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「晩餐の刻になりましたらお呼びしますので、それまではこちらでお寛ぎくださいなっ」


 そう言われて二階の小綺麗な客室へ案内されると、貴族娘が扉を閉めると同時にベッドへと腰掛けて深くため息を吐き出し、もう少し考えてから訊ねれば良かったと後悔していた。


 室内の壁紙はコバルトブルーの地にアイリスの紋様が規則正しく敷き詰められたパターン柄となっており、ユニコーンを囲む少女たちが描かれた巨大な絵画が壁に飾られていた。芸術作品なので文句は言えないが、みな沐浴上がりの姿をしていて、正直鑑賞したいが人目が気になってチラ見しかできぬ。


 やはり子供のように何も知らないほうが無邪気に心地良く過ごせるのでは? 逆に知る事によって幸福を感じられるものはあるのかと、知らない事は多い方が良いのではないかと。これは損得の問題ではなく、精神衛生上の問題だ。


 現実を捻じ曲げられる程のチカラが無いなら、蒙昧無知でいたほうがずっと幸せなのでは。あ、でも、好きな子のえっちな声が知れたら幸せかも。状況にもよるけど。


 またしても新たな疑問が浮かんでしまったが、各々の荷物を置いている同志の姿を眺めていると昂った感情は徐々に落ち着いていき、ソフィアが開け放った事によって窓から入り込んできた爽やかな海風も相まって、次第に安堵へと変わっていった。しかし皆が皆そう単純であるわけもなくて。


「違うからこそ……違うからこそ学びがあるのに。それを統一しようだなんて、魂の成長する機会を奪うに等しい。国や種族という垣根・区別を無くすのは断固として反対。各国の文化や伝統をごちゃ混ぜにして思想の統一を半ば強要するだなんて、それに対する反対意見が悪になってしまう」


 色々と思う節でもあるのだろう。とかなんとか三十二才さんが窓辺にもたれ掛かって真面目に呟くものだから、気を逸らすことも叶わぬのかと再度ため息。


「自国第一主義、自分第一主義こそがマトモで当たり前の常識。その上で自分とは異なる人々とお互いの違いを認め合って理解し合い、協力していけば良いのに。固有の文化が失われてしまうのはとってもイヤ。十人十色で違うからこそ楽しいのに。星占いの世界でも決して交われない水と油の関係がある。天使が悪魔とキスするようなもの。全員と仲良く共存なんて無理。物理的に距離を取るしかないし、それが最も平和への道。


 でもそんなのもお構い無しに併合していって多種族国家を目指すだなんて……。お金持ちって暇だから、ほんっと余計なお世話ばっかり。それで散々散らかした挙げ句、謝りもせずに責任も取らずナアナアで強引な幕引き。何度この銃で撃ってやろうかと……」


「言いたい事はいっぱいあるんだろうけどさ、もういいよ、そういう人たちなんでしょ」


 項垂れながら「宗教争いもそれをしている時点で程度が知れてる。ちゃんと神学を勉強して冷静な解釈をすればすべて……」などと風船が弾けたかのようにひとり語っているソフィアへと顔を向け、また床に目を落とす。無意識的に握り締められていた自分の手を開くと、爪が伸びていた。


 ただそれだけなのに落胆するように首ごと肩が落ちていき、自ずと何度目かの深いため息が漏れ出てしまっていた。気になったら当然の如く切り揃えられていたというのに……。


 こんな些細な不満にすらも苛立ちを覚えてしまうとは思ってもみなかった。甘味では誤魔化し切れぬほどの永続的なストレスに苛まれているのを改めて自覚した。


「あのさ、この世界に爪切りってあるの? 伸びてきたから切りたいんだけど」


 元からケーキにはフォークを使わない派なのでタルトもそうだったが、パンや干し肉など手掴みでものを食べる機会があちらよりも多く、どちらにせよこれでは危険だ。石鹸はあると言ってもいつでも使えるわけではないし、腹でも壊したら逃亡の足が止まってしまう。


「あるけど、ボクは持ってないなぁ……。でもこれならあるよっ」


 ソフィアなら大荷物だしもしかしたら――そう思って相談してみると、応えたのはソフィアの傍らにしゃがみ込んで鞄を開いているミアであった。いつの間やらパクっていたらしい白磁の容器を傾けて、中の角砂糖をパラパラと小袋へと移し替えていたミアが鞄から取り出してみせたのは、金属製の小さなヤスリだった。


「いつもそんなの持ち歩いてるんか」


「女子の嗜みだよ。獣人族って放っとくと尖ってきちゃうからさ、人前に出てもいいように丸めてるの」


「まぁ単純に危ないもんね。……寝惚けて引っ掻いちゃうかもしれないし、俺を」


「怖がられちゃうからだよ。鋭利な武器を指先に着けてるようなものだからね。爪研ぎしなきゃこそばゆくなってきちゃうしっ」


 見たところミアの爪の形状は人間となんら変わりないように見えるし、その指や手からしても女の子らしい小振りなものなので、爪先が尖っていたところで軽く引っ掻く程度しか出来ないだろう。獣のように爪を使用して木にでも登ろうものなら易々と剥がれてしまいそうだ。ミアの言うように視覚的な見栄えの問題らしい。


 ベッドサイドに置かれていたゴミ箱らしき壺を足元へと持ってきて、ロシューと顔の高さを合わせてにらめっこしているシンシアの姿や、暇そうな様子で椅子に腰掛けて乳香を噛みながら軍資金を数え始めたソフィア、「はいっ」っと貸してくれたかと思えば隣にダイブして来てごろごろしているミアの尻尾などを眺めつつヤスリで爪を削り、パチパチと切るよりかは時間が掛かったが、おかげで鬱陶しかった爪を整えることは叶った。それは良いのだが。


「え、なにしてんの? 変態すぎるぞお前……」


 簡単な礼を言って「うーにゃっ、うーにゃっ」とバタ足している隣の持ち主にヤスリを返すと、ふと身体を起こしたかと思えばベッド下の鞄を探り寄せて、元の場所に戻したゴミ箱をひょいっと持ち上げ、その中へと手を突っ込んでお守りサイズの袋に爪の粉末をそそくさと移すミア。


 こんな変態だとは思いませんでしたので、ついウゲっとしてしまいました。


「なにって、好きな人の爪の削りカスと自分の爪の削りカスとを一緒に袋に入れて両想いを願うお守りを作ってるんだよ知らないの?」


「よくそれ息継ぎ無しで言えるね……って違う違う! 両想いを願ってるんなら、そういうのはこっそりとですね……ってそれも違うわ! 引かれてる時点で逆効果だよソレ!」


「うそだねぇ! ほんとはドキッとしたんでしょ~?」


 なんとも言えないのが悔しい。まぁ薬みたいに飲まないだけマシか……。などと自分を納得させていた矢先、


「それ、私にも貸してくれない? ネィルして心落ち着かせる」


「あ、なら後でわたしにもっ……!」


 矢継ぎ早に揃いも揃って爪のお手入れとはこれ如何に? ほっぺを膨らませてもぐもぐしているソフィアは確信犯として、シンシアは絶対ノリで言ったろ。まぁいいや……満腹になったらなんか眠くなってきた……。晩飯まで寝よ。寝逃げして気分をリセットだ。


「ちょっと寝るから、呼ばれたら起こして……」


「はーい。――あちょっとそれはボクのなんだよ!? ヤスリの目が潰れるじゃんっ!」


「いいじゃない、ちょっとくらい」


「お金はあるんだから自分の買いなよっ!」


「これも節約」


「ドケチにも程があるよっ! まったく困ったものだねっ」


 座っている姿勢のままベッドに背中を倒して目を閉じ、まぶた越しに透けて見える鬱陶しい光を腕で覆い隠すと、わちゃわちゃと言い合っている声はまるで子守唄のように脳内へと木霊して、意識がグラグラとし始め……おやすみなさい。

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