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第7話 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の

 月曜日――週初めの授業は、最初から最後まで、(みお)の頭の上を通り過ぎて行った。黒板の文字をノートに写していたが、気付けばそれは単なる作業になっていた。内容はほとんど入ってこない。先生の声も、教室の喧騒も、どこか遠くに感じられた。


 休み時間になれば、周囲の気も緩んでくる。椅子が鳴り、誰かが笑い、机を叩く音がする。澪の席にも、いつものように友人が寄ってきた。


「ねえ澪、昨日の――」


「うん」


 返事はした。相槌も打った。口元も、たぶん笑っていたと思う。けれど視線は、友人の肩越しの窓の外に自然に吸い寄せられていた。校舎の向こうにあるはずの旧館の方角を、無意識に探してしまう。


「……聞いてる?」


「あ、ごめん。聞いてる、聞いてる」


 友人の声で、会話をしていたことを思い出す。


 これでは相手に失礼だと思って気を取り直すが、やはりいつの間にか、上の空になってしまう。


 土日の二日間、紫乃(しの)とは会えなかった。


 何も起こらないとわかっていたはずなのに、家では百人一首の本を何度も開いてしまった。開いて、閉じて、また開いて。


 会えるのは、あの図書館で、放課後だけ。その法則が週末の間、じわじわと澪を悩ませていた。


 今日は、それだけのために登校したと言ってもいい。放課後になって図書館へ行けば、また紫乃に会えるはず――頭の中ではそればかりを考えてしまって、他のことが入る余地がない。


 そんな風に考えながら過ごしていると、一日というのは非常に長く感じる。小まめに時計を見ても、なかなか進んでいるように見えない。


 その一時は永遠とも思えた時間を乗り越え、ついに放課後を告げるチャイムまで到達した。その瞬間、今日一日薄くぼやけていた視界が、一気に焦点が定まり、はっきりしたものになる。


 チャイムが鳴り終わるより早く、澪は鞄を掴んで立ち上がっていた。


 やっと放課後だ。そう思った瞬間、二日間と半日分、胸の奥に溜め込んでいたものが一気に弾けた。


 澪は教室を出ると、そのまま駆け足で、最短距離で図書館へと向かった。廊下を曲がり、階段を降り、中庭を抜ける。そこにいる人々の間を縫っていくように進んで行った。


 ここまで来てしまえば、もうすぐだ。授業中の待つしかないもどかしさに比べれば、体を動かせる分、旧館までの道のりは一瞬に感じた。


 旧館に辿り着くと、澪は息を整える暇も惜しんで扉を開けた。そこは校舎の騒がしさとは一転、静寂に包まれていた。いつも通りの図書館だ。


 澪は早足で座席へと向かうと、先週と同じ手順をなぞった。迷いなく、テキパキと動く。自分でも驚くくらい、手際が良かった。


 

 本を開き始めてすぐ――まるで澪の期待に応えるかのように、異変は発生した。


 頭上から、ひらりと一枚の紅葉が落ちて来た。空気の抵抗を受けながら、ゆっくりと机の上に着地する。しかし澪が、その一部始終を見届けることはなかった。


 澪はその様子を視界の端で捉えると、すぐさま本棚へと向かった。異変が起きたということは、和歌の世界への入口が開いたことを意味している。


 今日も本棚の奥行きが、確かに深くなっていた。だが今日は、ただ深くなっているだけではない。


 その先には道が見えた。薄いがはっきりと、澪が進むべき道が示されているようだった。


 その道を辿って行くと、やがて足元からカサカサとした音が鳴り始めた。足がわずかに沈んでいく感触を覚え、先程よりも一歩一歩、しっかりと踏み締めながら進んでいく。


 視線を落とすと、そこにはやはり紅葉が敷き詰められていた。茶色いもの、赤いもの、黄色いもの。色とりどりの葉が折り重なって、道を柔らかく埋め尽くしている。乾いたものもあれば、湿り気を含んだものもあって、踏むたびに音が少しずつ変わった。


 そしていつしか、両脇に並んでいた本棚も、秋の木々へと姿を変えていた。軽く人の手によって整えられた山道のようなものが一本、奥まで続いている。


 澪はふかふかとした感触を踏みしめながら、先を急いだ。


 ――早く。早く会いたい。


 唐突に、山道が途切れた。迷いようがないほど真っ直ぐに、踏み固められた土の筋がなくなっている。乱立する木々が三方を塞いでいた。これでは、どちらへ向かえばよいのかわからない。


 澪はそこで立ち止まざるをえなかった。鳴り止んだ足音の代わりに、そよ風に転がされた紅葉がカサカサとだけ鳴っている。


 ぽつりと一人で立ち尽くしていると、単身山中に放り出されてしまったかのような気分になる。


 こんなとき、紫乃がいてくれれば――そう考えながらも、辺りを見回しながら手掛かりを探す。しかしそこには、不規則に木の幹が並んでいるだけだった。夏が過ぎて生き生きとした深緑を失った木々は、どこか寂しさを感じさせた。


 そのとき、澪の耳に「フィーヨ」という甲高い音が響いた。澪は反射的に顔を上げた。笛か何かの音――そう思ったのは、その高さと、空気を切り裂くような鋭さのせいだった。


 けれど耳を澄ませるほどに、それは笛のように一定ではないことがわかってくる。鳴ったかと思えば途切れ、忘れた頃にまた鳴る。疎らで、不規則で、それなのにやけに遠くまで響いた。


 何かの動物の声なのかもしれない。そう考えた途端、その音は生き物の息遣いを帯びてくる気がした。


 何度も何度も「フィーヨ、フィーヨ」という音が、森中に響いた。木々の間を跳ね、落ち葉の上を滑りながら、澪の胸の奥まで入り込んで来た。


 その声を聞いていると、不思議ともの悲しい気分になる。と言うよりは、その音自体が悲しさを纏っているかのようだ。どこか苦しささえ感じさせる。


 それでも、現状の手掛かりはこの音しかない。澪は唇を結び直すと、その音源を求めて歩き始めた。音が聞こえる方向に一直線、木々を掻き分けて道なき道を進んでいく。


 落ち葉をカサカサ踏んでいく度に、また「フィーヨ」と鳴る。まるで、澪を呼んでいるみたいだった。


 鳴き声に導かれるまま、いくらか歩いた頃だった。行く先の木々の隙間に一瞬、鹿のような姿が見えた。立派な角の輪郭が、確かに見えた。


 澪は咄嗟に足を速めた。やっと見つけた手掛かりを、そう簡単に見失うわけにはいかない。


 けれど次の瞬間――瞬きをしたわずかな間に、その鹿の姿は消えてしまっていた。鹿が逃げる姿は見えなかった。枝葉が揺れた様子もなければ、落ち葉を蹴る音もしていなかった。最初からそこにいなかったかのように、すっといなくなっていた。


 澪は、さっきまで鹿がいたはずの場所へと駆け寄った。幹の陰を覗き込み、枝の向こうを見通すが、やはり痕跡も何も見つからない。足元の落ち葉が踏み荒らされた様子もない。


 見間違えだったのか――そう考えたとき、


「澪さん……?」


 澪が来た道と反対側の木々の陰から、すっと一人の影が現れた。藤色の和装に、揺れる長い黒髪。


「紫乃ちゃん!」


 考えるよりも先に、体が動いた。気付けば紫乃に飛び付いては、その両手をぎゅっと握っていた。指先に伝わる温度が、胸の奥の不安を一気に溶かしていく。


「……いた! よかった……!」


 喜びがそのまま声になって、澪の口からこぼれた。


 紫乃は突然のできごとに目を丸くしたかと思うと、遅れて今度は顔を真っ赤にした。次第にその赤みが、固まったままの両腕にまで伝わる。


 澪はそこでようやく、自分が何をしているのかに気付いて、はっと手を放した。


「あぁ、急にごめんね」


 両手を挙げながら謝罪する。紫乃は視線を落としたまま、もじもじと小さく、


「突然だから驚いただけで……別に、嫌だったわけではないです」


 澪は思わず、笑みをこぼしてしまう。可愛い奴めと思いながら、今度は乱暴にならないように、そっと紫乃の左手を取る。


「横いい?」


「……はい」


 澪は体を翻し、紫乃のピッタリ横に付いた。


 そのまま少し待って、澪の高ぶりが収まり、紫乃も落ち着いてきたようなのを確認すると、つい先程までの話を切り出した。


「ここに来てから変な鳴き声みたいなのが聞こえてさ、それを辿ってきたんだよね」


「あ、私も同じです」


「じゃあ、あれも見た? ついさっきまでここに、鹿みたいな動物がいたと思うんだけど」


「それも同じですね。鹿が見えたので急いで追いかけてみたら……澪さんがいました」


「と言うことは……あれもやっぱり、今日の歌のせい?」


「はい」


 紫乃は小さく頷くと、すっと息を吸い込む。



 ――奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき



 先程の「フィーヨ」という鳴き声と同じくらい――いや、それ以上によく響く、澄んだ声だった。 


「……それ、聞いたことあるかも」


「百人一首の中でも、かなり有名な歌ですからね」


 澪へと振り向きながら、紫乃が言う。


「山奥で紅葉を踏み分け歩いているときに、鹿の鳴き声を聞いた。そのとき、秋は悲しいものだと感じた、という歌です」


「鹿の声が、悲しい……?」


「はい。秋になると雄鹿(おじか)は、雌鹿(めじか)を求めて鳴きます。独特な鳴き方で、遠くにいる相手を呼ぶんです。その声に、遠く離れた恋しい人を想う気持ちを重ねて、悲しさを表しているんです」


 澪は、鳴き声を聞いたときの息苦しさを思い出す。あの胸を締め付けられるような感覚には、確かに覚えがあった。


「その独特な鳴き方っていうのが、さっきの音ってこと?」


「恐らくそうですね」


「鹿ってあんな声で鳴くんだね。見たことはあったけど、鳴き声を聞いたのは初めてかも」


「普段はもっと違う声で鳴くんですよ。あの声は秋に雄が雌を呼ぶときだけのものです」


「なるほど」


 そこまで話して、ふとある可能性に思い至る。澪は少し間を置くと、紫乃の顔を覗き込みながら、冗談めかして言った。


「わたしも紫乃ちゃんも、その声を聞いて来たんだったよね」


「……はい、そうですけど?」


 紫乃は怪訝そうな表情を浮かべている。


「つまりさ、お互いに相手が恋しがってる声を聞いたってことになるよね?」


 紫乃がピタリと動きを止めた。


「……っ!」


 一拍、考えるような間を置いて、紫乃はぼっと火が出たように真っ赤になった。


「図星?」


「違います! そういうのでは……っ!」


 その瞬間、澪は紫乃の右手も取り、真っ直ぐ向き合わせた。


「わたしは恋しかったよ。土日、ほんっとに長かった」


 澪はおどけつつも、どこか真剣さを滲ませて言う。紫乃は驚いたように目を見開くが、すぐにぷいっと横を向いてしまう。


「……そんな、簡単に……」


「別に簡単に言ってるわけじゃないよ。これはわたしの、本心」


 言わずにはいられなかった。この土日の間の恋しさを、吐き出さずにはいられなかった。そしてそれを、何となく、紫乃にちゃんと受け取ってもらいたかった。ただ、それだけのつもりだった。


 だが紫乃は、それを聞いてはっとしたような顔をすると、意を決したように澪に向き直った。


「……私も」


 息が自然と止まる。澪は少し戸惑いつつも、精一杯に言葉を紡ごうとする紫乃から、目を離せないでいた。


「……恋しく、思っていました」


 そこまで言い終わると、紫乃はふっと顔を綻ばせた。澪の表情も、つい緩んでしまう。


 まさか、紫乃からもそう言ってもらえるとは思っていなかった。嬉しい不意打ちに、手の握りが少し強くなってしまう。


「紫乃ちゃん、やっと言葉にしてくれたね」


 紫乃は照れたように俯いてしまう。だが、返事をする代わりかのように、紫乃からも手を強く握り返してくれた。


 澪は、自分の顔まで赤くなっているのに、見えずとも気付いた。そういう意味では、紫乃が今澪の顔を見ないでいてくれるのは、都合が良かった。


 それを誤魔化すように、澪はくるっと回って元の位置に帰った。秋の涼しさが、頬の熱を徐々に冷ましてくれる。


 落ち着いたところで、澪はまた切り出す。


「あとそういえばさ、鳴き声はわかったけど、あの一瞬だけ見えた鹿の姿は何だったんだろ?」


 右を見ると、こちらも平常心を取り戻した様子の紫乃が、コホンと軽く咳払いしてから言う。


「今回の歌には鹿が登場しますが……この世界は基本的に、私たち以外にはいません。だから、本物の鹿がいたわけではなくて、鹿というイメージだけが、浮かび上がってきたんでしょう」


 そんなことあるのかと思ったが、今までに体験してきたことを思い返してみると、今更だった。


「……そっか、そういう世界だもんね」


「そうですね」


 澪は苦笑した。この世界では、ある程度「そういうもの」として受け入れていかなければならない。「言葉が強い」というただ一つのルールの元で、何が起きても不思議ではない世界なのだ。


 今日もまた、風が吹き込んで来た。いつも唐突に、別れを知らされる。これもまた「そういうもの」として受け入れなければならないものだ。


 落ち葉が舞い上がっては、木々の枝がざわめく。肌の上を、空気が冷たく撫でていく。


 二人は目を見合わせ、頷いた。もう大丈夫。想いは同じだった。寂しさはあれど、もうそこに不安はない。今日の別れには、どこか安心感があった。


「今日はギリギリまで手繋いでいたい」


「いいですよ」


 澪の言葉に、紫乃は即答する。あまりにも真っ直ぐな受け止めに一瞬驚いたが、すぐに嬉しくなって口元を緩ませた。


 今日、紫乃と言葉を交わしたことで、二人の心の距離は、一気に縮まった気がする。これがこの世界の「言葉の力が強い」の影響なのか、そもそも言葉とは元来そういうものなのかはわからない。ただ澪は、言葉にすることの大切さを、再認識させられた。


 澪が手を堅く握ると、すぐに紫乃も握り返してくれる。逃げ場なく、しっかりと組み合っている。


 風がまた一層強まると、澪を中心にして落ち葉の海が渦を巻く。


 それと同時に、澪の視界から世界の輪郭がするすると解けていく。感覚が少しずつ遠のいていく。それが完全に消えるその瞬間まで、澪の右手は、紫乃の手の熱を感じていた。



 図書館に戻って来たようだ。山の静けさに代わって、旧館の静寂が降りてくる。


 視界には机と本。いつもの匂い。けれど手にはまだ、紫乃の感触が残っているような気がした。その感覚を逃がすまいと、澪はその手をぎゅっと握り込んだ。


 本の上には、いつも通りに栞が横たわっていた。


『奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき』


 裏には、紅葉と鹿のイラスト。赤や黄の葉が舞う中で、鹿が首を伸ばして鳴いている。秋の悲しさを表す、今回の和歌。しかし、澪はもう、この絵をもの悲しいとは思えなかった。


 澪は栞をそっと鞄にしまった。寂しさだけではない。また明日会えるという希望を胸に、図書館を去った。

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