009
どうやら褐色姉さんと手分けして探していたらしく、声を聞き付けて見に来たのだろう。本当に女子しか存在していないとすれば、この国で男の声がしたらイコール俺の声となるのか。やべぇ……。
「マルティーナ様も心配なさってましたよ? せっかく保護してもらわれたのに」
その名を聞いた瞬間、相反する二つの感情、魅惑と嫌悪の光景がフラッシュバックし、今度はこちらが身震いしてしまった。
トラウマを、思い、出させるな……。やはりお前ら繋がってやがったか。だとすれば一択。逃げるのみ。クソがよぉおおッ!
わずか数刻前のデキゴトだというのに、狂気じみたあの顔を思い返すと身の毛がよだち、早くもトラウマとなってしまっている様子だった。脳裏に深く刻まれたあの汗の味は幼女の清澄な水によって清められたものの、えぐられるような苦悶の記憶が鮮明に蘇り、精神的に吐き気を催してしまった。
忌み深い名を平然と口にしてみせた近衛兵は、一見すると至って普通の健康的な女子に見えるものの、上や隣がイカれてるのでは流石に捕まるわけにはいかない。誰にも引き渡さずに匿ってくれるなら別だが、口調からしても真面目そうだし、望み薄であろう。
「こやつは渡さん。まだ返してもらってないからの」
ジリジリと歩み寄ってきたおかっぱ女子の前に素速く移動し、まるでこちらを護るかのようにして立ち塞がってくれる川姫。足元は川の水に削られた細かな砂利や丸っこい小石で覆い尽くされているというのに、音も立てずに川の中から上がってこちらの前に飛び込んで来たのだから驚いてしまう。
「精霊様がお相手だろうと、容赦はしませんっ!」
だがその直後、相手は幼い姿をした少女だというのに、言葉通りに一切の躊躇も無く手にしている凶器――紅に彩られた薙刀を振るい、川姫の首を横払いしてみせたのだった。長い柄の先に取り付けられている鋭利な刃は遠心力に加速され、川姫の幼気な首元を断ち斬る。が、
「お主はバカなのか? 妾は不滅。例え蒸発させたとて、雲となり身を変えるのみ」
その細い首は落ちること無く原型を留めており、小首を傾げて平気なご様子。そりゃそうだ、人間の身体は固形物の肉であるが、川姫の幼身は流動的な液体、水で形作られているのだから。
「そうか、妾と遊びたいのか。困ったのぉ……♪」
とか言いつつ、言葉とは裏腹に嬉しげな声を聞かせてみせる川姫様。人とは異なる常識を有していると察せられる精霊のお遊戯など、きっとロクでもないに決まってる。
悪童のような笑みをニンマリと浮かべている様子に嫌な予感を覚えたので、今の内に二人から逃げてしまう事にした。とにかく、サンキューヨッジョ。
「薙刀とは刃の衣を纏うにあり。例え斬れずとも、全てを散らしてみせましょう」
川の水面から何本もの触手を発生させて背後にうよめかせている川姫と、まるで巫女舞のように優雅に回りながら両手を交互に滑らせて何度も柄を持ち替え、どこから襲い掛かられたとしても相手を斬り伏せられるのであろう銀の流線を薙刀で描き始めるおかっぱ女子。
そんな二人の姿を見定めながら、なるべく音を立てないようにそろりそろりと後退っていき、川辺の小石が森の土に変わったのを皮切りに、踵を返して走り出す。
途中で昼寝というかムリヤリ意識を奪われたからずっとではないにしても、それを除けば王宮を後にしてから肉体的にも精神的にも休む暇が無い。身体――特に脚部に疲労が蓄積していて今にも足裏が攣りそうだし、未だに腹の中はちゃぷちゃぷしている。確かに喉は乾いていたし空腹だったとはいえ、勢い余って飲み過ぎてしまった。複数の要因で身体が重い。
にしても、この星の人間は目先の事しか見れないんか? まぁ助かったけどさ。
森の中へと逃げ込んで一目散に茂みに入ると、取り敢えず川を左手に上流へと向かってみることにした。下流に行くに従って人の気配も感じられるようになり、メシにもありつけるとは思うが、そうやって安牌を選んで人の街に行ったから捕まってしまったのであって。ここは失敗を学び、人気を避ける方向で逃げることにした。森の中に目印なんてあって無いようなものだが、どうせこの川を辿ったら元にも戻れる。
そうしてしばらく歩いて行くと川幅は狭くなり、それに伴って流れも激しくなってきていた。青の晴天と木陰の緑に彩られた清澄な水は飛沫を上げ、白の割合いが増している。地面に転がる石もゴツゴツとした大振りなものばかりで、草木を掻き分けて進もうが、視界が開けた川辺に出ようが、どちらも変わらずに歩き難いものだった。緊急時以外はもう走れない気がする。これ以上は走りたくない。
「はぁ……、ツラっ……」
周囲からは完全に人気が消え、聞こえるはただ清流の轟きと小鳥の囀りのみ。川辺に佇んでいた自然の腰掛岩に腰を降ろして太ももに肘を置き、項垂れるようにして地面の小石たちを眺める。
もう限界だった。ひとまず休みたかった。しかし、こちらの都合などお構いなしに刻々と時は過ぎ去り、それはまた、自らを取り囲むこの環境も同じくであった。
移り変わる時の流れを表すかのように、雲の影が落ちてはまた晴れていく足元の光景を無心で眺めていると、風に揺蕩うその流れよりも速く、実体すらも朧気なそれよりもハッキリとした濃い影が、ふと視界に現れたのだ。
だというのに、身体は強張ることを忘れて全身が諦めの気持ちに包まれ、重い肩を落とすのみ。どうやら忍び足でこちらまでやって来たらしい。気を休めていたのもあるが、川の音に掻き消されてしまってまったく気配に気付けなかった。
「ここから先は危ないよ? 来るときに声が聞こえたから、少し迂回して戻ろう」
こちらを見下ろしているらしき影の主を見上げてみると、こちらに瞳を向けつつも意識は周囲にあるといった面持ちを浮かべている、あの泥棒猫の姿がそこにはあった。人を刺した危険なヤツだというのに、王宮絡みの人間ではなく思わず安堵してしまっている自分がいた。
「そっか……。んじゃまっ、歩きますかあ!」
身体を休ませていた岩から立ち上がると、自分でも驚くほど脚の筋肉が凝り固まっていて、最初の数歩は上手く歩くこともままならず、鈍い痛みを伴うあの状態に陥ってしまっていた。下手に休んだりなんかせずに歩き回っていた方がまだマシだったかもしれない。こんな状況で変な話ではあるが、ふと、子供の頃に行った遠足の記憶が蘇った。
「とりあえずボクのアジトまで案内するよっ。ま、途中で見付かったら別だけどね」
「誰にも見付からないことを切に願うよ……」
「ボクももうクタクタだよぉ~。今日はゆっくり寝ようっ! 目標、決まったねっ?」
わざとらしく肩を落として横にぶらぶらと揺れてみせると、元気な声を上げてだらけさせていた腕をピンっと伸ばし、意気込み混じりにこちらの顔を覗き込む泥棒猫。
その可愛らしい真鍮色の眼差しを向けられると、何故だか疲れ切っているはずの身体に追加の燃料が焚べられるような感覚がして、もう少しだけならば歩けると、謎の自信を抱けたのだった。
アジトということは泥棒猫の家であり、家にはベッドがあるはずだ。盗賊のアジトならば隠れ家であって、そこに辿り着きさえすれば、そう易々と追っ手に見付かることもないだろう。差し出されたその希望があるか無いかだけで、精神的には随分と違った。