090 第三十四話 貴族街
「それで、ペレッタさんはあんな辺境で、って言ったら失礼になるか。えーっと……今はどこに向かって?」
「ふふっ、実際に辺境なのでよろしいですよ。わたくしはこの先の港街へと商談に向かう途中でしたの。しかしこれも何かのエニシ……お仕事はいつでも出来ますし、街をご案内しますわっ」
イタズラな子供のように隙あらば足で小突いてちょっかい出してくるソフィアに目を遣ってその都度止めさせつつ、上機嫌な様子で鼻歌交じりに首を振っているミアに抱かれ続けている腕に軽く痺れを感じつつ、しばらく犬車に揺られて行くと、到着したそこはカモメが鳴く海沿いの貴族街であった。
シンシアの肩越しに外の景色を眺めてみると、砂色の建物が多かった宗教都市とは異なり、白の漆喰とオレンジの屋根が特徴的な街並みをしており、元の世界で言えば地中海の街が最も近しい。犬車と同じような車がそこら中に走っており、道端に停車しているものもあった。
草食動物の馬ならば道端の雑草と水で事足りるのだろうが、オオカミは肉食。体躯も大きい上に複数頭ならば、それ相応の餌代が掛かるはず。更には交配に交配を重ねて獰猛な性格を徐々に大人しくさせていく必要もある。調教されたオオカミに車を引かせるのは貴族としての一種のステータスなのかもしれない。
――停車して石畳の上に伏せている大いなるガブガブさんが、前を横切ったカモメさんをパクっと食っているのは、まぁ見なかったことにしよう。
そっと目を離してもう一方の肩越しに広がる海側の景色を見遣ると、住宅の外壁と同じ漆喰で塗られた腰丈程の垣が堤防のようにどこまでも続いており、その先に見える海には面白いことに四角い波が立っていて、チェス盤のような模様が海面に形成されていた。
春のシーズン外なだけあって泳いでいる者は誰も居らず、砂浜もまた同様であったが、遠くの方には何隻かの商船らしき船が停泊しており、木製らしきそれはどれもが大きな帆船であった。
多分カモメじゃないけどカモメみたいな鳥がハトの代わりに道端を闊歩しているそんな街に降り立つと、ペレッタさんは御者台へと向かい、こちらもその間に荷物や身嗜みを整える事にした。と言っても手ぶらなので手持ち無沙汰になってしまい、いそいそと鞄を肩に掛けたり衣服のシワを正しているみなの傍らで突っ立っているほか無かったが。
「先方には予定を変更すると伝えといてちょうだい」
「かしこまりました」
「なんかすんません、お仕事があるのに……」
ここぞとばかりに割って入り、棒立ちの気不味さを誤魔化す。どちらにせよ礼儀として誰かが役目を負わなければ申し訳が立たない。
「謝る必要はありませんよ、本当にいつでも良い小さな用事でしたから。数日くらい日程がずれ込んでもまったく問題ありません」
社交辞令とはいえ申し訳無い気持ちを伝えると、優しい微笑みを浮かべてみせるペレッタさん。メールのような便利な通信手段も乏しいのだろうし、突然の悪天候や急病等、もしもの時に備えて普段から手は打ってあるのだろう。自らを小貴族と卑下しているみたいだが、貴族は貴族。殿様商売でもしていて、上に立つ人間ならば多少の融通も効くのかもしれない。
「ではゆきましょうか。追っ手から逃れられた祝福に、わたくしオススメの幸せ御膳をご馳走しますわっ」
「おぉマジっすか! 乾パンしか食ってないから空腹ペコだったんっすよ!」
「あらそうでしたのっ? それはそれは気の毒に……。街一番のレストランテにお連れしますわねっ」
御者さんと別れて街の中心部へと歩み始めたらしきペレッタさんであったが、一通り会話が済むとさり気なく足を緩めて先頭を切ってもらい、
「てか本当に着いて行っても大丈夫なの?」
声を潜めてミアに耳打ちする。パトロンのご意見は絶対なのでもはや誰がリーダーなのかもあやふやだが、今のところ最古参であるミアには一応確認しておかねば。
「ご馳走してもらえるみたいだし、ご飯食べながら考える」
「警戒よりも先にまずはメシか。超同意っす」
「タダメシは貰わないと損だしっ?」
「旅費に限りがあるのもまた事実、か……」
「そゆこと~」
すべての基本は食。逃げるにしても人を疑うにしても、まずは充分な食事から始まる。他人に対して優しく接する為にも心の余裕が無ければならない。心の余裕はメシ、つまりは不安の無い食生活から生まれる。トゲのある言葉をオブラートに包むにしても、素直に感謝するにしても、すべてはメシから始まるのだ。
飢えのメリットなんか、周りの目がどーでもよくなること、五感が研ぎ澄まされて感覚が鋭敏になること、ネガティブ思考が加速されて自暴自棄の無敵になれることくらいだ。もちろん、代償はデカイ。
今までに築き上げてきた大切なものも空腹でブチギレたらハイ終わり。折角の好意もつい口に出てしまったキツイ言葉で台無しになる。だから飢えてはならない。食には貪欲であらねばならない。それは周囲との摩擦を減らし、利得を増やし、前向きに生きることを意味している。
その大切な食事を到着して最初に振る舞ってもらえるのは有り難かった。囚われていた俺もそうだし、助け出すタイミングを見計らって画策していたのだろうミアもそう、待ちぼうけを食らっていた二人もきっと同じく、みな腹が空いているのは避けようのない事実であった。
そんな折にタダメシをご馳走してもらえるとは、余程の事が無い限り断る道理は無い。今のところは気を許しても問題無さそうだし、ミアの言う通りに先ずは腹ごしらえをしてから信用に値する人物かどうかを判断すれば良いだろう。




