005 第三話 誰に捕まってもヨイと考えてました。
森は……ダメだな。街で身を隠してやり過ごすか。
深く見える廃屋横の森を前にして、そう判断を下すに至った時間、約一秒。その場に立ち止まって悠長に周囲を観察している暇は勿論のこと、切羽詰まっている状態であれこれと思考を巡らせるだけの余裕などあるはずも無かった。
故にこの決断は理知的に計算されたものではなく、あくまでも本能的な直感に起因したものであり、自らの感覚に付き従って咄嗟に踵を返すという、一種動物的な反射行動でしかなかった。
地元民ならいざ知らず、どこまで続いているのかさえも分からない森に足を踏み入れるのは自殺行為に他ならない。全体的な規模が不明なのもそうだが、獣道なのか、それとも人の道なのかも判別としない道を征くだけの勇気など無いし、冒険心があったところで飲み水すらも持ち合わせてはおらず、覚悟を決める以前の問題であった。
褐色姉さんの怒号や泥棒猫の煽る声が聞こえてくる廃屋からいち早く遠ざかるために全力で走りながら、こうやって言い訳じみた言葉を今更頭に浮かべてみると、感覚的に選び取ったこの選択はやはり正しかったのではないかと思えた。しかしそれは、今まさに進んでいる道が正しい道であると思い込み、未来に希望を見出すための言葉でしかなかった。
街に戻ればメイド隊や衛兵に見付かってしまい、やり過ごせたとしても街を中心にして周囲に散開しているだろうから、結局最後は捕まってしまうかもしれない。
しかし森の中で遭難するよりかはずっとマシだし、なによりも、いくらカワイイ見た目をしていたとてあの子は人を刺した賊。いっそのこと捕まってしまった方が良いとすらも考えていた。逃げ延びたところで息絶えてしまったら元も子もないし、死ぬくらいなら……。
そんなこんなで街に向かうと、街中はとても賑わっており明るく活気付いた雰囲気に満ち溢れていた。自然の土を覆い隠すようにして地面に敷き詰められたモザイクタイルはどこまでも続き、立ち並ぶ家々の外壁はカラフルに塗られて青空に映えている。
街を吹き抜ける爽やかな風が心地良く頬を撫で、恐怖に突き動かされてあの場から逃げてきたが、やはりここに来て正解だったかもしれないと思えた。
例の王宮へと続く大通りの両脇には様々な店が立ち並んでいて、道の半ばにはこの街の象徴としても機能しているのだろう、立派な噴水が水しぶきを上げ、爽やかな涼を演出していた。
水の女神を象っているらしき彫像が施された水場を中心にしていくつかのベンチも設置されており、井戸端会議が如く複数の人々で賑わっている。
その様子を横目で見遣ると、赤黒い肌をした小柄な先住民族系やコウモリの翼を称えた尖り耳の悪魔っ子、泥棒猫のような獣人も居て、もちろん普通の姿をした人間も多かった。年齢も見た目も種々様々だが、みな種族・民族を超えて談笑し合っており、和やかなものだった。
――女の子しか見当たらないのは言うまでもなく、物珍しそうな顔で視線を注がれているのは、多分気の所為。
そんな街並みを観察しながら歩いて行くと、不自然なほど至る所に張り紙が貼られており、人相などは描かれておらず文字だけなのでなんとも言えないものの、雰囲気的には賞金首か、あるいは行方不明者の捜索を呼び掛ける類いのものらしく、パン屋や生鮮市場の軒並みが続いたかと思えば、空きあらば張り紙。
と言った具合に建物の外壁などにちょくちょくと見受けられ、手書きらしき筆記体で書かれたものや活版などで印刷されたもの、真新しいものから風化し始めているものまで何枚も貼られていた。
知り合いが誰一人として居ない身としてはどう足掻いても他人事でしかなかったが、自ずと文化レベルというものが察せられた。それはさて置き。
普通の人間ならば異国情緒溢れる光景を前にしてテンションが上がるものなのだろうが、先の危機を脱してからというもの心はやけに落ち着いていて、肉体的な面はともかく、不思議と頭のほうは冷静さを維持していた。
もしかしたら前世でもこの世界に呼び出されていたのかもしれない。そう、魂が老後を過ごした街の空気を覚えているのだ。多分きっとそうだ。前世ではたくさんの可愛い子孫――女の子たちに囲まれて人生を終えたのだろう。
俺の魂はなんて幸せな道程を歩んできたんだ。そんなの知らなかったよ。落ち込んで鬱屈としていた自分が馬鹿みたいだ。あぁなんて幸福な人生……。幸福な輪廻……。嗚呼……。
天を仰いでみると、薄雲が流れる青い空には大小三つの衛星が浮かんでいた。やはりここは別の惑星らしい。五感を伴ったリアルな夢である可能性も大いにあるが、まぁこの際どうでもいい。今は今を過ごすのみだ。
などと、あちらと同じく一つだけの眩しい太陽に目を細めていた、そんな時。
「新刊ありまぁす♡ すっ………………ごいッ、ですよぉ♡」
現実へと意識を呼び戻したのは、そんな声だった。ものすっ………………ごくッ溜めてみせたのはともかく、聞こえてきたその声は喉で作られたムリのある萌え声で。確かに可愛いには可愛いが、鼓膜に不快感を残し、身体をゾワつかせて身震いさせる――そんな作り声であった。
そちらの方へと目を向けてみると、茶髪の町娘が持っている本の表紙にはイケ&メンな♂×♂が描かれており、着ている二人のシャツは情熱的にはだけていて、頬をくっつけ合っていた。一言で言えば、とてもヨいごシュミをしていました。
薄い本を両手に掲げているピンクのエプロンドレスを着た売り子の後ろには、まるで映画監督が如く様相で椅子に座り腕組している、多分女の子が座っていた。その顔は凛々しく引き締まっていて待ちゆく人々を眺めており、その鋭い眼光と、目が合ってしまった。
やべ……。
その刹那、不意に視界が暗転し始め、気が付いた時には地面に膝をついてしまっていた。それは一瞬の出来事であった。
これは、魔法……? どうなって、あえ……。
身体に力は入らなかった。ただただ土下座のような格好で地面を眺めていると、ふと頭上に影が差し――見上げると、多分女子の顔があった。
その顔は、ニンマリとほくそ笑んでいた。その姿を最後に視界は闇に染まり、意識は途絶えた。