030
翌朝、日が昇るのに合わせてミアの所まで戻り、既に起床して水筒の水を飲んでいた持ち主にナイフを返していた。
ネズミの点滴効果は、凄まじかった。ほんの僅かな微量だというのに、まったく眠っていないというのに、確かに疲労が蓄積していて全身が鉛のように重いというのに、体内の血が騒いで筋肉にチカラがみなぎっているのだ。
矛盾した身体感覚に悶えながら霞んだ視界にその姿を映すと、冗談抜きでメスのエモノに見えてしまった。
「これ返すよ。少し汚れちゃったけど、まぁ葉っぱで拭いといたから大丈夫だと思う」
「まさか、純血が……!?」
「違うよ、魔獣」
仰っていた水筒から勢い良く口を離して口走り、変なところに水が入ってしまったのか、あるいは唾液か、唇を濡らして「けほっ、けほっ……」とむせている姿もまた可愛らしくて、また妖艶だった。
ミアの傍らにナイフを置くと、新鮮な眩しい朝陽へと視線を逸らし、目を細める。ただ地面にナイフを置くという単純な動作をするにしてもふらついてしまい、足取りもおぼつかなかった。身体はフラフラとしているのに、心臓だけは強く猛烈に脈打っている。複数の要因によって胸が苦しい。
「あ~……サキュバスの街とか無いんかなぁ……」
この余分な精気を誰かに吸い取ってもらいたい。血を流せば……そう、昔のエセ治療みたいに血を抜けば寝れるのだろうか?
「そんなものはないねっ! あっても教えませーん」
「やっぱそのナイフ貸してくれない?」
「いいけど、どったの?」
「血が……いらん血が要らん……」
その場に座り込み、地面に置いたばかりのナイフを再び手にすると、自らの腕にナイフを突き立て……。
「やめるのじゃアホタレ! 妾の大切な身体を雑草の養分とするなッ!」
手のひらから半透明な手――液体の触手が出てきて、今まさに刃を食い込ませようとしている手首へと巻き付き、それ以上は動きを抑えられてしまった。
「これもムリカー……」
「そういう事するんならもう貸さないよっ!」
川姫との共同作業が如くミアにナイフを取り上げられてしまい、自分ではもうどうする事も出来なくなってしまった。もう終わりだ、眠いのに寝れない……。あ、でも幼女が抜けたらなんか身体が軽く……。
視界は斜めに傾き、眼の前に訪れる新緑色の藪。枯れてる葉っぱも一本、二本……。
「ちょっと! キミっ!」
「はよ木陰へ連れて行くのじゃ! 水分が蒸発してしてまうではな……」
目が覚めると、こちらを見下ろして後光が如く晴天を背負った泥棒猫の顔がそこにはあり、後頭部には柔らかな感触があって、太ももの上に頭を乗せられているらしい。倒れ込んだ記憶はあるが、どれほどの間この重い頭を支えてくれていたのだろうか。
「大丈夫……?」
「うん、まぁ少しは……」
太ももキッ……タァァアアアッ! って、心が騒いでるけど。
普段にも増して優しい声を聞かせてくれたミアの姿は逆光になっていて、顔に落ちる影の中でどこか弱々しい眼差しをしていた。
心配そうな面持ちを浮かべるネコと比べ、あの水たまりお嬢様の姿はどこにも見当たらず、薄情にも身体に戻ったらしい。道理で動悸がするわけだ。川姫が抜ければ眠れることだけは判明した。
平穏というよりも平々凡々としていたし、不幸すらも無い日常に飽き飽きしていたから今更拐われた事に文句は言わないけど、どこまで逃げれば良いのか、いつまでこの状況が続くのかと考えると嫌気が差してしまう。
やはり逃亡生活ではなく放浪生活であると認識を変え、各地を見て回る楽しい旅なのだと自分に言い聞かせなければ、もう身が持たない気がする。




