007 第四話 小川の精霊
「新人クン後ろ! あやっぱ前! いや違うよ左右だよッ!」
「全方位って事じゃんそれ!」
鬱蒼とした森の中、周囲を警戒する二人。どこを取っても似たような光景が広がり、方向感覚は既に狂っていた。草木の影からはガサガサと葉を揺らす音が聞こえ、それは木霊となって二人を惑わす。
「新人クン! 右だッ!」
露出度の高い猫耳シーフ――泥棒猫の声を受けて右方向へと急ぎ身体を向けると、現れたのは銀の装備に身を彩らせた褐色姉さんだった。愛用品らしき薙刀をこちらに差し向け、その瞳は鬼気迫っている。
「や、やっと見付けたぞ……このッ、泥棒猫がぁああッ!」
森の中に逃げ込んで上手く巻けたかと思ったが、やはり執念深く……。もしも今の季節が冬場だったとしたら、木々の合間から姿を現した褐色姉さんの口元からは何度も白い吐息が立ち昇り――いや全身が汗塗れなので身体中にオーラを纏っていた事だろう。
今は初夏らしいので顎先から汗を滴らせているだけに見えるが、その近衛兵からは幾分か距離が離れているものの、獣のように荒振った吐息の音はこちらまでしっかりと聞こえて来ていた。
身に纏う布地からハリのある素肌が今にも溢れてしまいそうで、とてもではないが目のやり場に困る。獣道を歩いていたらグラマラスなメスと出会ってしまいました。
「新人クンッ、ボクの事はいいから逃げるんだッ!」
「あぁそうさせてもらうよ……!」
この男は武器どころか魔法も使えない、一文無しの逃亡犯だった。所持しているのは着ている衣服と靴だけ。丸腰だが、裸じゃないだけマシだった。そんな状態でずっと追手から逃げていた。
「新人クンの匂いは覚えたから安心して! ボクも後から追いかけるからっ……!」
いや違う、訂正。鼻が効くらしいこの泥棒猫に拐われて王国から追われていたのだ。泥棒猫の目線に立てばロマンティックな逃走劇として語れることだろう。しかしこの男からしてみれば、王国に拐われて美しい謎の星へと連れ去られた挙げ句、泥に泥を塗り重ねる形で泥棒猫にまで略奪されてしまったという、どちらが味方なのかもよく分からない、そんな宙ぶらりんな立場に居た。
しかも夢か現実かも不明。今は必死で今に集中する他なかった。とはいえ夢にしては肉体感覚も意識も明瞭そのものなので、現実として受け入れるには少々時間を要していると言ったほうがより正確だったが。
ざんばら髪を振り乱して殺意に満ち溢れている王国の使者――小麦色の肌が眩しい褐色姉さんに保護してもらえば良いのか、それともこのまま成り行きに任せて逃げれば良いのか……。
もしも保護してもらったとして、待ち受けている運命は精力を搾り取られ、枯れ果てるまで酷使させられる未来。しかも好きでもない子と作業的に。
そんな日々を送るのは流石に御免だった。今は取り敢えず逃げるという選択を取るしかない。逃げればきっと、その先になにかがあると信じていた。薄ぼんやりとなんとなく感覚的に、ほっそいほっそい見えない藁へと必死で手を伸ばそうとしていた。それがなにかは、知らん。
鋭い光を反射させている切っ先を突出させて泥棒猫を突く褐色姉さんと、踊るように身を翻してみせる泥棒猫。目の前の光景から顔を背けて踵を返すと、行く宛もなく森の中へと猛ダッシュする。なんとも情けないが、こればかりは致し方ない。
後ろからは挑発気味な調子で嘲笑しながら「へっへー、あったらないにゃぁ♪」などと言っている泥棒猫の声と、怒気を含んだ声で「きっさまぁ!」などと叫んでいる悔しそうなお姉さんの声が聞こえる。が、そんなのは関係ない。
泥棒猫の名前も知らなければ、お姉さんの名前ももちろん知らない。この世界で唯一名前を知っているのはあの美しい王女様だけであり、名前を知らない人間はそれつまり他人でしかなかった。いや王女様も年齢とか知らないし一言だけしか声を聞いた事のない他人だが。――あれ、ひとり忘れてるって? その話しはヤメレください。
思い出したくないので話を戻すが、その森の中は昼間だというのにどこか薄暗く、自生している樹木なんかもうねうねと曲がりくねっていた。頭に浮かぶ感想は、まるで魔女が住まう森。
もちろんのこと見通しは悪く、この森に入ってから今の今まで後ろでやり合っている泥棒猫と一緒に彷徨い歩いていた。地面から這い出している木の根に気を付けながら身体を前へと押し進め、気色の悪い色をした半溶けキノコや自己主張の激しい花々から目をそらす。
誰か優しい人……それこそ優しい森の魔女さんなんかに出会ったら一時的に匿ってもらおう。もう誰が敵で誰が味方でもなんでもいいよ俺の味方なら!
あの泥棒猫の可愛らしい皮の下には、ドス黒い影を目元に落として野蛮な凶器を振り回す一面がある事を知っていた。
もしもこの森に住まう魔女がマッド・サイエンティストならぬ、マッド・オカルティストだった場合はナニをされるか分かったものではないが、悪い想像に縛られて独りを選び、孤独に逃げ惑うだけの自信は無かった。今は誰か、誰かに安全な場所まで連れて行って貰わなければ……。とにかく、ひと息ついて安心したい。
この男は地図どころかこの国の名称すらもまだ知らなかったが、この世界が異界であり、あちらの世界とはまた別の星である事だけは把握し始めていた。猫耳と尻尾が人間の身体に生えているあの子の存在からしてもそうだし、なによりも空を見上げれば、昼間だというのに大小三つの衛星が木々の合間にハッキリと見える。
青空に薄い白の球を浮かべるその衛星群は、微かな輪っかを持つ大きな衛星の周りを二つの小さな衛星が回っているらしい。あくまでもこの星からの眺めではあるものの、三つとも空の一箇所に集まっているそれは空の真上ではなく比較的低い位置にあるので、実際の大きさはともかく感覚的には巨大に見えた。
たとえあの子の耳と尻尾がただの作り物だったとしても、流石に上空の光景を偽造するだなんて事はあり得ないはず。そんな大掛かりで世界的なまやかしを演じる必要性など凡人には到底思い付かない。
っていうか、ここはなんなんだ? 気が付いたら応接間で、それより前はなにしてたかな……。取り敢えず近未来に生きてたわけじゃないからゲーム内とかそういうのではないのは確かよな。……ということは、あの世?
いやでも普通に肉体あるし、土の感触も靴から伝わる。だから別に死んだわけでは……いやなんで靴まで履いてるんだ。服装も寝間着じゃなくてコンビニファッションだし。
あー、多分道端で気絶させられて前後の記憶が消されたのかもー。異星人ならそのくらい出来るかもー。買い物に行く途中で異星人に拐われた……あ・り・え・る。
「――っていやいやいや、そんな超技術を有してるようには見えんかったぞ。なら魔法とかそれに近い感じか? だとすれば惑星どころか物理法則が違う別の宇宙である可能性も……。まぁでも、全員女子ってのが本当なら居心地悪いけど、ひとりで居れば平気だわな。元から独りだしなぁああ?」
前開きの黒い半袖シャツにベージュ色のカーゴパンツを履いている自分の服装を見下ろすと、自らの意識が朦朧としていない事を確かめるように敢えて声を出し、独り言を呟いてみる。聞き慣れた声を聞けば少しばかり心が落ち着くかと思ったのだ。
今は一先ず、こうして自力で歩けて痛みなども無く、見て喋れて聞こえる事に安堵していた。知らない土地にいきなりやって来て傷を負っていたり、体調が悪かったりなんかしたら堪ったものではない。
あぁ、ハイボールぐびぐびしたい。走り回ってたから喉乾いた。酒なんか飲まないけど疲れたです。