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第8話 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の

 また次の日の放課後。


 本を開くと、途端に視界の端で、何かがちらちらと動いているのが見えた。


 風に揺れながらゆっくりと落下してくるそれは、みおの手の甲でじわっと溶けた。それに続いて、また一つ二つと、白い粒が降ってくる。


 雪だ。勢いこそないものの、絶えず静かに、しんしんと舞い落ちる。


 それらが地に着くのを待たずに、澪は席を立った。今日もまた、和歌の世界に踏み入って行く。



 靴底がわずかに沈む。それに足を取られ、一瞬バランスを崩しかけるが、無事取り直す。


 澪が出た先は、海岸だった。


 砂浜がゆるやかに弧を描き、そこに広大な海が横たわっている。水平線は遠く、空と海の境目は曖昧で、どこまでも続いているように見えた。波が寄せては返り、濡れた砂が鈍く光る。


 図書館に雪が降ってきたことから、雪原に放り出されることを覚悟していた澪は、拍子抜けしてしまう。


 しかし、今ここが冬であることは確かなようだ。そこに広がる海は鮮やかな青ではなく、どこか沈んだような深い青色だった。この海に入ろうなどとは、到底思えない程だ。足先ですら入りたくない。


 澪は息を吐き、背後を振り返った。


 そこには砂浜の終わりを縁取るように、山が切り立っている。その急斜面には鬱蒼とした木々が生えており、その深すぎる森はどこか不安を感じさせた。直感的に、ここに紫乃しのはいない気がした。


 向き直り、左右に視線を巡らせる。紫乃がいるとしたら、この海岸のような気がするのだが、その姿は見えない。


 右手の方向は、延々と同じ景色が続いているように見えた。その果てはどこなのか、一目ではわからない。一方左手の方は、少し歩いたところで背後に連なる山の線が途切れているようだった。開けた場所に出られそうだ。とりあえず、澪はそこを目指すことにした。


 砂浜に足跡を刻んでいく。乾いた砂は柔らかく、踏み込むと靴の縁からさらさらと流れ込んできそうになる。だからと言って波打ち際に寄りすぎれば、濡れた砂が靴に纏わり付いて、それはそれで歩きづらい。そして何より、波が直撃して濡れたら最悪だ。澪はその中間の、ちょうど良い位置を探りながら歩いた。


 時折、冷たい海風が吹くと、体の芯から震えた。その瞬間以外は、この静まり返った世界に、波の音だけが響いていた。


 そうしてしばらく進んだところで、澪はふと立ち止まった。波と風の音に混じって、何か別の音も聞こえた気がしたからである。


 耳を澄ます。雑音の中で、確かな芯を持った一本の音が耳を刺す。


 胸が跳ねた。紫乃の声だ。


 姿はまだ見えないが、声だけが届いた。恐らく、いつものように和歌を詠み上げているようだった。わざわざこんなことをしているのは、この声を目印にしろということなのだろう。いつだかの、霧のときと同じだ。


 途端に、澪の足取りは軽くなる。靴に多少入り込んで来る砂をものともせず、駆け出した。


 恐らく詠み終えたのだろう。その声は一旦途切れ、波風の音が戻って来る。


 短い間が空く。澪は軽く息を吸い込み、足に力を入れた。今のうちに、紫乃との距離を詰めておきかたかった。この後にもう一度詠み上げられるであろう和歌を、せっかくだから、今度は内容も聞き取っておこうと思った。


 案の定再び、細くもはっきりとした、澄んだ声が響く。澪は足を緩め、耳を傾けた。


 

 ――田子の浦に うち出でてみれば 白妙しろたえの 富士の高嶺に 雪は降りつつ



 澪は思わず目を瞬かせる。富士山を詠んだ歌として、聞いたことがある。今日は、その有名な歌の世界なのだろう。ということは、ここは田子の浦で、どこかに富士山があるはずだ。


 そんなことを考えているうちに、紫乃はもう一周、同じ調子で詠み始める。


 早く行ってあげなきゃ――そう思い、澪は駆け足になる。呼吸を乱しながらも、砂を蹴る。頬を叩く風は冷たかったが、身体の奥は熱を帯びていた。


 やがて、ずっと左を塞いでいた山が途絶え、景色が開けた。覆われていた空が、パッと現れる。


 そして何より、そこには富士山が力強くそびえ立っていた。


 綺麗に整った、円錐形の輪郭。真っ白な雪を頂上に被っており、それが青い空の下にくっきりと浮かび上がっている。その圧倒的な存在感は、到底「目立つ」などという言葉では言い表せない。まるでこの場にある全て――海も空も、周囲の山々も、この富士山を引き立たせるためだけに存在しているような気さえした。


 澪の視線はその光景に吸い寄せられた。胸がざわつく。瞬きも忘れて、目が釘付けになってしまう。


 もちろん、今までに何度か富士山を見たことはあった。しかし、それらは大半が写真や映像越しだ。直接、こんなに間近で見たのは初めてだった。だがそれでいて、どんなに手を伸ばしても届かない。近いようにも、遠いようにも思われ、それがまた富士山の神秘性を際立たせた。


 ――綺麗だ。


 ただそれだけの言葉なのに、喉の奥で転がったまま出てこない。


「澪さーん!」


 名前を呼ばれて、意識を引き戻される。忘れていた瞬きと呼吸を、一気に取り戻す。


 声のした方向を見ると、そこに紫乃がいた。波打ち際から少し離れた場所の大きな岩の傍で、手をぶんぶん振っている。


「はいはーい!」


 澪は声を張り上げ、応えるように片手を振り返す。紫乃がそれを見たのを確認すると、真っ直ぐに駆け出した。


 紫乃はくるっと振り返り、富士山の方を向くと、そのまま岩へと腰掛けた。紫乃の右隣には、ちょうど一人分のスペースを空けてある。そしてそこを、右手で軽くぽんぽんと叩いているのが見えた。


 澪は軽く頷くと、紫乃の誘導の通り、彼女の横に腰を下ろした。制服のスカート越しに、岩の冷たさを感じる。


 視界には、雄大な富士山が飛び込んで来る。ちょうど遮る物がなく、この岩は絶好のビュースポットになっていた。


「ここ、めっちゃ見やすいね」


「はい。せっかく先に来たので、見やすい場所を取っておきました」


 澪が「ありがと」と返すと、紫乃がはにかんだ。


 それを見て、澪はそっと左手を伸ばし、紫乃の右手に重ねた。一瞬、わずかに強張ったように感じたが、それもすぐに力が抜けた。


「今日も会えてよかった」


「昨日の今日じゃないですか」


「確かに」


 何だかおかしくなって、二人で笑い合った。同時に、心の底の不安が解けていく。こんなことを言いながらも、やはりどうしても拭い切れないものはある。


 二人とも落ち着いた頃、澪は富士山へ視線を戻しながら口を開いた。


「そういえばさっき詠んでた歌、流石のわたしでも聞いたことあったよ。めちゃくちゃ有名なやつだよね」


「はい。百人一首の中で一番有名と言ってもいいかもしれません」


 紫乃は短く頷くと、座ったまま姿勢を正し、背筋をぴんと伸ばす。澪がその所作の美しさに目を奪われているうちに、準備を整えた紫乃が改めて詠む。


 

 ――田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ


 

 やはり、何度聞いても綺麗な声だ。それでいて、力強く真っ直ぐに飛んで行くようだった。


 この歌を聞いて富士山を見直してみると、その輪郭が一層くっきりしたように感じた。和歌もまた、この堂々たる富士を装飾する。


「この歌って、意味は結構そのままだよね? 田子の浦で富士山を見上げると、山頂の方で雪が降っている、みたいな?」


「そうですね。ほとんど合っています」


 紫乃は、視線を澪へと戻しながら言う。


「最後の『つつ』は、山頂で雪が降り続いてることを表してるんです。そうやって直接見えていないものを詠むことで、一気に幻想的な歌になって、奥深く感じられるようになるんです。まあ……とにかく、雄大な富士山とその神秘性を詠んだってことです」


 澪がよくわかってなさそうなのを察してか、紫乃が咄嗟に言い直した。澪も「ごめんごめん、古文苦手で」と釈明する。


 澪は富士山を、今度は山頂の雪に着目して眺めてみる。もちろん、それが降っている様子を直に見ることはできない。でも確かに、その様をイメージすることはできた。


 静かに、穏やかに、しんしんと降る雪。そしてそれは絶え間なく続き、やがて目に見える程に積もっていく。一枚の画像としてではなく、時間の流れを帯びた映像として、浮かび上がってくる。


 何となく、紫乃の言っていることがわかった気がした。


 しばらくの間、二人は手を重ねたまま、静かに眺めていた。遠くで波が立てている音だけが、小さく耳に入る。


 しかし澪は、富士山の壮大さに感銘を受ける一方で、どこか違和感を覚えていた。少し前から――いや、正確にはこの山を一目見たときから、妙に引っかかるものがあった。じっくりと見れば見る程、その胸のざわめきは徐々に大きくなってくる。輪郭が少しずつブレて、霞んでいく。


 ――何かがおかしい。


 澪は無意識に視線を走らせた。頂の雪、裾野の広がり、空との境界。記憶の中の富士山の姿を頭の中で呼び起こして、目の前のそれと重ね合わせる。


 隣を見ると、口元へ指を当てながら、紫乃も怪訝な表情をしていた。澪と同様、何かを探るように視線を巡らせている。


「紫乃ちゃんも……何かおかしいと思ってる?」


 突然声を掛けられ、紫乃は驚いたように勢いよく振り返った。


「……澪さんもですか?」


「うん。上手く説明できないんだけど、何か違和感を覚えると言うか、何かがもの足りない気がすると言うか……」


「もの足りない……?」


 紫乃はその言葉を反芻すると、眉を寄せた。次の瞬間、何かに辿り着いたみたいに目を見開いた。


「あ、宝永山ほうえいざん


 紫乃が岩から跳ねるように立ち上がった。今まで見てきた紫乃の中で、恐らく最も速い動きだ。澪は一瞬本題を忘れ、そちらに驚いてしまいそうになる。


「……宝永山?」


「はい、宝永山です。富士山の中腹にある出っ張りです。この富士山には、それがありません」


 紫乃が富士山の右側を指差しながら言い放った。


 澪はその言葉に、遅れてピンと来た。そうだった。今まで写真で見た富士山は、完璧な円錐ではなかった。右側に小さな肩のような突起があったはずだ。言われた途端に、脳内でその輪郭が蘇る。


 澪も立ち上がり、改めて目の前の富士山を注視する。確かにそこには、宝永山が見当たらなかった。削り取られたり、崩れたりしてなくなったといった様子ではない。最初から、そんなものは存在していないと言わんばかりに、痕跡や名残すら感じられない。


 その山は、裾野にかけて滑らかな線を描いていた。あまりにも整い過ぎている円錐形だった。


「ほんとだ……確かに、宝永山がない」


 澪がそう呟いた直後のことだった。


 二人の横から、唐突に風が吹き込んできた。海風とは違う、乾いた風。


「……っ!」


 土埃が舞う。長い髪がなびく。二人の視界は、たちまち遮られた。反射的に軽く顔を伏せ、手で覆ってしまった。


 だがそれもほんの一瞬のことだ。時間にしてわずか数秒、砂を舞い上げながら、そのまま吹き抜けて行った。


「……大丈夫?」


「はい……急でしたね」


 澪は腕を下ろしながら、手の甲越しに、指と指の間から再びその山を見返した。


 ——富士山だ。澪たちが見慣れた、正真正銘の富士山。右肩の宝永山が、確かな存在感を放っている。


「あれ?」


「どうしました?」


 まだ気付いていない紫乃に、目線で合図を送る。遅れて気付いた紫乃も、小さく声を上げた。


 宝永山が突然現れた――そうとしか言えなかった。今の一瞬のうちに、風とともに現れたのだ。


 澪は息を呑んだまま、紫乃と顔を見合わせた。さっきまでは、確かに存在していなかった。紫乃が指を差して、二人で確認したのだ。


「これは……和歌の世界が書き換えられた……ってことになるのかな? ここってそんなことも起こるんだね」


「……私も、こんなことは初めてです」


 言葉を交わしつつも、二人の視線は富士山に張り付いたままだった。またいつ異変が起こってもおかしくない気がした。


「これって……つまり、どういうことなんだろ?」


「えっと……わかりません……」


 紫乃ですら知らない、不測の事態だった。


「まずさ、そもそもなんで最初は宝永山がなかったのかってところだよね」


「それについては、冷静に考えてみたら、一つ思い当たることがあります。『朝ぼらけ』の歌のときに話したこと、覚えてますか?」


「『朝ぼらけ』って、あの霧のときだよね」


「はい。あのとき、平等院鳳凰堂の話をしましたよね」


「うん。歌が詠まれた当時の世界になってるはずだから、まだ建ってないかもしれないって言ってたね」


「まさにそれなんです」


 紫乃はそう言うと、富士山の中腹――今度は宝永山を指差した。


「宝永山って、確か江戸時代の噴火のときにできたものだったはずです。そしてもちろんこの和歌は、それ以前に詠まれています」


 澪は納得したように、小さく声を漏らした。歴史だったか地理だったか、何かの授業のときに、そんな話を聞いたことがある。


「何となく、富士山ってずっとあの姿だと思ってた」


「私もです。そういう話自体は知ってたんですけど、あんまり実感がなくて、さっきは少し取り乱してしまいました」


 自然のものは、昔からそこにあるような気がしてしまう。人間の歴史よりもずっと前から、姿を変えずに鎮座しているイメージがあった。たった今、この瞬間まで、三百年や四百年程度の昔に、富士山が大きく姿を変えたなどという話は、到底信じられなかった。


「なんで最初は宝永山がなかったのかはわかったけど……じゃあ、なんで今はあるんだろ?」


 澪は首を傾げ、紫乃は顎に手を当てた。


「あの風の直前、ちょうど宝永山の話をしてたよね。もしかして、それが原因だったりするのかな?」


 その問いかけに、ゆっくりと、慎重に考えながら、紫乃は唇を動かした。


「私たちの、解釈が反映されたのかもしれません」


「解釈?」


「はい。あくまで予想ですが……私たちが現代の富士山の姿を強く思い浮かべたから、私たちが思う富士山の形に、世界の方が寄ってきたのかもしれません」


「え? そんなことできるの?」


「いえ、私も知りませんでした」


 紫乃は首を小さく振りながら、続ける。


「和歌の世界は、そこにある言葉を描き出すだけで、私たちはそれを一方的に受け入れるしかないと思ってました。でも……これを見ると、そう考える方が自然な気がします」


 富士山を仰ぎ見ながら、紫乃が言う。


「じゃあ、もしかしたらこの和歌の世界って、わたしたちの解釈で色々と変えられるのかもしれないね」


「そうなりますね」


 二人の間に、久し振りの沈黙が訪れた。和歌の世界に対して、こちらから解釈を与えることができるかもしれない――そんな新事実を突き付けられても、澪は何も言うことができなかった。だが、紫乃は違うようだった。


「あ、そういえば……」


 何かを思い出したかのような声を漏らす。澪が「どうしたの?」と言うのより早く、紫乃は次の言葉を続けた。


「実はこれまでの和歌の中には、いくつかの解釈が存在するものがあるんです」


「いくつかの解釈?」


「はい。一つの歌から、その意味の捉え方が複数できてしまうものがあるんです」


「なるほどぉ? 例えばどういうの?」


「そうですね……昨日の歌も、まさにそうです」


 ――奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき


 鹿の声が、脳裏に蘇る。まだ記憶に新しい。山奥でその声を聞いて、辿った先で紫乃に再会できたのだ。


「この歌には『紅葉踏み分け』の主語が誰なのか、というところで解釈が分かれるんです。紅葉を踏み分けているのは、人とする説と、鹿とする説があります」


 澪はへぇと相槌を打った。そう言われてみれば、どちらの捉え方もできる気がする。


「そして現在は、鹿を主語とする方が通説になっています。でも……個人的には、人とする方が趣があると思っているんです。奥山に一人で分け入る孤独感と、鹿の声の悲しさが重なる感じがして好きなんです」


 澪は、昨日の光景を思い浮かべた。紫乃を探して、山奥を歩き回ったこと。ほとんど姿は現さず、一瞬だけ現れてすぐに消えてしまった鹿。それらから考えると――


「昨日って、主語は人だったよね?」


「そうなんです」


 鋭いですねと言わんばかりに、紫乃は人差し指を立てている。


「基本的に鹿の方が正しいはずなのに、和歌の世界は人の方が採用されていたんです。つまりこれは多分、私の解釈が反映されてるってことなんだと思います」


 澪は目を見開いた。それはすなわち、解釈の仕方によっては、この世界を書き換えられるだけの力を持つことになるのかもしれない。だが今の澪には、その解釈をするための知識が決定的に足りていない。これがどのような事態を引き起こしうるのか、全く予想することもできなかった。


 思い出したように富士山を見上げると、そこには宝永山の輪郭が、今となっては当たり前のように縁取られていた。


 突如、風向きが変わった。さっきから吹き続けていた海風に代わって、異質な風が滑り込んで来る。宝永山を連れてきた風ともまた違う。この空気は、帰還の合図となる風だ。


「今日はここまでっぽいけど……いつにも増して凄かったね」


 帰り際は、明るく振る舞おうと決めていた。少しおどけるようにして言う。


「そうですね……私にも、まだこの世界にはわからないことだらけです」


「じゃ、また明日来るからね」


「はい。では私はそれまでに、和歌の世界の解釈について色々考えてみます」


「わたしの方でもちょっと考えてみるね。とは言っても、大した力になれるかはわからないけど」


「いやいや、そんなことないですよ」


 紫乃は両手を前に出して、小さく振る。


「澪さん、意外と鋭いですから」


「意外とは何だ」


 澪が小突くと、紫乃は小さく笑った。


「じゃあ、またね」


「はい。お待ちしてます」


 次の瞬間、澪の視界の中の輪郭がふっと解け、そのまま意識も徐々に遠のいていった。



 瞼を開くと、相変わらずそこは図書館だった。手元には、一枚の栞が置かれている。


『田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ』


 裏面には、カーブを描く海岸線と、その奥に佇む富士山のイラストがあった。頂上は真っ白で、空の青とのコントラストが、美しく表現されている。さっきまでの田子の浦の風景を、そのまま落とし込んだみたいだった。


 しかし、そこに宝永山はない。頂上から裾野まで、滑らかな曲線が続いている。


 おかしいと思いながら、澪はその栞を手に持ち、よく観察してみた。栞を傾け、違う角度から覗き込んでみる。


 すると――ある角度までは見えなかった宝永山が、それを越えると突如右肩に現れた。


 はっきりとした線で見えているわけではない。薄い影が重なって、そこに形があるように見えた。まるで、ポスターやグッズで見かけるような、角度によって変わって見える絵――レンチキュラー加工のようなものが施されている。


 今日のできごとの前後を、この栞は一枚の中で同時に抱えている。何となく、これがあの世界の不安定さと通じているような気がしてならなかった。せめて栞は丁重に扱おうと思い、いつもよりも慎重に鞄にしまった。


 そして今日は、いつもの本以外にも、百人一首について書かれているものをいくつか借りてみようと思った。紫乃に宣言した以上、自分でも和歌の解釈について、色々と考えておきたい。


 百人一首の本棚から数冊手に取り、ページをパラパラとめくる。その中からちょうど良さそうなものを二冊選び、カウンターへと向かった。

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