075 第二十七話 染まらぬ膝
日が暮れると天日干しされたいつもの服装に着替え、掃除や勉強をしていたシスターズに訊ね回って女神官の部屋へひとり出向いていた。
――あの後、話しも終えたので祭壇のある礼拝堂から去るため踵を返すと、ふと後ろから声を掛けられて引き止められてしまい、女神官と二人っきりで少しだけ話しをすることになっていた。ミアは終始離れようとはしなかったが、シンシアに「行きましょ」と肩を突かれるに従って渋々去っていき、離れていくその背中に不安を覚えている自分がいた。
「お話があるので、今日の夜、わたくしのお部屋へお越しください」
女神官の顔は、汗塗れであった。長衣に覆われている脚も布の中でガクガクと震えており、かと思えば止まったり、また震えたり。微笑み作っている唇までパクパクしているのだから見ているこちらが心配になってしまう。
「話しってなんスカ」
「それは後で話します」
やだこれ! 教師から説教食らう時のやつだ! あるいは女子に呼び出されてあの子のこと好きなの? とか集団で囲まれて問い詰められるやつだ! めっちゃ行きたくないんだが? あああああ、こっちまで脚が震えるんじゃぁあああ!
とはいえ行かないわけにもいかず、今に至る――。
ここか。ヤな予感しかしねぇんだが……。かといって何かしら得する話しだったとしたらもったいないし、聞くだけ聞いてみっか。
思いのほか簡素な作りをしていた部屋の扉を押し開けると、女神官は今朝目にした時の姿のままベッドに腰掛けており、こちらを見るやいなや明らかにキョドった様子で顔を向けてくるのだからなんとも。
「それであの、用事……ってかその前に聞きたいんっすけど、この街に入った時に水吹き掛けられたんですけど、それってもしや……」
「わたくしが指示しました」
やはりか……。
「なんで俺達が来るって分かったんですか?」
「祈りを捧げている際に自らの意識が周囲に溶け広がり、一瞬だけビジョンが視えたのです。新しい殿方が迎え入れられたのは知っていました。噂も広まりつつありますから」
神に祈りを捧げてこちらが訪れることを察したという事は、王宮もなんらかの近しい方法でおおよその居場所を特定してくる可能性もあるわけで。やはり一箇所に留まるのは危険かもしれない。
「それで、なんの用ですか?」
聞きたくもないが、聞くしかない。もしかして抱いてとかじゃない、よな……? んなワケないかー。
「わたくしは、男性への恐怖心を克服するために修道院へと入り、懸命に祈りを捧げる姿を推されて神官となりました。神への信仰に逃げていただけなのに……。おかげで、男性像を見上げても冷静さを保てるようになりました。しかし、生身の男性はやはり異なりますね……。こんな場所に男性は訪れない。わたくしは、男から逃げ隠れていただけ……。なにも変わっていなかったと、あなた様のおかげで気付けました」
「うん、で?」
もうアウトでしょ逃げていっすか? まだダメっすか?
「恐怖は度を超えると感覚が麻痺し、慣れて平気となる。わ、わたくしっ! を、だ、抱いて、くれませんか……?」
そう言いながら最高祭司としての立派な装束をはだけさせて、見るからに脚を震えさせながら冷や汗に濡れている素肌を恐怖の対象である獣にさらけ出す乙女。ぱっと見で三十代前半に見えるが、涙に瞳を潤ませるその姿は純粋無垢な処女そのものだった。
「恐怖は無知から生じる……。わたくしに教え込んでください、ご主人サマ……」
そのもしかして、でした。もうみんな同じだな。余裕で想像出来たわー。
寒風に凍えるかの如き吐息を長く吐き出して呼吸を整えようと試みているあたり、どうやらこの女神官は男に対して強いトラウマを抱えているらしい。達観してきた眼差しでその姿を眺めている間にも、男の前に跪く母親なり姉なりの姿を目にして、男の前ではそうするものであると、おそらく無意識的に刷り込まれてしまっているらしく、
「失礼します……」
こちらの前に跪き、「はぁあ……」と熱い吐息と共に伸ばした舌でズボンのチャックを探し当てると、張りのある美しい唇に挟んで強引に下ろしていく女神官。すべての所作が見様見真似といった感じでぎこちなく、不慣れなものであったが、こちらの脚を両手で掴みながらチャックを下ろし終えると、洗ったばかりだと言うのに社会の窓をぺろりと舐め上げてみせるのだった。その瞬間、非現実的な光景が確固たる現実であると悟ると同時にハっと我に返り、清々しい石鹸の香りが立ち昇ってくる眼下の頭を急いで押し退けていた。
「好きでもない奴なんかとするなよ! お、お前の都合なんか知らんわ!」
「な、なら……殴ってください。ご主人様……」
身体と口とで矛盾してしまっている中、腰を屈めてなんとかチャックを戻し、(ヒヒッ、ヤッてしまえばよかろう)などと面白そうに嘲笑っている内なる声を無視して、
「躾の行き届いてないメスの失態を、どうか……」
「神官なら処女を貫き通して死ねッ!」
最後にそう吐き捨てて、気付いた時には部屋を飛び出ていた。
危うくこちらまで堕ちてしまうところだった。神の信徒なのに思考が悪魔のようだ。おそらく母親や姉のそういった姿しか見てこなかったが故に、男の前ではそう振る舞うものだと思い込んでいるらしい。男を前にしてガクガクと震えるのも納得だ。頭ではそうしなければと思い込んでいるとしても、心が拒否しているのならやめてほしい。以前ミアが教えてくれた話しはあながち嘘ではないらしい。
やはりここは聖なるセイチ。足元から流れ込んでくるエネルギーによって、みな湧き出すものを抱えているのだ。萌えいずる花々が今か今かと受粉を待っているのだ! 嗚呼なんというプレッシャー。求められると逃げたくなる。廊下を全力で疾走しながら、俺は悲しんでいた。
人類の大多数を占める本能的な感情論者のように、目の前の快楽へと身を染めて後悔したくはない。唇を奪われたら心が奪われ、純粋な男は遂に女に溺れ一種の奴隷となってしまう。故に俺は否定する。その時まで。それがいくら冷酷であると言われたとて、今はあくまでも理性の獣でありたい。女子と関係を持つのが恐ろしかった。自らを制御し切れるほどの自信がなかった。
感情に身を任せる恐怖心を抱いていた。それは怒り、悲しみ、人への恋心……。楽しく笑うのは別に良いけども、泣いたり心を打たれたりする事に恐怖していた。一度沸き起こってしまったら感情に呑み込まれてしまう。ひたすら暗い部屋の中で抑圧し続けていた圧力は、手には負えない程にまで増大していた。実生活でも電脳空間においても他者との関わりを排除し、まったく発散させては来なかった。気を抜くとどうなるか分かったものじゃない。本能に揺れる自分が恐ろしかった。人に感情をぶつけられるのも怖かった。
誰かを想って全力で駆け抜けられる自信が無い。誰かを必死で護れる力が俺には無かった。ならば最初から感情を無視し、人に想いを寄せなければ良い。今までもそうしてきたし、自分から遠ざかっていた。しかしこの惑星の人々は、特にあの二人はなかなか距離を置いてはくれず、あろう事か積極的に迫ってくる。関係を結び、更には強化し深化させようとしている。俺はその気持ちに応えられるのだろうか。己を犠牲に出来るのだろうか。
人喰い魔獣が跋扈するこの惑星、俺はチカラが欲しかった。二人を護れる確固たるチカラが。子がデキてもなんら問題無いほどの、男としての、すべての問題を解決させられるチカラが。それはなんだっていい、知力でも良いし腕力でも良い。なにかひとつ、目の前に立ち塞がる扉を開けられる鍵が欲しかった。それを模索し、その度に自身の無能さに落胆していた。
今まで努力して来なかった自分を呪いたい。すべては因果応報。現実を受け入れ、その上で頑張るしかないのだろう。最後まで諦めずにいられるのだろうか? 果たして俺は、頑張り続けられるのだろうか――。
逃げたい。逃避したい。元の暗い部屋に戻り……たくはないけど、死ぬまでぬくぬくと誰かに飼われたいッ!




