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008

 そうしてマルティーナが姿を消すと部屋には静寂が訪れ、虐められていた喉の調子を整える為に咳払いをする自分の音がやけに大きく聞こえた。


 口内にはマルティーナの指に付着していた汗の味が残っており、好きでもない他人の味に吐き気を催してしまった。かといって他人の家の中でツバを吐き出すわけにもいかず……結局分泌されてきた新たな唾液で洗い流し、胃袋へと押し込んでしまう他なかった。


「う、あっ、気分ワル……」


 そのしょっぱさが胃に落ちると、なんだかあの子の所有物となってしまったような気がした。きっと、いま飲み込んだマルティーナの汗は、いずれ肉体の一部となってしまう事だろう。あの子の身体から分泌された成分を取り込み、分子レベルで一体化してしまうのだ。


 そう、これは比喩だが、量子もつれ的な状態となった事を意味している。嗚呼、なんと気色の悪いコトだろうか……。


「気分悪いって、どうしたのさ? お酒でも飲まされたのかな?」


「口の中に指突っ込まれて、少々教育を施されていました……」


「あちゃちゃ、それは災難だったね。よしよーし」


 隣にしゃがみ込んで膝を抱え、幼い頃に母親がしてくれていたように背中を擦ってくれるネイビーブルーな優猫。サラリとした髪の毛からは太陽の匂いがして、緊張に凝り固まっていた身体がふっと軽くなるのを感じた。


「って! いつからそこに居た」


「気分ワル、からだよ?」


「あーね。……て、またさらいに来たのかよ! てかてかよく無事だったね? 何故に此処が分かった? あと助けに来たなら頼むよコレ」


「てかてかてか、ボクは鼻が効くんだよっ。キミの匂いは覚えたからね。盗賊だから盗むのは当たり前だよ。あともう縄は切ったよ」


「あらほんと」


「ほら急ぐよっ、あの人も戻ってきちゃうっ!」


 先に立ち上がって締め切られていた両開きの鎧戸を全開にすると、未だに脱力感が残っているこちらへと手を差し伸べてくれる泥棒猫。


 その小柄な身体を見ると、太ももや脇腹には小さな切り傷が浮かんでおり、切り裂かれた箇所の布にはジワリと血が滲んでいた。


 あれだけひょいひょいと身を躱せていたので、回避する事だけに専念していたとすれば無傷で済んだはず。目を離した隙に姿を消してしまったこちらの事を追うために、少々無理をしてしまったのだろうか。


「飛び降りるよっ、下は花壇だから安心してっ」


 あくまでもおそらくではあるが、自分のせいで女の子の身体に傷が付く事態となってしまい、隣の泥棒猫と共に窓から飛び降りた俺の心は、僅かな罪悪感と後悔に締め付けられていた。


 これは後から聞かされた話しだが、マルティーナを呼んだ声は泥棒猫の声真似だったらしい。確かに量産型の作り声だから真似しやすそうではある。


 どうやらマルティーナは宮廷にも愛される半民半官な絵描きであり、この辺りでは有名なのだそうだ。通りを眺めていたのも王宮からの指令で、捕らえたことを上に報告する前に味見でもしようとしていたのかもしれない。


 半民半官ならば充分にありえるし、捕らえた者は一晩だけ好きにしても良いというお達しまで下っている可能性がある。でなければ貴重な男を好き勝手するという、官職としての職を失いかねない暴挙には出ないはずだ。あの行動の裏には確固とした確信がなければ説明が付かない。王国に逆らって暴走したのならば、あんなにまどろっこしくて悠長なことなどしている暇も無いはず。


 ともかく、王宮――いや、あの女王のやり口はこれで分かった。四肢の自由を奪い、否が応でも従わせるというのは、まさにマルティーナが行った所業そのものであり、その冷酷非道さを物語っていた。


 薄らぼんやりとしていた王国への不信感は強まり、危機感を伴って”逃げなければならない”という逃走本能が刺激され、拒否するための手段として逃げることを決意すると同時に、泥棒猫は味方であると認識し始めていた。――いくら男を奪って逃げる為とはいえ、人を刺すのはどうかとも思うが。

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