008
「こ、ここまで来ればいいだろ……」
普段は決して走る事はないし、人前で全力疾走なんかしたら白い目で見られるに決まっているので急いでいても走らないが、この世界に来てから酷使している脚は思いのほか遠くまで運んでくれたらしく、気が付くと森の合間に流れる綺麗な小川の側までやって来ていた。
「み、水……水だ。飲んでも大丈夫、だよな……? こんなにキレイなんだし、魚泳いでるし……」
綺麗な水に魚は住まぬ。薄汚れた混沌の中にこそ生命は宿るものだ。がしかし、確かにその川の水は透明に透き通っており、太陽光を反射して眩いほどにきらめいていた。走り疲れて口の中が砂漠と化している男に、戸惑いはなかった。
「うっめぇええ! 悪魔的ダァッ!」
小川の水を両手に掬って仰いでみると、ホタルが住み着きそうな甘い水の味がした。喉を急速に潤してくれるそのウンディーネの恵みを受けて、つい声に濁点が付いてしまう。今まさに飲み下したソレは腹を下すリスクの塊だというのに、嗚呼、なんと背徳的なのだろう。しかし一度も二度も変わりなく、もう後戻りはできない。
旨さを知った男は何度も水を掬ってガブガブと飲んでいき、それは胃袋の中からちゃぷ……っと聞こえてくるまで続いた。
「あぁ生き返ったぁ……。アイツなにしてるかな、まぁ身軽だし大丈夫か」
水の神に祈りを捧げるが如く深く跪いていた背中を起こして、泥棒猫への心配を秒で放り投げた男の前には、
「そ、そなた……この水を飲んだのか。この川の水は妾の身体……。今すぐに吐き出し、返すのじゃっ!」
半透明をした水の精霊――まるで人の形をしたスライムのような幼女が川の中に立っていた。膝を付きながら眼前の小さな幼身を見上げてみると、その頬はぷっくりと膨らみ、不機嫌そうに眉が上がっている。どうやらお怒りのご様子だ。
悪魔的に美味かったお水は、幼女のお味だったようです。どおりで甘いと思ったぜェ……。
「はやく吐き出せっ! 吐くのじゃ今すぐっ!」
ワンピースの上からでも良く分かるナイ胸の前で両手を握りしめながら、地団駄を踏んで水しぶきを上げ、あろうことか嘔吐を要求してくる幼女。
つい先程腹いっぱいに味わらせてもらった川の水がこの子の身体の一部ってことは、ある意味ではこの子とひとつになってしまったというコト? そう、胃袋という凹に水という凸が合わさってひとつに……。いや確かに腹は膨れてるけどなんか逆のような。しかしこれがハジメテの感覚かぁ……。なんか感慨深いナ。
「なにをぶちゃくちゃ呟いておる! そ、そなたの腹の中が熱くて堪らんのじゃ……。はよ妾の一部を解放せよっ!」
ご立腹な幼女が”べちゃくちゃ”喚いているが、まぁそれはともかくとして――。
「そっすよね、やっぱりここは、そっすよね」
やはりここは、異界の星だった。
「なにを見上げておるのじゃ! 妾の声が聞こえぬのか!」
「え? あぁごめん。でももう遅いんじゃないかなぁ……。水って吸収早いから、多分もう、粘膜から吸収されて細胞に取り込まれてるかも」
「なっ……!?」
「キミは感じないの? 心臓の鼓動に乗って全身にくまなく巡っているこの躍動を」
「う、薄気味悪いことを言うなっ……! こ、このボケナス!」
「確かに萎びてたけど、お水を頂いたおかげでハリツヤが戻りましたどうも」
「気色悪いと申しておろうがっ……!」
膝を付けて崇めていた脚を伸ばし立ち上がってみると、半透明のその子はおよそみぞおちの辺りに頭頂部が来るちっこい背丈をしていた。白のワンピースを着た微かな霊体に物質的な水の衣を纏わせているようにも視える幼身を身震いさせて、まるで水浴びをした犬のように飛沫を撒き散らしている。
その眼差しはまばたきをする度にパチクリとしていて愛らしいものの、あどけないターコイズブルーの瞳の色合いに、人間とは異なるモノが感じられた。精霊を悪魔と見做す人々の気持ちがよく分かるような気がする。確かに見方によっては悪魔の眼球にも見える。それほどまでに色鮮やかで異質な雰囲気をしていた。
清流渦巻くうねうねとしたロングヘアは足元まで伸びて川面と一体化しており、長い髪の毛の先端が背中で一つに結ばれていて、二股に別れた魚の尾のような形が水面から飛び出ている。
青空の色を透過させている頭の上にはぴょこんとアホ毛まで立っていて、ぱつんと切り揃えられている前髪は短く、麻呂眉のような眉が完全に見えてしまっていた。どこかお嬢様のようであり、また古風な出で立ちであった。
「まぁ戯れるのはこのくらいにして。キミは何者? 名前はなんて言うの?」
「誰が戯れろと言った! わらわは川の精霊、川姫じゃ!」
なんだかんだ言って答えてくれるとは、律儀なのか反抗期なのか。あぁ、いつもボッチで寂しかったんだな。んで素直になれず、嬉しさを誤魔化してると。なるほどなるほどぉ。
「なら街に流れ込んでるあの川の精霊は?」
「あやつも川姫じゃ」
「噴水もあったけど、ならあれは? 上水道の水だと思うけど」
「そやつは……多分川姫じゃっ!」
「それってさ、名前じゃなくて種族名だよね?」
「精霊に固としての名などあるわけがなかろう。そんなものは低俗な人間の風習でしかない」
「ならなんか可哀想だし、名付けてやろうか?」
「いらん! 名を与えられる事は生命を握られること! わらわを束縛するなッ! 揺蕩う小川はうねうねと蛇行するが故に、周囲へと恵みをだな……」
「ウォータブル・ヨウジョ。どうよこれ、天才だろ?」
「話しを聞かんか! なんじゃそれはっ!」
などと言い合っているさなか、木の葉の擦れる音が背後から聞こえ、緩んでいた糸がピンっと張るかの如く急速に空気が張り詰めて、川姫を見詰めたまま呼吸も忘れ硬直してしまった。
「やっと見付けましたッ! 観念して王宮に戻りなさい!」
顔を振り向かせるよりも先に声を掛けられて見てみると、そこにはあの黒髪おかっぱ女子の姿があり――それは、王宮の近衛兵に見付かってしまったことを意味していた。
なにか言う度に逐一反応してくれるので楽しくなってしまった。人ってあまりにも孤独だと強気になっちゃって、他人との接し方を見失っちゃうよね。それでぎゃーぎゃー言ってたんだね。嬉しかったんだね。――それはさておき、どうすっかなぁ……。