃はそっぽを向いた。


「ん? 今わたし何か変なこと言った?」


「なんでもないです」


 紫乃は話を切り替える合図みたいに小さく咳払いをすると、


「……どうしてまた来てくれたんですか?」


 会いに来てくれたのなら嬉しい、と思う反面、別に紫乃に会いに来たわけではない、と返されるのを想定しているかのような、自信なさげでか弱い声だった。


「紫乃ちゃんに会いたかったから」


 だが、澪の答えは最初から決まっている。


「昨日でこの世界のことは何となくわかったから。今日は紫乃ちゃんに会いに来た」


 小恥ずかしくなるような台詞も、不思議とスラスラ出てきた。夜に当てられてテンションがおかしくなっているのか、はたまたこれが言葉の力というものなのか。何にせよ、澪の素直な気持ちが口をついて出た。


 紫乃はまばたきを一つすると、視線を草へと落とした。月光に照らされたまつげが影を落としている。


「実は……あなたみたいに、この世界に迷い込んで来る人は、以前にも何人かいたんです」


 紫乃の声は、夜に溶けるほど小さい。すぐ傍の草を弄りながら、紫乃は続ける。


「でも、みんな一回きりです。多分、みんな……ただの夢だと思ったんでしょう」


 その声には、寂しさが滲んでいた。


 やはり昨日の去り際、紫乃が一瞬寂しそうな顔をしていたのは気のせいではなかったようだ。


 そんなことを思いながらも、紫乃の言葉の中に、澪は思い当たる節がある。ポケットを探り、


「そういえば……わたしも最初は夢だと思ったんだけど、図書館で目が覚めたらこんなものがあって」


 少々もたつきながら、二枚の栞を取り出した。一方には紅葉と川の絵、もう一方には吹き乱れる桜の花びらが描かれている。澪は表を見せてから、裏返して和歌の文字も見せた。墨で書かれたやわらかな文字が、月の光に淡く浮かんだ。


「この栞を見たら、どうしても夢だと思えなくて」


 紫乃は不思議そうに、栞を観察していた。


「これ、何かわかる?」


「……わからないです」


 紫乃は裏の和歌を指でなぞりながら、首を傾げていた。


「でもとにかく、この栞のおかげで紫乃ちゃんのことを思い出せたんだよね。だから、とりあえず大事に持っておいてる」


 澪は、考えてもわからないことは割り切るタイプだ。気を取り直して、けろっとした様子でそう言うと、別の話題を切り出した。


「そういえば、今日ってどういう歌なの?」


 澪はまだ今回の歌についてほとんど聞いていないことに気付き、尋ねる。紫乃は先程日が沈んだのとは反対の方向――東の空をちらっと見てから答える。


「そうですね……多分もうちょっと待てばわかりやすいと思うので、それから話します」


「ふーん」


 意地悪だと思ったが、紫乃がその方がわかりやすいと言うのならそうなのだろう。そこで、ふとある疑問が浮かんだ。


「というか、紫乃ちゃんってなんでその日の歌がすぐわかるの?」


 想定外の質問だったようで、紫乃は言い淀んでいた。


「なんでって言われると説明が難しいんですが……降りてくる……みたいな感じですかね?」


「なんだそれ」


「私も昔はわからなかったんですけど、いつの間にか勝手にわかるようになってたんです」


「慣れなのかな?」


「そこは私にもよくわかりません」


 今回は、教えてくれないという感じではなかった。本当に、紫乃自身もよくわかってないのだろう。


 ただ、澪は今の会話に、少し引っかかりを覚えた。「私も昔はわからなかった」ということは、紫乃にも今の澪のような状態の時期があったということ――。


「あ……見てください!」


 そんな澪の思考を遮るかのように、紫乃が声を上げた。


 紫乃が指差す方向――東の空が仄かに明るい。ついさっきまで一面を覆っていた闇が、徐々に解かれていく。一枚ずつ薄紙を剥がしていくみたいに、黒がどんどん淡く、藍がどんどん薄くなっていく。


「えっ……まだそんなに時間経ってないはずなのに」


 日の入りを見てから、まだ十分や二十分くらいしか経っていないはずだ。今夜は短いとは言っていたものの、明らかに早すぎる。朝の色が、異常な速度で侵食して来ていた。


 夜気もすっかり引っ込み、朝の気配を肌でも感じ取る。


 東の空では、朝焼けに照らされた雲が際立ち始めた。輪郭が付き、陰影が付く。夜の間は一つの大きな黒い塊に見えていたものが、層状に分かれて、空の上を動いていたのだと知った。


 そして――今まさに。


 頭上にあった満月が、東の空から流れてきた雲に飲み込まれそうになっていた。薄い布を掛けられたみたいにぼやけ、輪郭が途切れていく。


 その様子を見て、紫乃は立ち上がり、



 ――夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ



 呆気に取られている澪を引き戻すように、もう一度歌を詠んだ。


「夏の夜は、まだ始まったばかりだと思ってるうちに明けてしまうほど短い。沈む暇もなかった月は、どこの雲に宿を取っているのだろう、という歌です」


 紫乃がそう言っているうちに、月を覆っていた雲が、風に押されるようにしてゆっくりと流れて行った。


 雲がずれて、また月の姿が現れる――はずだった。


 その跡には、何も残っていない。あったはずの満月が、すっかり消えてなくなってしまっていた。


 驚きで固まっている澪に、紫乃が淡々と述べる。


「きっと、月は雲に宿を取って、そのまま一緒に流されて行ったんだと思います」


 咄嗟に、先程の雲を目で追った。風になびいて、どんどん形を変えている。それなのに確かにそこに、月の気配を感じ取ることができた。月の姿が見えないどころか、雲自体が月を覆い隠すことができないほどにまで散り散りに変形しているのに、不思議とその気配が残っていた。


「この世界では……あらゆる法則よりも、言葉の持つ力が強いんです」


 紫乃は、昨日も同じようなことを言っていた。ただ、澪はその実感が湧かず、ピンときていなかった。


 しかし、今日のこの光景を目の当たりにしてしまっては、そうも言っていられない。


「あらゆる法則……?」


「はい」


 紫乃は指差す代わりに、空を見上げた。


「和歌が『夏の夜は短い』と言ったら――宇宙のルールさえ捻じ曲げて、それを実現してしまう世界なんです」


 言葉が世界を決める。


 百人一首が景色を、時間を、天体を――当たり前の順序でさえも捻じ曲げる。


 澪は目を瞬かせた。喉の奥が乾くのを感じる。もはや「凄い」や「怖い」といった感想さえも出てこなかった。もっと何か、絶大で強大な力を目の当たりにして、少しおかしな気分になっていた。


「……やっぱり変だね、ここ」


 上手く言葉を紡げず、中途半端なまま口から飛び出す。


「もちろん変です」


 互いにわかりきったことを言い合って、可笑しくなってしまう。ふふっと笑い合ったかと思うと、紫乃は気を取り直したかのようにして、真剣なトーンで口を開いた。


「この世界では、和歌が絶対です。今のところ穏便な歌ばかりですが、これからどんな歌が来て、何が起こるかはわかりません。そして何かが起こったとき、それに私たちは抗うことができません」


 辺りの虫の音や風の音が一瞬消えた――ような気がした。空気が一層張り詰めた。


「和歌の世界に来る以上、その危険性は予め伝えておきたかったんです」


 澪はここまで聞いて、今日紫乃が何をしたかったのかがようやくわかった。本人はあんなに寂しそうな顔をしていたのに、この期に及んで澪の心配をして、忠告してくれていたのだ。何とも律儀で、とんだお人好しだ。


 澪は立ち上がり、紫乃と目線を合わせるようにして向き合う。


「ありがとう。でも、わたしの気持ちは変わらない。その危険を踏まえても、わたしは紫乃ちゃんに会いたいから来る。ただそれだけ」


 それを聞いた紫乃は、驚いたような、安心したかのような顔を浮かべていた。かと思うと、照れたように俯きながら、澪の様子を窺うようにして口を開く。


「……いいんですか?」


「いいも何も、わたしが紫乃ちゃんに会いたくて来てるんだから」


「……ありがとうございます」


 そのとき、草の波が一段と強く打たれた。遠くから押し寄せてくるような突風が、草を薙ぎ倒しながら澪に向かって来ていた。


「今日はここまでみたいだね」


 もう三回目。いい加減慣れてきた澪は、抵抗せずに両手を広げ、風に身を任せてみる。


「また明日来るね」


「色々と話せて楽しかったです」


「わたしも。じゃあ、またね」


「さようなら」


 澪の髪が頬に張り付いた。制服の袖がばたばたと鳴る。視界がぼやけ、世界が滲み始めた。


 強風に包まれながら、静かに目を瞑った。



 瞼を開けるといつも通り、そこは図書館だった。


 机の硬さが戻っている。草の湿り気はない。耳に入ってくるのは、遠くのページをめくる音と、空調の低い唸りだけ。胸の奥が、まだ夜の冷たさを少しだけ覚えていた。


 窓の外は夕方だった。


 さっきまで――ほんの瞬き前まで、空は朝焼けに染まり始めていたはずなのに。こちらの世界では、やはり時間がほとんど進んでいない。中庭の方へと伸びる図書館の影は長く、空は徐々に色濃くなっていくところだった。


 机の上には百人一首の本が、開いたまま置かれている。そのページの上に、細長い紙片が挟まっていた。


 雲に隠れかけた月の絵。満月の輪郭が、薄い雲の縁に溶けている。


 澪はゆっくり裏返した。


『夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ』


 ふと、本のそのページにも目を落としてみた。


 ――三十六 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲いづこに 月宿るらむ


 同じ歌だった。この本が開いているページと、訪れた世界の和歌が対応している。


 やはり、この本が起点であるようだ。


 入口も、帰還も、あの景色も、言葉が世界を捻じ曲げることも――全部、ここから始まっている。


 本を丁寧に、ゆっくりと閉じた。ページが合わさる音が小さく響く。


 澪は本を抱き直すと、鞄の中へ静かに滑り込ませた。背表紙と擦れる音が、妙な現実味を持っていた。


 澪は、窓の外の夕方をもう一度だけ確かめてから、静かに席を立った。

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