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第6話 来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に

 風が、(みお)を攫っていった。


 澪が手にしていた白菊の花が、その場に乾いた音を立てて落ちた。その音を最後に、辺りは静寂に包まれる。


 この世界に一人、紫乃(しの)だけがぽつりと取り残された。


 澪の言う通り、確かに寂しさは感じていた。でもそれよりも、安堵が勝っていた。


 紫乃にも、どれくらいの時間までは影響が出ずに済むのか、はっきりとはわからない。ただ、早く帰るに越したことはない。


 最初は何ともなかったのだ。異変が起き始めたのは、居心地が良くなって、長居するようになってからだ。澪には、同じことを繰り返して欲しくなかった。


 だがそれと同時に、澪に何かを期待してしまっているのも事実だった。


 今日の「心あてに」で、紫乃が探し当てられなかった本物の白菊を、澪は一発で見つけてしまった。本人はまぐれだと言っていたが、紫乃にはそう思えなかった。


 それだけではない。他の人たちはできなかったのに、澪だけは和歌の世界に再び訪れることができた。その和歌の世界も、四季の歌ばかりを何回も連続で引いている。


 澪と出会ってからのこの短い期間で、通常では起こらないようなことを何度も見せつけられてきた。


 世の中には、上手く説明できないけれども、重要な局面でしっかりと当たりを引く人がいる。澪はそういう――「持ってる」人なんだと、そういう星の下に生まれた人なんだと、紫乃は思った。


 澪なら何とかできるのではないか。それどころか、紫乃すらも救ってくれるのではないか。


 そんな甘い期待が一瞬よぎったところで、頭を振り、思考を掻き消した。


 ダメだ。これ以上、澪を巻き込むわけにはいかない。これはあくまでも、自分自身の問題なのだから。


 紫乃はその考えを、息と一緒に吐き出した。わずかに白み掛かった空気が押し出されては、景色の中に溶けていった。


 そこに風が、もう一度強く吹いた。


 その瞬間、庭園が端から解け始めた。屋敷の軒先が、白菊の群れが、霜に覆われた地面が、薄く溶けて消えていく。この世界を構成していたものたちが、静かに崩壊していく。



 紫乃の足元に、冷たい木の感触が戻ってきた。


 白い庭の空気から覚めると、代わりに紙と古い埃の匂いが鼻をついた。視界は暗いが、何も見えないと言う程ではない。


 遠くで、ガチャリという金属音がした。司書の先生が鍵を閉める音だ。


 旧館の図書館。閉館時刻を回り、ここには紫乃を除いて誰もいない。澪も既に帰路についている頃だろう。


 この時間から、紫乃はこの場所にいられるようになる。そもそも図書館は和歌の世界との結び付きが強い。そして閉館すると、現実との結び付きが薄まる。このとき紫乃は少しだけ、和歌の世界から現実へ滲み出ることができるのだ。


 紫乃は司書席へと腰掛けた。カウンターからは、この広い図書館を一望することができる。誰もいない中でこの景色を見ていると、図書館の主になったようで気分が良い。


 そして改めて、この図書館の蔵書数に驚かされる。今の流行りの小説も、高校での勉学に役立ちそうな本も、誰が読むのかもわからないほどの専門的な学術書も揃っている。ここにずっといる紫乃でさえ、まだ読んだことのない本は山ほどある。


 今日は何の本を読もうかと、本棚に書いてあるジャンル名を順に見ていく。いつも通り「文学」や「歴史」にするか、少し趣向を変えて「芸術」にしてみるか。いっそのこと「社会」や「科学」のような学術的なものを読んでみるか。


 一通りぐるっと眺めてみるが、どの分野も今の気持ちに乗らない。一旦諦めて、座席に背を預けた。


 ふと、入口の方を見てしまう。もちろん、そこには誰もいない。ついさっき帰ったばかりで、絶対に来るわけがないとわかっているはずなのに、心のどこかで澪と会うことを期待してしまっていた。


 土日の間、澪は来ることができない。まだ金曜日の夕方だ。そんなに長時間も待っていられるのか、自分でも不安になってしまう。


 紫乃は入口から視線を引き剥がすようにして、本棚の方へと向かった。気を紛らわせたいときは、文学作品に限る。小説のエリアまで来ると、その中から題名が気に入ったものを適当に引き抜いた。


 

 紫乃はようやく読み終わった本を閉じると、壁に掛けてある時計を見た。時刻は六時――土曜日の朝六時を示していた。外の景色が、ほんのりと明るくなり始めているのがわかった。


 読書に身が入っていなかったのも事実だが、何もそんなに時間が経ったわけではない。


 ここは、時間の流れが曖昧だ。旧館図書館の姿を借りてはいるが、ここは現実ではない。あくまでも紫乃は和歌の世界に属していて、そちらに結び付いている。


 本を読んでいるとき、ページの中の時間は、現実よりずっと速く進む。数行後には数時間進み、数ページめくれば季節も変わる。読んでいるこちらは椅子に座ったままなのに、物語の中では誰かが悩んで、迷って、葛藤して、成長していく。


 この場所に流れている時間は、それに似ている。


 紫乃が本を数冊読む間に、外では土日が終わる――いつも通りなら、そうなるはずだった。


 今日は、妙に時間の進みが遅い気がした。


 退屈をしのぐために、もう一冊、先程まで読んでいた本の数冊横に置いてあったものを取って来た。


 本を開いて文字を辿るが、意識は時計へと向いたままだった。文字の意味が頭に入らず、どうしても針の位置が気になる。読み進めたいと思っても、読み進めることができない。


 紫乃は同じ行を何回も追いながら、ふと気付く。この遅さは、待っているからだ。


 待ち遠しいと、時間の進みは遅くなる。子どもの頃から知っている当たり前の話だ。


 澪を、待ち遠しく思ってしまっている。それを否定のしようがない程に思い知らされた。


 それを自覚した瞬間、寂しさは一段深くなる。気付かなければ、ただのモヤモヤで済んだものが、輪郭を与えられた途端に熱を持って、胸の奥に居座り始めた。


 そんな気持ちを誤魔化そうと、手元の文章に目を落とす。そこに整然と並んでいる言葉の意味は、もちろんわかる。そのはずなのに、読み終えたはずの文が、次の瞬間には霧散してしまう。


 内容が残らない。残るのは、紙の匂いと、ゆっくりと進む時計の針の音、そして胸の中の悶々とした気持ちだった。


 諦めて本を閉じ、棚に戻した。背表紙を押し込むと、ぴたりと隙間が埋まる。本棚は整っても、紫乃の心はいつまで経っても整わない。


 ならば、と歩き始めた。棚の間を行ったり来たり。机の列を回り、窓辺に立ち、またカウンターへ戻る。意味もなく巡回していると、図書館そのものが、紫乃を閉じ込める巨大な檻のように感じられた。


 澪のことが、頭にちらつく。あの人の声。無遠慮な明るさ。紫乃に会いたいから来ているだけだと言ってくれた、あの言葉。


 胸の奥が、じりっと熱くなるのを感じた。痛みはないのに、じわじわと熱が広がっていく。


 紫乃は立ち止まり、しばらく視線を落とした。足元の床板の木目が、暗い中でぼんやりと浮かんでいる。


 紫乃がここにいられるのは、閉館後の図書館が和歌の世界と結び付きが強く、現実との結び付きが弱くなっているからだ。つまり、この場所から外へは出られない。既に何回も確かめている。


 それでも、堪えきれなかった。無理だとわかっていながらも、紫乃は入口へ向かった。


 鍵のつまみを捻り、取っ手に手を添える。いつもなら、ここからどんなに力を込めても、扉はピクリとも動かない。


 しかし、今日は違った。紫乃が引くと、軋むような音を立てながら、扉が内側にゆっくりと開いた。


 もしかして――紫乃はわずかにそう期待してしまう。


 次の瞬間、視界が真っ白に飛んだ。


 

 目を開くと、そこは図書館の外ではなかった。


 夕暮れの海が広がっている。


 空は淡い茜色に染まっている。その色が水面に落ちて、海は燃えているようだった。波はほとんど起こらず、ただ遠くでわずかに白さが寄せては引いている。湿った潮の匂いに混じって、何かが焦げたような香りが鼻孔をくすぐる。


 紫乃は振り返るが、そこに旧館の姿はない。図書館の外に出られたかと思いきや、和歌の世界に送り出されてしまったようだった。


 やはり無理だったのか――そう落胆する暇もなく、紫乃の頭の中に歌が流れ込んで来た。


 

 ――来ぬ人を 松帆(まつほ)の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ



 自分で詠んだわけでもなければ、誰かに詠まれたわけでもない。和歌の世界に来ると、紫乃には漠然とその歌が浮かんでくる。いつも通りのことだった。


 紫乃は、静かに目を閉じた。


「来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ」


 今の歌を小さく声に出し、意味を噛み締めた。


 ――いつまでも来てくれない人を待つ私は、松帆の浦の夕凪に焼く藻塩のように、身も焦がれるような思いでいます。


 土日の間は来ないとわかっている澪を、身を焦がされるような思いで待っている紫乃と、まさに重なった。あまりにも今の状況と一致しすぎている。紫乃の想いが強すぎて、この歌を呼び寄せてしまったのかもしれない。


 そこまで考えると、紫乃はばかばかしく思えてしまった。歌を引き付ける程の強い気持ちがあったのに、それを最初は自ら否定しようとし、否定しきれずに認め始めたのも、つい先程のことだった。


 しかし、こう見せつけられてしまっては、もうどうすることもできない。ここに来てようやく、自分の気持ちに折り合いを付けられた気がした。


 今も胸の奥は熱くなっている。この寂しさに「身を焦がされる」という言葉の意味が、今は正しくわかった。


 紫乃は近場の岩に腰掛け、海の方へと目を向けた。


 少し遠くから煙――恐らく藻塩を焼いた煙が、真っ直ぐと立ち上っていた。無風の空に、帯のようにはっきりとした輪郭を保って、異様な存在感を放っていた。


 その景色は、あまりにも動きがなかった。空も、海も、浜も、煙も、いつまで経っても変化は訪れず、まるで時間が止まっているかのようだった。


 何も起こらない中で、ただひたすらに待ち続ける。それ程辛いことはない。でも、そうせずにはいられない。


 紫乃は、この歌の元になった、顔も名前も知らない海女に思いを馳せた。恋しい人が来ないという事実だけでなく、来ないと知りながら待ってしまう愚かしさまで、彼女と想いを共有する。時代を越えて、今の自分と同じような想いを持っていた人がいることを想像すると、いくらか気持ちが楽になった。


 そして、先人たちがなぜ、恋愛の歌を多く詠んだのかもわかるような気がした。当時は恋愛に歌は付きものだった、というだけではない。


 この胸の熱を、吐き出す術だったのかもしれない。この抱えきれない程の熱を、歌という形を持たせていたのだ。形にすることができれば、外へ出すことができる。外へ出すことができれば、少しでも救われたような気分になれる。


 先人たちに倣い、紫乃は歌を詠み上げた。先程のように呟くのではなく、胸の内を全て吐き出すように。



 ――来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ



 言葉にすると、胸のつかえがするっと取れたような気がした。


 

 その後も時間の感覚が曖昧なまま、紫乃は海を見ていた。


 次第に空の茜が深まり、反対の端から紫が迫ってきていた。海の色も暗く沈み始めている。停滞する景色にも、時間の経過とともにわずかながら変化が訪れてきていた。


 しかしそれは、明るい展望とは言い難かった。夜という、暗澹とした時間の始まりを示しているように思えた。


 そのとき、不意に風が吹いた。風になびいた髪が入りかけ、咄嗟に目を瞑る。


 紫乃は髪をかき上げながら、目を開いた。


 目の前の夕日が、もの凄い速度で沈んでいく。真っ直ぐに伸びていたはずの煙も、上空に吹き始めた風によって、たちまち掻き消されていく。焦げた塩の匂いも、もうなくなっている。


 先程の一陣の風を合図にして、全ての物事が進み始めたようだった。停滞が、打ち破られた。


 あっという間に、夕日が水平線の彼方に消える。だが、まだ辺りは明るいままだった。不思議に思う紫乃だったが、空を見上げるとそこには月が上っていた。


 ――そうだった。


 満月が、この暗闇を照らしてくれている。


 夜だからと言って、暗いとは限らない。そこは月によって、明るく照らされているかもしれない。


 ――特に月は、私の味方でいてくれるのだから。


 風がまた、強く吹いた。今度は恐らく、この世界の終わりを告げるものだ。


 夜の景色が、解けていく。視界の端の方から、空も海も浜も、静かに崩れ去っていく。だが、月だけは最後までなかなか消えなかった。それを紫乃は、これからの明るい未来を暗示していると、意味付けたくなった。


 

 目の前に、大きな扉が現れた。図書館の入口の前に戻って来たのだ。


 どれくらいの時間が経ったのかと、壁掛け時計を見る。その時計は十二時――窓から差し込む光の感じからして正午を示していた。


 意外と長くいたんだな、と思いながら、念のためにカウンター上のデジタル時計を確認しに向かう。


 そこには、月曜日の昼十二時と表示されていた。紫乃は目を見開く。


 もう既に、土日は明けていたようだった。澪が図書館に訪れてくるのももう少しだ。


 その瞬間、先程までいた扉の方でガチャリという音がした。この旧館は校舎から少し離れていることもあり、昼間に司書の先生が開錠し、開館するのは夕方からだ。


 鍵が開かれ、人の気配が流れ込むと、図書館は再び現実へと結び直される。繋がりをこれ以上維持していられなくなった和歌の世界が、押し出されるように展開される。すると、紫乃は引き剥がされるようにして、否応なく新たな和歌の世界へと弾き出された。



 そこは、秋の山奥だった。


 その世界を形作っている和歌が、紫乃の頭の中に流れ込んで来る。紫乃は思わず、ふふっと小さく笑ってしまう。


 ついこの間までの紫乃は、この歌を受け入れられなかったかもしれない。だが今となっては、今の紫乃自身と澪にとっては、これ以上ない程にピッタリな歌だと思えた。


 澪が来るまであとわずか。金曜日の夜とは違い、待ち遠しくも、明るい気持ちでいられた。

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