004
運動した肉体を冷却するための汗ではなく、恐怖由来の冷や汗を浮かべながら泥棒猫に引かれてしばらく物陰を進んでいくと、路地裏の更に奥の小路へとやって来たらしく、周囲からは増々人気が失せて、見渡す限り石造りの建物の壁で囲まれてしまっていた。
確かにここならば人に見られずに逃亡の足を進めることが可能だ。そこは薄暗く陰気な雰囲気が立ち籠めており、空を見上げれば晴天だと言うのに、いつかに降ったのだろう雨で地面は湿り気を帯びていた。
おそらくは旧市街地なのだろう灰色のスラム街には、年季の入ったレンガやコンクリ造りの古い家屋が密集しており、この街の格差が肌で感じられるような気がした。
まるで霧が立ち込めるが如く、どこからか、なにかから、などの特定の発生源すらも存在しないのではないかと思われるような”すえた匂い”が周囲に充満しており、カラリとしていた大通りとは打って変わって空気も湿度を帯び、どんよりとしている。
視覚的にも薄暗く、小路を挟んで住居と住居との間に洗濯物が干されていてこれでもかと生活感があるにも関わらず、物音を立てずに隠れ住んでいるのかと思えるほど人影というものが一切見当たらない。
「心配しなくていいよ、キミの安全は保証する。さっきのは私服の人でさぁ」
半廃墟化した旧市街に身を隠してトボトボと付き従っていると、ふと前を行く背中越しに泥棒猫は口を開き、先程の件について聞かせてくれたのだった。どうやらくだんの女性は私服の衛兵だったらしく、「だから自己防衛」とのこと。
「だとしてもダメでしょ、あんなこと……」
「服の下に革の腹当てを身に着けてたから平気だよ。深く刺さってるように見えただけ」
「でも結構血が出てたじゃん!」
「それは血気盛んなだけだよ」
「いやそれは関係ないだろ……あでも、血流量が多ければ確かに? いやだとしても、いきなり刺すのはどうなんだよ!」
「だってそうしないと勝てないし。あの人たち鍛え……走る準備して」
「え、なんで?」
喋ってる途中でピタッと足を止めて身体を静止させると、こちらの手首を掴んでいる腕や肩はそのままに、まるで獲物を見定めるかの如く顔だけを前に突き出して、誰の姿も見えない薄暗い前方をジッと見詰め、
「こっち!」
ピクッと片耳を動かしたかと思いきや急に駆け出して、まるで風が吹き渡るかのように全速力で路地裏を走り始める背中。進行方向にあった三辻を右に曲がり、今度は左に曲がっていく。どうやら路地を縫うようにしてジグザグと動いているらしかった。
この泥棒猫が一体全体なにを感じ取ったのかは知らないが、今はその背中に着いていくので精一杯だった。ゆっくりと歩けるかと思ったらまた猛ダッシュなのだから、心休める暇など無いのかもしれない。
「ちょっ! どういうこと!?」
「後ろを見ればわかるよっ!」
腕を引かれながら振り向いてみるが、そこには過ぎ去った景色が佇むのみで、別に誰かが居るわけではなかった。コイツは猫みたいだし、幽霊の類いでも視えているのだろうか? それとも透明になる魔法でもあって、それを使ってるとか? わからん。誰も居ない。
「誰も居ないんだけっ、どッ!」
危ない、後ろを見ながら走っていたから転けそうになってしまった。おそらくは道に敷かれている石が剥がれていたのだろうけども、責任者である背中に文句を言ってやると何度目かの角を曲がった所でふと立ち止まり、
「なら見てごらんよっ」
今まさに通り過ぎてきた道角の先を見るようにと目で合図してくるのだった。言われるに従い顔を出して覗き見てみるが、やはり誰も居ない。
「いや誰も来てなんか……」
約数秒後、肩を揺らしながら道の先を眺めていると、言い切るよりも先にメイド姿の女性が姿を現し、小走りでこちらへとやって来るものだから硬直してしまった。
「囲まれてるんだよ。これは街を出るしかないかも」
いつの間に包囲されていたのかは不明だが、メイド隊の人海戦術を駆使してしらみ潰しに見て回っているらしく、確かにコツコツと石畳を走る複数の靴音が微かに聞こえている。
「ほら行くよっ」
それだけ伝えて再び駆け出した背中を無言で追い掛け、逃げる。しかし心中は複雑だった。疲労が溜まり始めているのもあって、いっそのこと王宮の手に捕まってしまった方がラクになれるんじゃないかと思い始めていた。
なぜ自分が逃げているのかが分からない。確かに王宮の居心地はよろしく無かった。男を拐ったわけだし、泥棒猫が俺を連れて逃げるのも分かる。だが、なぜ俺がこんなにも必死で走り回っているのかが段々と分からなくなってきていた。
とは言っても、決して離さまいと手首を強く掴まれており、前を行く泥棒猫の方が脚も速く疲れ知らずなわけなので、たとえその小さくて熱い手を振り払い逃げたとて、王宮の手に捕らえられるよりも先に再び捕まってしまうのは確実。
ただ最も近くに居て、身柄を共にしているという事実だけが、泥棒猫と一緒に走る理由となっていた。




