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第2話 久方の 光のどけき 春の日に

 梅園(うめぞの)女子高等学校。


 この学校の実際の雰囲気と比べると、随分と古臭い。校名とは対照的に、別に伝統校でもなければお嬢様学校でもない、ごくごく普通の女子校だ。


 ただ、この学校には唯一、この名前に似つかわしい場所が存在する。


 忘れ去られたかのように、敷地の端っこにぽつりと佇む古びた旧館――図書館である。


 本館から離れて中庭を抜け、小道を進んだ先に、それはある。わざわざ行こうと思わなければ、決して踏み入ることはないだろう。


 そんな場所に、今日も(みお)は来ていた。ただし、いつものように何となくではなく、昨日のことを確かめるという明確な目的を持ってやって来た。


 扉を押すと、空気が変わる。紙と木と匂い。音が吸い込まれていく。


 澪は、いつもの席へと向かった。椅子に腰を下ろし、鞄を机の横に置く。背筋を伸ばして、手を机の上に置く。


 ……何も起こらない。


 澪はそのまま、しばらく動かずに待ってみた。静けさだけが続く。


 そこでふと、昨日の自分の動きを順番に辿ってみた。時間、場所ともに昨日とほぼ同じである。


 違うところと言えば――本だ。


 昨日、一冊の本を開いていた。ページをめくりながら、何となく流し読みをしていた。確かそう、百人一首の本だったはずだ。


 澪は静かに椅子を引くと、昨日適当に本を取った棚の前に立つ。


 感覚を頼りに本を探ると、まさに昨日読んでいたものと同じ背表紙を見つけた。古びた本だ。白を基調とした地味な表紙に、かすれた文字で『百人一首解説』とだけ書かれている。


 我ながらよくこれを手に取ったものだ、と思いながらも、その本を抱えて席に戻った。


 机の上に本を広げ、最初のページから順々に読んでいく。昨日と同じように、文字を撫でるように視線を素早く滑らせながら、どんどん進んでいく。


 そんな澪の指が、あるページでピタリと止まった。


 ――十七 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 から紅に 水くくるとは


 改めて、記憶が一気に押し寄せた。真っ赤に染まった木々、紅の模様が点在する川、そしてあの神秘的な少女。


 ――今度はちゃんと、お会いしましょう。


 そう言われたものの、澪は何をすればよいのかわからなかった。ただただ、昨日と同じようにページを一枚ずつぺらぺらとめくっていった。


 漠然とした焦燥感で、そこにある文字は碌に頭に入って来なかった。ただひたすらに、ページを繰っていた。



 そこから数ページ進んだところで突如、図書館の様子に違和感――まるで、図書館の空気を丸ごとどこかと交換してしまったかのような――を覚えた。


 窓から差し込む光が、やけにやわらかかった。初夏のじめじめとした不快な空気も、ぽかぽかと形容すべき心地良いものになっていた。


 それと同時に、机の上に何かがゆっくりと落ちてきた。淡いピンク色の、小さい何か。


 季節外れの桜の花びらだった。


 顔を上げてみても、天井も窓もいつも通りに見える。一体どこから落ちてきたと言うのだろうか。


 再び視線を手元に落とすと、いつの間にか花びらが三枚に増えていた。こうしているうちにも、一枚また一枚と、どこからともなく現れては落ちてくる桜の花弁が、机の上で舞っていた。


 ――もしかして。


 澪は、ゆっくりと顔を横に向ける。昨日、奥へと引き寄せられていったあの本棚。そこを自身の目で確かめる。


 案の定――本棚の奥行きが、深くなっていた。


 本棚と本棚の間の通路が伸びて、壁が遠い。昨日と同じだ。


 澪の心臓が強く高鳴る。今度は、引き寄せられるのを待たない。自らの意思で立ち上がり、向かっていく。


 椅子を引く音がしない。足音もなぜだか軽い。


 いつの間にか、桜の雨は図書館全体にまで広がっていた。視界の端で揺れる薄紅色を気にも留めず、澪は真っ直ぐと棚の間を早足に進んでいく。


 そのとき、奥から声が聞こえた。


 昨日と同じ声。木管楽器のように細く、透き通っていて、それでいて図書館の静けさに埋もれない。遠いのに近い。耳のすぐそばで囁いているかのように、はっきりと届いた。



 ――久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ



 その声に導かれるように、澪は歩いた。


 和歌の余韻が耳の奥に残っている。意味を追う前に、その言葉が景色を連れて来る。一歩進むごとに、図書館の輪郭が少しずつ変わっていく。


 古びた紙と木の匂いが薄れて、ほんのりとした甘さが混じる。光がよりやわらかくなり、棚の影が淡くなる。音の距離が遠くなり、また一段とした静けさに包まれた。


 降りしきる花びらも、勢いを増していく。ひらひらと、どこから落ちてくるのかわからないのに、淡い色が舞い続けている。


 通路の先が、ふっと開けた。これも昨日と同じ感覚だ。


 そこは満開の桜を湛えた野原だった。


 見渡す限りの花色が、光を受けてやわらかく浮かぶ。風は吹いていないのに、花びらだけが絶え間なく散っている。それが何百、何千と重なって、空そのものが薄桃色に霞んで見えた。


 圧巻と言う他になかった。


 澪は息を呑んだまま、ただ立ち尽くす。落ち着いた雰囲気のはずなのに、視界が満ちすぎていて、胸がざわつき言葉が出てこない。


 足元の草原も、桜とのコントラストで鮮やかに輝いて見えるのに、不思議とそれらを踏みしめる感覚が掴めない。それもまた、心をざわつかせる。


 見渡すと、何百と連なる木々の中に、一際目立つ大きな桜があった。野原の中心みたいにのびのびと枝を広げ、まるでそこが景色の核になっているみたいだった。


 その木の幹に寄りかかる、一つの人影がある。


 小柄な薄紫色。昨日出会った少女だった。


 花びらが彼女の肩をかすめて落ちても、彼女は動かない。静かに、ただ流れる桜を眺めていた。


 澪はそのそばまで駆け寄る。静かな景色の中で一人走る姿は、その雰囲気を打ち破って乱しているようだった。それと同時に、忙しなく落ち続ける花びらに馴染んでいるようでもあった。


 少女は澪に気付くと、ほんの少し目を見開いた。驚いた、というほど大げさではない。しかし確かに、不意を突かれたかのような反応だった。


「まさか、本当にまた来るなんて……」


 少女の真正面まで来ると、澪は膝に手をつき、息を整えながら答えた。


「気になったら、確かめずにはいられない質だから」


 それを聞くと、少女は笑うでも否定するでもなく、ただ小さく息を吐いた。


「わたしは波元(なみもと)澪。あなたは?」


 澪は名乗った。昨日し損ねた会話の続き。その返答を求めるように、強い視線を送る。


 少女は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、澪の視線を受けて観念したようだ。


「……そういえば約束でしたね」


 言い訳みたいな前置きをしてから、少女はゆっくり口を開く。


「私の名前は……紫乃(しの)と言います」


 これまでに聞いてきた声と同一人物なのか、疑いたくなるほどにか細い声だった。


 しかし、澪はその声を聞き漏らさず、しっかりと受け止めた。その二音を確かめるように口の中で転がす。


 澪はそれを聞き出せただけで、少し満足気だった。それだけで、昨日よりずっと距離が近く感じる。名前があると、呼べる。呼べると、確かめられる。


「紫乃ちゃん、ね」


 呼んだ瞬間、紫乃の表情がわずかに揺れた。困ったように眉が下がって、こそばゆそうに視線が泳ぐ。


「……ちゃん、は……」


 小さく抗議する声は、花びらの落ちる音のない空気に溶け入った。


「紫乃ちゃん、ここって……昨日と同じ場所なの?」


 澪には気になることがまだ山ほどある。最優先事項の名前が聞ければ、次の話題だ。


 紫乃は急に黙った。答えていいか迷っているようだった。視線をゆっくりと上げると、丁寧に言葉を選ぶようにしながら喋り始めた。


「……ここは歌の言葉が具現化した、和歌の世界です。歌の言葉が、そのまま景色になってしまう場所なんです」


 澪は息を呑んだ。昨日の紅の世界と「ちはやぶる」の歌が、一気に繋がる。


「じゃあ、今日のこの桜も……さっきの歌の言葉から?」


「……そういうことになります」


 紫乃は頷き、続ける。


「ここでは、言葉が強い力を持ちます」


「言葉が、力?」


「はい。言葉一つで、この世界はがらっと変わってしまいます」


 ここが和歌の世界というのは、既に二回も体験したからか、すんなり受け入れることができた。こう色々と起こっていれば、そういうものだと受け入れる他ない。


 しかし、言葉の力が強いというのは、いまいち実感の湧かない話だ。


「じゃああと、わたしがここに来たのは?」


 紫乃は澪の背後――図書館の名残の方向を見ながら言う。


「色々な条件が重なると……ときどきこちらに迷い込んでしまうことがあるんです」


 澪は、今日の自分の行動を思い出して、納得した。その「色々な条件」には心当たりがあった。


「だから、最初は何も起きなかったんだ」


 ぽつりと言うと、紫乃は小さく頷いた。


「……恐らくは」


 次の疑問は、不思議と尋ねるのが憚られた。ここまで踏み込んでよいものだろうか、と思いつつも、抑えることができなかった。


「紫乃ちゃんは……何者で、どうしてここにいるの?」


 紫乃の肩が、ほんの少し揺れた。唇を一瞬引き締めた。


「……すみません」


 謝る声は丁寧でありながら、この先には踏み込ませないという強い意思が覗いていた。


「それは、今はお話しできません」


 澪は頷くしかなかった。越えられない境界がはっきりと見えたようだった。


「でも――もしかしたらそのうち、お話しできる機会があるかもしれません」


 二人の間に一瞬走った緊張が解けていくのを感じた。明確に拒絶しているわけではないようだった。


 そのうちでもいい。すなわちこれは、二人の縁がこれっきりではないことを暗に示しているようだった。


 そこまで聞き終わると、澪は紫乃の元へと歩み寄った。「横いい?」と軽く了解を取ると、その横へと腰掛けた。紫乃もそれに合わせて、着物が汚れないように気にしながらその場に座り込んだ。


 澪は落ち続ける花びらを見上げると、すぐに紫乃へ視線を戻す。


「今日のこれは何って歌だっけ? さっき詠んでたやつ、あんまり聞いてなかった」


 おどけたように言うと、紫乃は軽く息を吸い、



 ――久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ



 澪はその声を聞きながら、再び桜を見上げた。紫乃が詠んでいるまさに今、この瞬間ですらも花びらがはらはらと散っている。この分野に精通していないながらも、詠歌と景色が合わさって味わい深くなっていくのを肌で感じた。


「光がのどかに差している落ち着いた春の日に、どうして桜の花は慌ただしく散っているのだろう、っていう歌です」


 こんなにも静かなのに、胸がざわつく理由が、少しだけ分かった気がした。


 紫乃がそっと右手を前に差し出した。指先を綺麗に揃えながら丸め、受け皿みたいに柔らかく構える。花びらがそこに一枚、二枚と乗っていく。


 澪は思わず真似をしてみた。同じように手を出してみる。しかし花びらは、手のひらの上でふわりと滑って、すぐ落ちてしまう。


「難しいな……」


 紫乃がふふっとわずかに微笑んだのを、澪は見逃さなかった。恐らく初めて見た、紫乃の笑顔。これまで抱いてきた紫乃の神秘的なイメージに反し、そこにいたのは一人の女の子だった。


「急がないでください。ここで慌てているのは、桜の花びらだけです」


 そう言われ、気を取り直してもう一度手を出してみる。今度は、落ちてきた花びらを受け止めようとせず、ただじっとそこにいる。すると、無数の花びらのうちの一枚が、すっと手のひらに収まった。


 薄くて軽い。それなのに、確かにその実感はあった。


 風もないのに、二人の間を花びらが通り過ぎていく。まるで桜だけが、時間の流れを示しているみたいだった。


 しばらく、二人は言葉を置いたまま、この風景を眺めていた。


 綺麗だ、と言ってしまえば簡単だが、それだけでは足りなかった。足りないまま、他に適した言葉も見つからず、ただただ眺めていた。


 そのとき、凪いでいた空気が一気に波立ち、地に落ちた花びらが舞い上がった。視界が薄紅色で埋まり、桜の木も紫乃の輪郭も、ふっと遠のく。


 この感覚には、覚えがあった。


「……もしかしてこれが、元の世界に戻る合図?」


 ぼやけていく視界の中で、紫乃は静かに頷く。


「はい、そうなります」


 はっきりと見えていないはずなのに、紫乃が少し寂しそうな顔をしたのを感じた。澪は胸の奥がきゅっと縮む。今日初めてちゃんと話すことができたが、まだ十分とは言えない。まだまだ話したいこともたくさんある。


 しかし、意識の遠のきには逆らえない。


 だから、一番簡単で、一番強い言葉を選ぶ。


「じゃあ、また来るね」


 紫乃が少し驚いたように目を瞬いた、ような気がする。一拍空いて、返事が微かに聞こえた。


「……はい。お待ちしています」


 風がさらに強くなる。花びらが渦になって、澪の視界を覆い尽くす。昨日と同じ、引き戻される感覚が足元からせり上がってきた。


 澪は反射的に目を閉じる。


 またしても、瞼の裏で桜の色が解けるのを感じた。



 目を開くと、そこはいつもの図書館だった。


 胸の奥に留まっていた春の陽気な空気が、外から流れ込むじめじめした空気に塗り替えられていくのを感じる。


 机の上には、開いたままの百人一首の本がある。そのページの上に、またしても薄い栞が一枚、乗せられていた。


 表には、桜の絵。淡い花びらの舞う春の景色が描かれていた。


 そっと裏返すと、そこには墨で和歌が書かれていた。


『久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ』


 昨日は、好奇心が勝っていた。今日は、ただ楽しかった思い出として噛み締めることができた。


 昨日は、確かめなくてはという焦燥感だった。今日は、ただまた紫乃に会いたいと純粋に思うことができた。


 そのためにも、あの世界に入るための方法をよく調べておかなくてはならない。


 澪は本を抱えて立ち上がると、貸出カウンターの方へと足を運び、そのまま図書館を後にした。

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