034
「もう一度聞く。キミは脚が悪いのかね? そんなんじゃ連れて行けないよっ」
「わたしは男子を知りたい。これも研究の為。逃すわけにはいかない」
「まままっまぁ喧嘩はよしてさ……」
その場に立ち上がって硬質な態度を見せる二人の間で電流が交わり、バチバチとした火花の音が今にも聞こえて来そうであった。そんな姿を見せられたら見ているこっちがしどろもどろと狼狽えてしまう。喧嘩はよすんだ、ネコと和解せよ!
「男子を独占するのは世界秩序に反する。中央国に報告したら、一晩だけでもわたしのモノにできる。もし拒否するならこちらも拒否する。わたし達には勝てないから諦めて。わたしも望んではいない」
「くッ……」
不動の身でゆらりとミアを見定めるソフィア。ミアの背後には執事の姿があり、その首元には果物ナイフがあてがわれていた。腰から下げている凶器へと伸ばそうとしていた手はいつの間にか掴み上げられており、脅す側が脅される羽目になってしまっている。
「私が死なない限り、その子は不死身。きっと使える。連れてって」
すべてがソフィアの慈悲であった。ナイフをミアの肌に当てているという事は、掻っ切るよりも前に動作を止めた事を意味し、そのような冗長な演出が成されている時点で、ミアの負けであった。
ミアを縛り付けて王宮に報告すれば、俺とミアの身柄とできっとそれなりに褒美も貰える事だろう。他に目撃者も居ないこの場で今すぐにでも泥棒猫を殺し、手脚の自由を奪って生きた人間の男を独占する事もできる。だというのに、王宮という権威になびく事もなく終始、人の言葉で希望を伝えていた。
「貴族に薬を売るだけの生活は、もうイヤ。お荷物になるのはわたしも分かってる。だから精一杯協力する。お願い」
「まぁ、険しい道になったら俺が背負うということで……。軽そうだし」
そんな風に言われてしまったら――そんな物悲しい顔をされたら、もう頷くしかないだろう。椅子から立ち上がって二人の間に割って入り、必死でミアに目配せすると、
「置いて行かれても知らないからっ」
悔しそうな調子でふんっと顔を背け、渋々了承してくれたのだった。その姿に肩を撫で下ろして心が安堵すると、視界は斜めに傾いていき――気が付いたら軽くよろけてしまっていた。もう疲れたよわんわん……。
「それよりもあなた、顔色がすぐれないようだけど大丈夫?」
あ、この人、話し変えた。確かに優れないけど絶対話し変える為のネタにしたよね。まぁみんな平和ならそれで満足だよわんわん。
「え? いやまぁ実は……」
体調が悪いというよりも、身体がたぎっていて睡眠不足なことを伝えると、
「あなた、魔族の接吻を受けたでしょ。魔族の色が視える」
そっと目を細めてこちらを見詰めたかと思いきや、急にそんなコトを言うのだった。魔族の名を聞いてあの子の姿が脳裏にフラッシュバックし、クラクラと揺らめくピンクの視界。
「そ、それもよくお分かりで……」
「ハッ? キミ、魔族からキスされたの!? いつ!?」
反らした顔を急いで戻し、今にも胸ぐらを掴んできそうな勢いの泥棒猫を遮る形で、その子は続けた。
「魔族の匂いは蠱惑の香り。沐浴として湖に入るといい。禊をしてから休んだらどうかしら。師匠のバスローブもあるから貸してあげる。その服もこちらで洗っておく。王宮から逃げてきたのは察している。ここは中央国にあって自治を任されている辺境伯の領地。一晩くらいは休めると思う」
「師匠?」
「今は充分に休んで眠ったほうがいい。気になるなら後で話す。そこのネコも後で入って」
「えぇ~……」
さすがはネコ、水浴びは好きではないらしい。
「ていうか、ソフィアもなんか……」
よくよく見てみると、錬金魔術少女の目の下には薄っすらとクマが浮かんでおり、食後だからというのもあるのかもしれないが、どこか眠そうな目をしているように見えた。
「わたしはいつもの事だから気にしないで」
椅子に腰を降ろしたソフィアが語るには、寝ている間はアストラル・トラベルだかなんだかに挑戦しているらしく、寝てるのに寝不足なのだそうだ。色白なのもあってクマはより際立っており、一日中読書や研究に没頭している姿が目に浮かんだ。完全にインドア生活を送っているのだろう。
魔族の匂いがどうとか言ってたけど、地べたに寝転んだり走ったりもしたから、正直なところ気を利かせてくれたのかもしれない。ま、そろそろ入りたかったし丁度いい。今晩は休ませてくれるみたいだし、お邪魔させてもらっている手前、ベッドを汚すわけにもいかないし。
執事に渡された毛布のようなバスローブと天日干しの匂いがするタオルを手に屋敷の裏手へ回ると、湖畔には掘っ立て小屋のような小さな脱衣所があり、普段からこの湖を風呂代わりにしているのが窺えた。
身体の汗を流せるのは良いものの、雪解け水が流れ込んでいると商人が言っていた通りに、その湖の水は氷水のように冷たくて辟易してしまった。飲めば美味いのだろうが、身体がかじかんで感覚が無くなりそうだった。
しかし冷水を浴びて身体も心もスッキリはした。湖から上がると空気が暖かく感じられ、久し振りにプールから上がった時のあの感覚を彷彿とさせられた。
そうして全裸の上にバスローブを羽織って屋敷に戻ると、入れ替わりで沐浴へと向かった嫌そうに垂れるしっぽを見送り、二階の客室へと通されて御香を炊いてもらっていた。
「この星に来たばかりで心身が疲弊しているのかも。これは緊張を和らげる、飲んで」
「いや自分で飲め……うッ」
脚が悪いというのにわざわざ階段を上って部屋まで案内してくれたソフィアは、保険医が如くベッドの傍らに置かれていた簡易的な丸椅子に座り、乾燥したハーブの類いをすり鉢で粉々にすると、ガラス製の水差しを用いて手のひらサイズのそれに水を注ぎ、こちらの口元へと持ってきて飲ませてくれたのだった。
無理矢理というか半ば強引に処方されたハーブは、心を落ち着かせて身体を沈静化させる自然由来の眠剤ってなところなのだろうが、あの執事と兄妹と言われても不思議ではないその淡麗とした顔を近付けられてしまっては心拍数が上がってしまう。
「飲み切って」
う、うっす……。
薬の味は類に漏れず良薬口に苦しで美味しいものではなかったが、喉の奥に甘草のような仄かな甘みが感じられ、どこか清涼感もある味がした。口元にすり鉢をあてがわれたままコクコクと頷いてガブガブと飲んでいき、底に残っていた最も濃いザラザラとした淀みまで完飲すると、
「よく飲めました。ゆっくり休んで」
ほんの僅かに口元を緩ませて杖を掴む少女。ミアは沐浴をしていて執事も一階、二人っきりでナニかをするならば絶好のチャンスだというのに、カーテンを閉め終えると普通に部屋を出て行くのだった。
良い香りだ……お寺に行った時の事を思い出すわぁ……スヤァ……。
扉が閉められた薄暗い部屋には香の煙が細く立ち昇り、まるでホテルかと思えるほどに質の良いベッドに横たわると段々と胸の鼓動は収まっていき、自分でも気付かぬうちにすんなりと眠ってしまっていた。
慣れない環境に疲れているのもあるだろうし、なによりもヤバい奴らに追われてるのがストレス源なのだろうと察していた。今は今までの分を取り戻すためにグッスリと寝よう。なにも考えず、なにも心配せずに。




