082
「ここも?」
「だね、ボクが先に歩くから……」
再び砂地の道に行く手を遮られ、先ほどと同じように上手い事しようとしたその時、何処からともなく手笛の音が鳴り響き、限界まで耳を立てて身を固まらせるミア。
一瞬の迷いが生死を分かつように、言葉を交わす際に発生した僅かな気の緩みが仇となったらしい。いくら動物的なまでに視覚・聴覚・嗅覚が優れているとはいえ、高等生物としての言語能力が弱みとなってしまったのだ。
ビクリと肩を跳ね上げて驚きを露わにした背中は、一歩踏み出した格好のままぴたりとフリーズしており、頬に汗を伝わせながらこの状況でどのような行動を取れば良いかと必死で思案しているのが窺えた。
早くこの場から逃げなければ周囲を包囲されてしまう。取り囲まれる前に全力で逃走したいが、沸き立つ衝動を必死で抑え込み、ミアの判断を待つ。とはいえ、こちらの姿を視認された時点で考えるよりも先に結論など出ていた。
「逃げるよっ!」
時間にしておよそ三秒。ミアが取った行動は”諦める”であった。言うと同時に踵を返して駆け出した背中を無言で追い掛け、逃げる。先に向かったあの二人には申し訳ないが、見付かってしまった時点で逃げるほか無かった。出直して別の策を講じるしか無い。
後ろを振り返ってみると警備兵に先んじてイヌミミ族の娘たちが一目散にこちらへと向かって走って来ており、目標は真っ直ぐに定められていた。
「男を捕捉! 追跡する!」
「至急追い掛けろ! 絶対に逃すな!」
身体を前に突き出しながら前屈みに地面を蹴って、まるで草原の中を泳ぐかのように次々と走り来る追跡犬の脚は速く、厄介なことに、飼い主に獲物の存在を知らせる猟犬が如く周囲に知らせてまでいる。これでは網目を狙う脱走魚ではなく、笛の音一つでハンティングされる野鹿だ。
「完全に見付かってるじゃねぇかよぉおお……!」
もう、情けない声しか出なかった。
「泥棒猫は良い! 男を捕まえるのだ! これは陛下からの勅令であるッ!」
王宮の目的は重犯罪者の泥棒ではなく、あくまでも男の確保。ただひたすらに、すべての行動はこれを目的とされていた。
「俺はいいから、ミアだけでも……!」
宿屋のオバちゃんに貰ったイイヨの印――ミアが髪に括り付けている白いリボンのおかげで、夜目の効かない人間でも暗闇の中居場所が把握できるのは幸いだったが、それでもお互いの距離は徐々に離れ始めており、この脚では着いていける自信も、イヌミミ族から逃げ切れる自信も無かった。
ミアまで捕まってしまったら監獄送りとなり、もう一生顔を見合わせる事も出来なくなるかもしれない。泥棒猫ならば闇夜に紛れて上手いこと逃げ切る事も可能なはず。しかし、ミアの言葉は泣けるものだった。
「そんなコトできるわけないでしょ! 走るんだ新人クンっ!」
カッコ、わたしの脚に着いて来い。もうね、チャリ乗った監督かよと。ああなんと体育系な……。
だが諦めたらそこで人生もろとも終了となる。自由の身を守るために必死でとろい脚にムチを打ち、駆けていく背中を追い掛け続ける。だが鍛え抜かれたプロフェッショナル集団を相手にして、元一般人の凡人が逃げ切れるはずもなく。
「チィッ……」
後方に待機していたのだろう、別働隊の面々が集まって来ているのは容易に想像が付いたが、なんと、あのとき街道を駆けて行った赤毛の娘が前方に立ち塞がっており、背後に迫っていた猟犬も左右に別れてその一点へと追い込む陣を取っていた。まるで追い込み漁の魚にでもなったかのような気分だった。
しかし、ならば後方――国境線がある方角は猟犬が二手に別れた事によって人手が薄くなっているのでは!
儚い希望を胸に振り返ると、そこには一切の防具も身に着けていない、一見して場違いにも思える一般市民の姿があった。
――否、月夜に輝くサラリとした金髪やミント色のストレートドレスを、草原に吹き渡る静かな風にヒラリなびかせているそのお姉さんの傍らには、女性が落とす影のようにぽつりと侍女が佇んでいて……灰かぶりのメイドを従えている美人さんの風貌は、以前王都の路地裏でミアが刺した金髪お姉さんの姿そのものであった。
「お久し振り、元気そうでなにより」
無事だったんか、血気盛んさん……。
「あ、ども……そちらも元気そうでなによりです。ちょっと急いでるのでご挨拶も程々に失礼させていただいて……」
「なにを言ってご冗談を。お茶をする約束じゃないか。ではゆこう、詰め所へ」
いつそんな約束したよ! などと言い返そうとした刹那、こちらの言葉を遮ったのは銀の鎧を身に纏っている赤毛の娘であった。
およそ十四・五ほどに見えるその子はツーサイドアップの形に髪の毛を結っており、男のこちらではなく真っ直ぐにミアと対峙して、今にも襲い掛かりそうな勢いで眼光鋭く睨み付けていた。
「アタシのお姉さまはなあ! わずか十四の頃に百人もの汚らわしいオトコドモをなぎ倒した伝説のお方――男狩りのエルザ様であらせますのだッ! そんなお姉さまに傷をつけ、あろう事が地に伏せさせるなど……わたしが許さないです!」
見習い風のその子が鞘から剣を抜き、口調を乱しながら叫びを上げると、月光煌めく白銀の刃が徐々に赤く色付き始め、次第に灼熱を帯びて赤黒い焔の揺らめきを漂わせていき、
「我は赤焔の魔法剣士・ルゥナ。いざ尋常に……参るッ!」
参るという言葉が聞こえた時には既にミアとの間合いに入り込み、ミアの首元へと向かって一直線に刃が振り翳されていた。
少女が先程まで立っていた場所には消えかけの残焔があり、靴底から爆発的に発せられた炎の推進力で瞬間的に移動したのが、意識の非言語領域にて即座に察せられた。
「くッ……」
しかしミアも素速かった。咄嗟にナイフを抜いて鋼同士がぶつかり合う金音と共に火花を散らし、襲い掛かってきた狂気から間一髪のところで首を護ると、高速で振られた剣の衝撃に耐えるのではなく、その流れ・勢いに身を任せる形で横へと飛び上がり、肉体が受ける衝撃を最小限に抑えてみせたのだった。
「なんて小癪な……。ならばッ!」
焔纏うやや細身の剣を瞬時に構え直し、爆炎の音と共に踏み込んで今度は突き。だが、直線的な攻撃ならば身体をひるがえして避けるのみであった。
連続で突き出される攻撃をひょいひょいとかわし、ミアが俊敏に身を踊らせていくに連れて、少女の顔には怒気の様相が浮かび始め、魔法剣士の周囲数メートルにも及ぶ範囲に、強烈な殺気と熱気が広がっていくのが肌で感じられた。
ミアを喪うのではないかという恐怖にただ怯えて、俺は立ち尽くしているほか無かった。
魔物ではなく同じ人間に斬り掛かられて、ミアはどうすれば良いのかと困惑している様子を浮かべていた。路地裏で刺した時も本気で殺るつもりではなかったようだし、本心では他人との殺し合いなどしたくはないのだろう。
だが戦闘となれば手加減をしている余裕など無くなる。対人戦の場合、刃を向け合うことはどちらかの死を意味している。魔獣を狩るためのナイフを他人に向けて良いものかと悩み、護りに徹しているのが窺えた。
「逃げてッ!」
我をも忘れて眼の前の光景に圧倒されていた意識をミアの叫声で取り戻し、半ば動物的な反射反応で踵を返した時には、もう遅かった。
人の気配はもちろん、足音さえも聞こえなかったというのに、先程までお姉さんの傍らに控えていたメイドがいつの間にかこちらの背後に立っており、眼前の姿に目を奪われている隙にも今度はすぐ後ろ、目と鼻の先にお姉さんが真顔で立っていて――およそ現実を疑う状況を前にして呆気に取られてしまった。二人とも幽霊かなにかだと思った。それ程までに気配という気配が無かったのだ。
「歓迎するぞ?」
こちらの肩にぽんっと手を置き、微笑む金髪お姉さん。その手は暖かくて、布越しに伝わる熱い体温はまるで太陽の日差しのようであった。それは、捕まった事を意味していた。
いよいよ逃亡の旅も終わりか……って! んなわけねぇだろッ、逃げるが勝ちだッ!
色々と真心籠もり過ぎているお姉さんの手を振り払うが、払い除けた側から右肩にポンッ、左肩にポンッ、メイドさんも後ろからポンっポンっ。仕舞いには背後からガッチリと両肩を掴まれてしまい、悪い子としてお姉さんの前に突き出されてしまった。
「は、離せ……! 暴力はヤメロッ!」
お姉さんとそれに付き従うメイドに取り押さえられて藻掻くが、私服とエプロンドレスを着ているとはいえ、鍛えている本業二人には無力であった。
「お前が暴れるからだろ!」
「これは正当な捕縛であり、暴力ではない」
布越しから伝わる感触は確かに女性の手であったが、社交界にも出られそうな細腕ながらも、筋肉の密度そのものが違うらしく、掴まれている両肩が微動だにもしない。
とはいえ一旦「あ、すみません。なら大人しくします」と素直に返して、先ずは自分からそっと身動きを止め、
「分かったならいいんだよ。大人しくしていれば誰も乱暴にはしない」
こちらを取り押さえていた腕の力がふっと抜けた刹那、全力でメイドの手を振り払い、猛ダッシュする為に一歩踏み出した、までは良かった。
やっとの思いで自由を得た次の瞬間には、俺はその場に立ち尽くして、何故だか分からんが満点の星空を見上げていたのだ。ジワリ霞む瞳には流れ星がいくつも泳ぎ、幻想的な光景だった。
へ……?
「少しは大人しくしろ」
状況を理解するのにどれほど要しただろうか。視線を落としていくと冷たい眼差しをしたお姉さんの腕はこちらの腹へと続いていて、その拳はみぞおち深くにまで食い込んでいた。
「新人クンッ!」
みぞおちに一発、ただそれだけで脳から血の気が引いていき、ミアの声も虚しく、意識は遠退いていった。
「よそ見するなッ! この恨み、燃やし尽くすまで消えぬッ!」
「新人クンッ……! 新人クンっ……」
苦痛の中、その叫びになんとか顔を上げると、赤髪の先でナイフを構えているミアの顔は今までに見た事が無いほどの焦った表情を浮かべていて、これで今生の別れかと思うと、心の底から気が抜けるような空虚感に全身が支配されていった。
ミアから距離を離されるように引き摺られて行くのみで、声も発せられず、お別れもまた、言えなかった。




