第9話 人はいさ 心も知らず ふるさとは
今日もいつもと同じく、決まった席で本を開いた。
澪は昨日の夜、家に帰ってから図書館で借りた本を読んでみたが、そこに載っている和歌はどれも知らないものばかりだ。まだそれらに目を通すのが精一杯で、とても解釈などを考えられる段階にはいなかった。
いつまでも一人で考えていても仕方がない。今日はとりあえず、紫乃に会って話を聞こうと思った。色々と考えてみるのは、それからだ。
不意に、はらりと一枚、薄紅の花びらが手元に落ちてきた。見上げると、どこからともなく一枚、また一枚と花びらが舞い降りてくる。閉め切られたはずの図書館に、春がそっと紛れ込んできたようだった。
いつも通りに現れた和歌の世界への入口に飛び込んだ。
その本棚の列はどこまでも続いているように思え、その果ては見えない。
それでもいつもなら、いつの間にか空気が変わり、足元に伝わる床の感触も変わり、やがて異世界に放り出される。
しかし今日は、何も変わらない。どこまで進んでも、左右には見慣れた本棚が並んでいるのみで、足裏もまだ図書館の床板を捉えている。紙と木の匂いも、さっきまでと何ら変わらない。
違和感を覚えて立ち止まりかけたが、すぐに歩みを戻した。まだ入口が浅いだけかもしれない。そもそも、本棚が延々と続いている時点で、入口が開いていること自体は疑いようもない。先に進んで行けば、何かが起こるはずだ。
澪の期待は裏切られず、そこからすぐに本棚の列は途切れ、視界が開けた。
そこは、さっきまでいた場所だった。
机と椅子が並ぶ旧館図書館の一角。先程飛び込んだ本棚の列の入口が、すぐ背後にある。
「……え?」
澪は一回も曲がっていない。直線的に進んできたはずなのに、いつの間にか百八十度ぐるっと向きを変え、戻ってきてしまったとでも言うのだろうか。そんなはずがない。
辺りを見回していると、ついさっきまで自分が座っていた座席が目に付く。しかしそこには、澪の鞄は置かれていない。机に広げたままの百人一首の本も見当たらない。急いで立ち上がったため、引かれたままになっているはずの椅子も、綺麗に机の下に収まっている。
――もしかして。
澪は窓際へ駆け寄ると、その違和感の正体がはっきりした。
窓の外では、梅の花が満開になっていた。この旧館から延びる小道が、薄紅の花で埋め尽くされている。柔らかく、穏やかな空気を漂わせていた。
あの梅の木は、二月や三月頃に咲いていた記憶がある。ちょうど卒業の時期に映えるようにと、この校名――梅園女子高等学校に倣って、本館と旧館を繋ぐ道に沿って梅が立ち並んでいるのだ。
今日、この図書館に来るまでの道のりでは、あの木々は青々とした葉を付けていた。
つまり澪は、元の場所に戻ってきてしまったわけではない。季節が――時期が異なっている。ここは確かに和歌の世界で、わずかに時を遡った学校に来たのだ。
そうとわかれば、次は紫乃を探さなくてはならない。
閲覧席の間を抜け、書架の陰を覗き込み、カウンターの奥まで確かめる。司書の先生や他の生徒の姿はもちろん、紫乃の姿もなかった。
「紫乃ちゃーん!」
一応呼んでみるが、返事はない。その声は辺りの紙に吸い込まれ、響かない。またすぐに静寂が覆い被さってくる。
澪は踵を返し、図書館を飛び出した。ここにいないのであれば、次に考えられる可能性は校舎だ。
外へ出た途端、柔らかな風が頬を撫でた。その風に乗って、梅の花びらがはらはらと舞っている。春の匂いがした。
その朗らかな空気に似合わず、澪の足音は慌ただしい。梅の木々の下を駆け抜け、本館へと続く道を急いだ。
校舎の中に入っても、人の気配はなかった。
昇降口は静まり返り、廊下を見渡しても、誰一人として見当たらない。見慣れているはずの校舎だが、こうも静かだとどこか不気味で落ち着かない。
紫乃がどこにいるのかはわからない。これから一個ずつ教室を見回っていくしかないのだろうか。
何となく、澪はとりあえず二年三組――自分の教室に向かうことにした。
二階へ続く階段を駆け上がって行く。澪の足音だけが、空っぽの校舎に響く。
窓から差し込む柔らかな光が、廊下を白く照らしている。春の陽気が満ちているはずなのに、妙な緊張感が漂っているように感じた。
二年三組の教室の前まで来ると、澪はその勢いのまま扉を開ける。そこは、一瞬見慣れているように感じたが、すぐにそこが自らのクラスでないことを悟った。
黒板や壁、床、窓がそのままなのはもちろんだが、教室後方に張り出されている掲示物に違和感を覚えた。数十分前まで見ていた、現在の教室のものとは、どれも異なっている。
その中の一つ、カレンダーに目が留まった。これが澪の教室に貼られているのとは別のものというのもあるが、それ以上に引っ掛かるところがあった。そのカレンダーは、去年の三月――年度にすると一昨年度を示していた。これはつまり――
そこまで考えたとき、背後から微かに物音がした。澪は咄嗟に振り返る。
左最前列の座席に、紫乃がいた。彼女は身を小さく丸く寄せ、息を殺すようにしている。まるで、何かに怯える小動物のようだった。いつもの紫乃とはまるで違う。放っておいたら、今にも消えてしまいそうだった。
「紫乃ちゃん!」
あれこれ考えるより前に、紫乃の元へと駆け寄った。
「……っ! 澪さん……」
澪が呼ぶと、紫乃の身体がビクッと跳ねた。そしてゆっくりと顔を上げ、澪の姿を確認すると、険しくなっていた紫乃の表情がわずかに和らいだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
紫乃の手を取りながら、澪はそう呼び掛けた。
ここまで近付いて、澪はようやくあることに気が付いた。紫乃の格好が、いつもの藤色の着物ではない。この学校――梅園高の制服だ。今澪が身に着けているのは夏服、紫乃が着ているのは冬服という違いはあれど、間違いなく同じ学校のものだ。予想はしていたが、紫乃もここの生徒だったのだ。
「いや……えっと……」
紫乃は唇を小さく動かし、弱々しく声を発した。
「どこか悪いの? 体調は平気?」
「はい……それは大丈夫です……」
紫乃は小さくコクリと頷いた。それを聞き、澪は一先ず息をついた。
それでも、相変わらず紫乃の表情は固いままだった。膝の上で指先をぎゅっと重ねて、何かを抱え込むように俯いている。
「何があったのか、少しずつでも大丈夫だから、教えてもらえると嬉しいな」
事情を教えてもらわなければ、澪にはどうすることもできない。だが、この様子の紫乃に、無理に話させるわけにもいかない。澪は努めて優しい声で、最大限穏やかに尋ねた。
「……えっと……どこから話せばいいのかわからなくて」
澪はゆっくりと頷きながら、目で大丈夫と伝える。
しばらくした後、紫乃は言葉を探りながら、たどたどしく口を開いた。
「昨日……澪さんが帰った後、和歌の世界の解釈について考えてみたんです」
澪は黙って頷いた。
「百人一首の本を読みながら、それぞれの和歌の解釈の余地とか、その解釈でどういう世界を展開できそうかとかをイメージしていたんです。そしたら……」
「うん」
「多分、深くイメージしすぎたんです。突然、この世界が出てきて……」
「え、それって……」
そのとき、とある和歌が澪の脳裏をよぎった。
――人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
紫乃が詠んだわけではない。もちろん、澪が詠んだわけでもない。それでも不思議と、この和歌が突然浮かび上がってきたのだ。
それだけではない。古典が苦手なはずなのに、この和歌の意味が、なぜか手に取るようにわかった。
――人の心はわからないものですから、あなたの気持ちも、さあどうだかわかりません。しかし、昔馴染みのこの地で、梅の花は昔のままの香りを漂わせ、美しく咲き誇っています。
澪は、ここに来るまでに見た梅の木々を思い出した。それらがまさに、この歌で詠まれている。
つまり――この歌こそが、今この世界を構成しているということだろうか。そして恐らく、ここには紫乃の解釈が反映されている。その解釈が反映された結果、梅園高に「人はいさ」の世界が展開されたのだ。
だがそれだけでは、今の紫乃の状態を説明できなかった。怯えたような、戸惑っているような、追い詰められたような顔をしていた。紫乃は一体、この和歌にどのような解釈を――どのような過去を重ねたのだろうか。
澪はしばらく紫乃を見つめてから、ゆっくりと手を伸ばした。そっと頭を撫でる。
紫乃が、はっとしたように顔を上げた。今にも泣きそうな程、暗い表情を浮かべていた。
「あのさ……そこのカレンダーによると、ここは一昨年の三月っぽいんだけど……そのとき、何かあった?」
紫乃の顔がまた引き攣る。
「嫌だったら言わなくていいんだけど、もしかしたら、わたしが何か紫乃ちゃんの力になれるんじゃないかと思って」
澪は焦って、立て続けにそう言った。
紫乃はしばらく、黙り込んでいた。細い指先が、膝の上でまた固く握られた。
やがて、消え入りそうな程の小さな声で、
「……長くなりますけど、いいですか?」
「全然大丈夫」
澪は間を置かずに答えた。
「わたしで良ければ、いくらでも聞くから。ここで全部、吐き出しちゃいな」
「ありがとうございます……」
紫乃は目を伏せたまま、微かに息を呑む。
そうして紫乃は、少しずつ、語り始めた。
***
私は小さい頃からずっと、人付き合いが苦手でした。気が小さくて、引っ込み思案で。そういう自分をわかっていながらも、結局直せないまま、この高校に入学しました。
高校生になったからといって、それが急に直るはずもありません。やっぱりここでも、私は他人と上手く話すことができなくて、人間関係を築くことができませんでした。みんなは少しずつ仲良くなっていって、いつの間にか部活も決めていて、放課後になると私は一人になりました。
でもそれは、中学の頃から一緒でした。だからそれ自体はあまり気にせず、放課後に一人でできることを探したんです。中学校では、ずっと図書館に入り浸っていました。だから高校でも、とりあえず図書館に行ってみたんです。
そしたらこの学校の図書館はすごく古くて大きくて、初めて見たときは本当に感動しました。それから放課後には、ずっとあの図書館にいるようになりました。
そんなあるときです。
私は、一冊の本を手に取りました。恐らく澪さんも知ってる、あの百人一首の本です。
あの本を開いた瞬間、私も和歌の世界に連れて行かれたんです。そこでは、今まで頭の中で想像するしかなかったものが、実際に体験できたんです。春の野原も、夏の山も、秋の夕暮れも、冬の雪原も……どれも、これまでにないくらいワクワクしました。
嬉しくなって、私は毎日毎日、和歌の世界に通っていました。いつしか、友達もいなくて居心地の悪い教室よりも、この和歌の世界こそが私の居場所なんだと、そう思うようになっていたんです。
そしたら……多分、和歌の世界に長居しすぎたんだと思います。
いつの間にか、私は和歌の世界に飲み込まれていました。私の存在が、少しずつ蝕まれていたんです。
あれは確かそう――二年生の三月でした。いつの間にか、クラスメイトや先生から、私の存在が認識されなくなっていました。徐々にみんなが、私がいることを認識しなくなっていたんです。でも、点呼のときみたいに、名簿が手元にあるときにはちゃんと呼ばれていたんです。クラスの人数としては、カウントされていたみたいでした。
私はそれでも、特に困らずに生活できていました。元々一人でしたから、何も変わりませんでした。そのままあまり気にせず、図書館に通い続けました。
そしたら今度はまたすぐに、ついに点呼でも呼ばれなくなりました。クラスの人数も、みんなの認識から一人分減っていました。頭数としてすらカウントされなくなったんです。
そこで私は、完全にこの学校で存在が認識されなくなったことを悟りました。私という存在が和歌の世界に飲み込まれて、現実世界からなくなってしまったんです。
だから私は、和歌の世界に閉じ籠ることにしたんです。
和歌の世界は、私にとって最高の居場所でした。教室にいるよりも静かで、周りを気にしなくてよくて、快適でした。和歌も好きなので、楽しかったです。和歌が切り替われば、世界は色々な顔を見せてくれますし、いつまでいても飽きることはありませんでした。
私は、そこに居続けることを選んだんです。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にかその世界から出られなくなっていました。完全に、こっち側の住人になってしまったんです。
でも、そのときにはもう、何も思いませんでした。
ただこれからも、この和歌の世界で生きていこう。そう、決めたんです。
***
紫乃が言い終えた、その直後だった。
ふっと、辺りの空気が変わった。
教室を満たしていた静けさが、別の静けさへと移り変わっていく。窓の外から差し込んでいた春の光が揺らぎ、床も机も壁も、輪郭を失って曖昧に溶けていく。
澪は息を呑んだ。
次の瞬間、そこはもう学校の教室ではなくなっていた。足元には柔らかな草が広がっていた。
見渡す限りの野原だった。人の気配はなく、風が草木を撫でて通り過ぎて行く。遠くには低い山並みが霞んでいて、その静けさは、先程までいた無人の教室よりも深かった。
そして、その野の中にぽつりと一つ、小さな建物があった。質素で飾り気のない小屋だ。今にも風景に溶け込んでしまいそうな程にシンプルな造りなのに、妙な存在感を放っている。
「……っ!」
説明されずとも、澪は直感的にわかった。ここはまた、新しい和歌の世界なのだ。昨日とは違い、解釈が上書きされた程度ではない。根本から、別の和歌へと書き換えられてしまったのだ。
同時に、またしても頭に直接流し込まれるように、一首の和歌が脳裏に浮かび上がった。
――わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり
意味もまた、言葉と一緒に染み込んでくる。
――私の小屋は都の南東にあって、このように平穏に住んでいる。しかし人々は、辛い憂き世から逃れて住む宇治山だと言っているようだ。
澪ははっとして、隣を見た。
紫乃も遅れて、この変化に気付いたようだった。俯いていた顔をゆっくりと上げ、目の前に広がる野原と小さな庵を見つめている。その表情は驚きよりも、何かを悟ってしまったような静かな痛みに満ちていた。
「和歌には、見抜かれているみたいですね……」
ぽつりと、紫乃が呟く。
「それって……」
澪は、その先を言えなかった。けれど、わかってしまった。
そっとその場に膝をついて、紫乃と真正面から目線を合わせる。
紫乃は今にも泣き出しそうだった。唇をきゅっと結んで堪えているのに、目の奥はどうしようもなく揺れている。
その顔を見た瞬間、澪は考えるより先に身体を動かしていた。
ぎゅっと、紫乃を抱き締める。
「……っ」
紫乃が小さく悲鳴のような息を漏らし、体を強張らせた。澪がその背中をそっとさすると、張りつめていた力は少しずつ抜けていった。あまりにも軽くて、壊れそうで、澪は抱き締める力加減にさえ気を遣った。
細い肩が、腕の中でかすかに震えている。
澪が「いいよ」と言うと、耳元でぽた、ぽた、と小さな音がした。
きっと、見られたくないだろう。だから何も確認せず、肩に預けられた頭を、ただゆっくりと撫でる。
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いたら……続きを聞かせて欲しい」
それからしばらくの間、紫乃は泣きじゃくっていた。声を殺そうとしているようだったが、隠し切れていなかった。
だから澪はそれを尊重した。何も見ず、何も言わず、ただそのまま、頭と背中を交互にゆっくりとさすりながら、紫乃が落ち着くのを待った。
どれくらいそうしていたのかはわからない。やがて、腕の中の震えが少しずつ静まっていった。
「……ありがとうございます」
掠れた声が、肩口のあたりから聞こえた。
「ちょっとは……落ち着いてきました……」
紫乃の震えが収まっていくのを確かめながら、澪は抱き締める力をわずかに緩めた。それでも、腕は離さなかった。今ここで距離を空けてしまったら、紫乃を不安にさせてしまう気がした。
紫乃は、肩口に額を預けたまま、小さく息を吸った。
「私が消えてしまったことは……確かにショックでした」
「…‥うん」
澪は頷いた。背中をさすりながら、紫乃が自分から話し始めるのをじっくりと待つ。
「でも、それ以上に……私は、事態が深刻になるまで、何も気付けなかったんです」
「気付けなかった……?」
思わず澪が聞き返すと、肩口で紫乃が小さく頷いた。
「存在は少しずつ薄れていったはずなんです。なのに、それが決定的になるまで、その違和感に気付けなかったんです」
「……うん」
「誰かが話しかけてくれなくなったことにも、隣の席の子が私を見なくなったことにも、先生の視線が私を通り過ぎることにも……すぐには違和感を持てなかったんです」
また、紫乃の声が掠れ始めた。
「それくらい……私は一人ぼっちなんです」
澪の胸が痛んだ。
「最初から、いないも同然で……誰からも必要とされていない存在なんです」
「そんな――」
反射的に否定しかけて、澪は言葉を呑み込んだ。今は紫乃の話を聞くと決めたのだ。
「……うん、聞いてるから」
紫乃はまた、途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「しかも……ようやくその異変に気付いても、私は存在が完全に消えるまで、何もできなかったんです……」
そこで一度、紫乃は息を詰めた。
「……いや、何もできなかったんじゃなくて……何もしなかったんです」
泣きながらも、その声は怒りに震えていた。そしてその怒りの矛先は、恐らく自分なのだろう。その言い直しが、どれだけ紫乃が思い詰めてしまったのかを示しているようだった。
「私は、そんな状況を受け入れてしまったんです」
「……うん」
「そんな自分が嫌で、嫌で、堪らなくて……」
最後の方は、ほとんど泣き声だった。澪は何も言わず、ただ紫乃の頭をそっと撫でる。
少しの沈黙のあと、紫乃はとうとう観念したように言った。
「だから私は……この図書館に籠ったんです。私はこの図書館に……ここに逃げてきたんです」
その言葉を最後に、紫乃はまた小さく俯いた。
これが、紫乃の本音なのだろう。
澪はしばらく何も言えなかった。腕の中の紫乃を感じながら、その一言の重さを、ただ受け止めることしかできなかった。ただその細い肩を抱き寄せていた。
この歌は、紫乃の心そのものなのだ。
紫乃は人間関係に悩み、自分が嫌になって、この場所に逃げ込んだ。
その一方で、そんな自分を守るために、ただ和歌が好きだから、ここが快適だから、自分はここにいるだけなのだと、必死に言い聞かせてきた。
逃げた自分を責める心と。それでも壊れてしまわないように、何とか言い繕ってきた心と。
相反する二つの心。その葛藤がきっと、この歌を呼び寄せてしまったのだろう。
横目でそっと紫乃を見つめた。紫乃は感情が溢れ出し、澪の肩を濡らしている。
澪には、紫乃の葛藤が身に沁みてわかった。
澪自身、人間関係を上手く築けているとは言い難い。広く浅く、誰とでもそれなりにやれる。けれど本当に踏み込んでいくのは苦手で、どこかで距離を測ってしまう。
そして、そういう自分を、自由だからだとか、一人でも平気だからとか、何とか言葉をつけて正当化してしまうことがあるのも事実だった。
だからこそ、紫乃の気持ちには、少しだけ見覚えがあった。
しかし、だからと言って、ここで「わかる」とは言えなかった。そんな言葉で触れてしまっていいほど、紫乃が抱え込んできたものは軽くない。
教室の中で少しずつ存在を失っていくこと。それに気付けないほど、最初から一人でいたこと。気付いてもなお、何もできず、何もしなかった自分を責め続けること。
その痛みの大きさは、澪にはとても測り知れなかった。
わかったような顔をして、それに寄り添うような言葉を掛けてしまえば、紫乃がたった一人で耐えてきた時間まで薄めてしまいそうな気がした。
だから澪は、あえて正面からぶつかることにした。下手な共感はしない。
それに、今の話を聞いて、澪にはどうしても言ってやりたいことがあった。喉元までせり上がってきた言葉は、もう引っ込められそうにない。
澪は唇をきつく結ぶと、紫乃の両肩に手を掛けた。そのまま、抱き締めていた身体をゆっくりと引き剥がし、真正面に向き合った。
「紫乃ちゃんって……和歌に詳しいし、何かあったときは機転が利くし、すっごい賢い子だって思ってたけど……」
一度、息を吸う。胸の奥で渦巻いていたものを、そのままぶつけるように。
「何もわかってない! ほんっとうにバカだよ!」
紫乃は俯いたまま、ビクッと肩を揺らした。
澪は肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「今度はわたしの番。ちゃんと、わたしの話を聞いて欲しい」
そこで、ほんの少し間を空けた。これは紫乃を落ち着かせるためでもあったし、何より、自分自身の気持ちをちゃんと整理するためでもあった。
「紫乃ちゃん、さっきから『私は一人ぼっち』とか、『誰からも必要とされていない』とか言ってたけど……」
澪の声は、震えていた。
「わたしがいるじゃん!」
言葉と一緒に、胸の奥に溜まっていた感情が堰を切る。
「わたしがいるから一人じゃないし、わたしが必要としてるじゃん! だから、そんなに自分を卑下するようなことは言わないで欲しい!」
言いながら、視界が滲んだ。熱いものが頬を伝っていくのがわかった。けれど、もう止められなかった。
「わたしが好きな紫乃ちゃんのことを悪く言う人は、わたしが許さない!」
澪は涙を拭うこともしないまま、さらに言い募る。
「それがたとえ、紫乃ちゃん本人だとしても!」
声が響く。山奥の静かな野原には少し不釣り合いなくらい、真っ直ぐで、感情が剥き出しの声だった。
澪はそのまま、両手で紫乃の頬を挟んだ。その頬は、涙でぐしゃぐしゃだった。それでも、俯いた紫乃の顔をそっと上へ向けた。
ちゃんと、目を合わせて話したかった。
至近距離で視線がぶつかる。
紫乃は驚いたように目を見開いていた。真っ赤に腫らした目が、ひどく頼りなく揺れている。
「いい?」
澪は、涙声のまま言った。
「わたしがここにいる。だから紫乃ちゃんは一人にさせないし、わたしがいつまでも紫乃ちゃんを必要としてる!」
言い切った、その勢いのまま。
澪は紫乃の唇に、自分の唇を重ねていた。
「……っ!」
紫乃の息が、震える。
少し乱暴だったかもしれない。それでも、澪がどれだけ紫乃のことを想っているのか、言葉だけでは言い表せなかった。
唇から、紫乃の温度が伝わってくる。柔らかくて、微かに震えていて、確かにそこにあった。
どれくらいそうしていたのかは、よくわからなかった。数秒だったような気もするし、もっとずっと長かったような気もする。
次第に澪の頭にも少しずつ冷静さが戻ってきて、遅れて猛烈な恥ずかしさが押し寄せてくる。
澪は、ゆっくりと唇を離した。
目の前の紫乃は、驚いたまま固まっていた。けれどその表情には、単なる戸惑いだけではなく、どこか照れたような色も混じっている。
恐らく今、澪自身も相当真っ赤だ。今すぐ顔を伏せてしまいたかった。
それでもまだ、言わなければならないことがあった。
「わたしは、紫乃ちゃんが大好き」
これだけは、しっかりと言葉にしておきたかった。
「初めて見たときから、綺麗な子だと思ってた。和歌を詠むときの、あの透き通った声も好き。この世界に迷い込んだとき、紫乃ちゃんの声が聞こえると、すごく安心した」
だがこの気持ちは、一度出てしまえば、もう止まらなかった。
「それだけじゃなくて、紫乃ちゃんと話してると、すごく楽しかった。だんだん冗談も言ってくれるようになって、仲良くなれて、本当に嬉しかった」
胸の奥にあった気持ちが、次々と言葉になって溢れていく。
「だから、そんなに悲しい顔をしないで欲しい。これからも、わたしと一緒に笑っていて欲しい」
それはもう、誤魔化しようがない程の、愛の告白だった。かなりクサい台詞だとも思った。それでも、もう気持ちを抑えることはできなかった。
紫乃は、何と言えばいいのかわからないと言うように、唇を開いては閉じてを繰り返していた。
「……えっと、その……ありがとうございます……」
ようやく出てきた声は、震えていた。だがそれは、悲しみや怒りによるものではない。
「そんな風に想っててくれて、嬉しいです……えっと、その……」
言い淀む紫乃を、澪は急かさず見守った。こうしておろおろしている紫乃まで、可愛いと思ってしまう。
勢いで口走ったところがなかったとは言えない。
けれど、それでも。
今、自分の胸にあるこの気持ちに、改めて気付かされる。
これは間違いなく、恋だ。
紫乃は澪の真っ直ぐな目を見つめ返したまま、何度か息を整えて――やがて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……私も……澪さんが好きです」
紫乃は、そう言い切ったあとで、ほんの少しだけ息をついた。それから、照れたように、そして嬉しそうに、にこっとはにかんだ。
その表情を見た瞬間、澪の胸の奥がまた熱くなった。
思わず、もう一度。
澪は紫乃に唇を寄せていた。
今度は短く、触れるだけのキスだった。
ただどうしようもなく愛おしいという気持ちを、そのまま伝える。
唇を離すと、紫乃はまたみるみる真っ赤になっていた。けれどきっと、それは澪も同じだ。自分の頬も、耳のあたりまで熱くなっているのがわかる。
澪はそれを誤魔化すように、今度はまた、ぎゅっと紫乃へ抱きついた。
「わっ……」
紫乃があたふたと息を乱す。けれど今度は、その戸惑いのあとで、そろそろと紫乃の方からも腕が回ってきた。
抱き返してくれた。
それが嬉しくて、澪は思わず抱き締める力を少しだけ強くする。
耳を澄ませば、紫乃の鼓動がよく聞こえた。ものすごい速さで打っている。
それが可愛くて、愛おしくて、澪は思わず笑いそうになった。
「紫乃ちゃん、大好きだよ」
抱き締めたまま、紫乃の耳元で囁く。
「わたしがいるから、大丈夫。わたしのためにも、これからも笑っていて欲しい」
少しの間を置いて、紫乃も小さな声で答えた。
「……わかりました」
腕の中で、紫乃の肩がかすかに揺れる。
「澪さんがいてくれるなら、もうあんなこと言いません」
それから、ほんの少しだけためらって、それでもちゃんと、はっきりと続けた。
「あと……私も大好きです」
耳元で囁かれたその声は、くすぐったかった。胸の内が、じんわりと満たされていく。
このまま、ずっとこうしていたい。
そんな風に思った、そのときだった。
ざあっと音を立てて、強い風が吹き込んできた。辺りの草木が一斉になびき、静かだった野原が、一気に騒がしくなる。
和歌の世界が終わるときの、いつもの風だ。
「……あ」
澪は顔を上げた。
いつも通りの別れのはずなのに、今日はやけに名残惜しい。さっきようやく気持ちを伝え合えたばかりなのに、もう引き離されてしまう。
「もうお別れかぁ……」
澪は紫乃を抱いたまま、情けない声を漏らす。
「まだ紫乃ちゃんと一緒にいたいな」
「私もです」
紫乃も、少し残念そうに目を伏せた。
「でも残念ながら、そうはいきません……」
「そうだよね……」
澪はしゅんとしながらも、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、せめて最後まで、紫乃ちゃんとこうしていたい」
澪はまた、紫乃を抱き締め直した。紫乃は優しく笑いながら、返事をした。
「いいですよ」
紫乃の方からも、改めてぎゅっと抱き返される。
次に会えるのは、明日の放課後。
たった一日。けれど今の澪には、その二十四時間がとてつもなく長く思えた。
だからせめてその分まで、今ここで紫乃を感じておきたかった。
その細い身体から感じる温もりも、髪の感触も、速すぎる鼓動も。全部、忘れないように。
そうしているうちに、徐々に、紫乃を抱く腕の感覚が薄れていくのがわかった。
「そろそろみたい」
澪は唇を引き結びながら言う。
「また明日来るから、それまで待っててね」
すると紫乃は、腕の中で小さく頷いた。
「はい。待ってますから、早く来てくださいね」
その言葉を最後に、澪の意識は刈り取られるようにふっと途切れた。
目を開くと、図書館に戻ってきていた。
机の上には、開いたままの百人一首の本が置かれている。
念のため、窓の外に目を向ける。本館まで続く道は、鮮やかな緑に覆われていた。
今度こそ、元の世界に戻ってきたようだった。
手元を見ると、そこにはいつもと異なり、二枚の栞が並べられていた。
『人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける』
そのうちの一枚には、こう書かれていた。裏返すと、そこには美しく咲き乱れる梅の花のイラストが描かれている。梅の花が、春の気配ごと閉じ込められているみたいだった。
『わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり』
もう一枚には、別の歌が書かれていた。その裏には、山奥にぽつりと佇む小屋の絵が凝らしてある。ひっそりと、誰にも見つからないようにそこにある姿が、妙に胸に残った。
そこで澪は、今回初めて二つの和歌の世界を渡ったことを思い出した。途中からはそれどころではなくなって、すっかり頭から抜けていた。
澪は栞を見つめたまま、そっと息を吐く。こうして物として残っていると、先程までのことが夢ではないと、改めて感じることができた。
ふと何かを思い出したように、澪は鞄からスマホを取り出した。電源を入れ、インカメラを開く。
画面の中に映ったのは、いつも通りの自分の顔――いや、正確には、少し寝起きみたいな自分の顔だった。
さっきまで、あれだけ泣いていたはずなのに。顔を真っ赤にしていたはずなのに。その痕跡は一切残っていなかった。
こちらの世界の身体には、どうやら反映されていないらしい。
そこで少しだけ、澪は安心する。目を腫らしたまま帰ったら、誰かに心配されるかもしれない。
澪は、二枚の栞を丁寧に鞄へしまい込むと、それと入れ違いに二冊の本を取り出した。昨日、解釈について考えるために借りた、百人一首についての本である。
和歌の世界は、こちらから解釈を与えたところで、必ずしも良いことが起こるとは限らない。今回を通じて、身に沁みてそう感じていた。……今回に限っては、結果的には良かったとも言えるが。
それに何より、この二冊を入れたままにしているのは重かった。
澪は鞄を肩に掛けると、それらを抱えて司書席の元へと向かった。財布から図書カードを取り出し、本と一緒にカウンターへ置いた。
司書の先生は、何やら取り込み中らしい。パソコンの画面に集中していて、なかなかこちらに気付かない。
「すいませーん」
声を掛けてみるが、返事はない。
それどころか、まだこちらに気付いている様子もなかった。
あまり大きな声を出さないようにと、少し遠慮しすぎたのかもしれない。
澪は一度息を吸い、今度はさっきより少しだけ声を張った。
「すいませーん!」
するとようやく、司書の先生が顔を上げた。
「あ、ごめんごめん」
小さくそう言いながら、返却処理を進めてくれる。バーコードを読み取る音が、静かな図書館に短く響いた。
軽く会釈してカウンターを去ると、澪は図書館の扉を開き、晴れやかな気持ちで帰路に就いた。




