003 第二話 ネイビーブルーな泥棒猫
猫耳が生えた頭を眺めながら必死で泥棒猫の背中に着いていき、天井画を鑑賞する暇も無く大理石で造られた大階段を駆け下り、白塗りの宮殿から脱出して街中に入ると、追っ手を巻くためにすぐさま細い路地裏へと飛び込み、大通りからは死角となっている場所で息を整えていた。――主に俺が。
「ぜぇ……はぁ……うっ、あぁ……。キッツ……」
「大丈夫かぃっ? ここで少し様子を見よっか」
何故、俺が、逃げなきゃ、ならないんだ……。まぁ、袋を被されて担がれるよりかはマシか……。攫われた上に攫われるって、なんすか……。
こちらとは打って変わってまったく息が上がっていない泥棒猫は、路地裏に入ると道角から顔を出して大通りの様子を確認しており、耳をピンっと立てて周囲を警戒していた。
その様子からしてここも長居はできず、近いうちにこの場からも離れなければならないらしい。きっと追っ手を巻くと同時に走り慣れていないこちらのことを気遣って、一旦この路地裏へと逃げ込んだのだろう。色々と山程訊きたいことはあるが、今は息を整えなければ地上で溺れ死んでしまう。
「はっはーん、みんなバカだなぁ~♪ 灯台下暗し作戦、成・功っ!」
王宮に侵入してきた際は太陽を背にした逆光の状態だったし、前を走る小柄な背中を必死で追い掛けていたというか引っ張られていたので、ここに来るまで髪を踊らせて先を行く後頭部や、尻尾を揺らす小振りなお尻ばかりが目に映っていたが、膝に手を付けて石畳に汗を滴らせていた顔を上げてみると、ニッシッシと悪い笑みを浮かべている泥棒猫の顔がそこにはあり、こう言ってはなんだが、人攫いのくせに思いのほか可愛い顔をしていた。
悪戯な笑みを浮かべていた表情を引っ込め、顔をキョロキョロとさせながら次の逃げ道を模索しているらしき隣の子は、見るからに高等部ほどで、ぱっと見ではあるが童顔気味であった。わずかばかり幼さも残っているようにも見えるし、実際の年齢的にもそのくらいなのだろう。
先の王女様を引き合いに出せば少しばかり背が低く、こちらの胸元――ちょうど顎下のあたりに頭頂部が位置していて、そこから一対の立ち耳が生えている。艷やかな濃紺を称える頭髪や長い尻尾とは異なり、耳の内側に生えている耳毛だけは乳白色であった。
そんな背丈をしている泥棒猫の格好は動きやすさを重視したような軽装で、色々と丈が短かった。
黒ニーハイとの間で健康的な色を露わにさせている薄手の黒いショートパンツもそうだし、襟元や半袖の袖口に刺繍が施されているヒラヒラとした深緑色の民族衣装も首元がガッツリと開いていて、鎖骨はもとより胸元やお腹まで見えてしまっている。この国やネコ耳に対する疑問など全部ブっ飛ぶくらいには目に毒だ。
やり場に困った目を泳がせていくと、腰に巻いている革ベルトや靴と同様に、主に心臓を護る形で装備している簡単な胸当ても皮革で作られており、これが盗賊としての仕事着なのだろうと察せられた。革製の鞘に納められた大振りのナイフまでお尻に下げてるし――やっぱ物騒な賊だわコイツ……。
「息が整ったら行くよっ。キミはそっちの道をお願いっ」
「あ、はい」
出で立ちを観察するこちらの視線に気付いたらしく、真鍮色の瞳でチラリと目配せすると、再び顔を背けて大通りの様子をジッと窺う泥棒猫。
息が上がってしまっているせいか、なにやら太陽のような匂い――そう、天日干しした布団みたいな匂いがその子からは感じられて、怖じ気付けば良いのか、それとも和めば良いのかと悩んでしまう。客観的に見れば危機的状況下にあるのだろうが、やけに冷静な自分もまたいた。
困惑を通り越して呆然としてしまっている目で後頭部を見下ろしてみると、太陽香を振り撒かせているらしきやや長めのショートカットの髪はあまりコシがあるようには見えず、頭髪の流れが真っ直ぐに落ちたかと思えば、わずかに毛先が跳ね上がっていた。
逃げ走っていた際なんかも風になびいて踊り遊んでいたし、少しばかりくせっ毛なのだろう。いや、ネコっ毛と言った方が正しいかもしれない。
泥棒猫の第一印象は、”可愛い”だった。あくまでも第一印象だが。
そうやって名も知れぬ盗賊娘にかっさらわれて、人質とされているのかなんなのかは知らないが、何故だか見張りまで任されてしまったので一旦その子からは目を離して今は素直に従い、こちらも周囲の様子、おおおん……?
「そんなに汗をかいて、どうなさいましたか?」
踵を返して泥棒猫に背中を向けると、目の前には白のブラウスにミント色のロングスカートを履いた、綺麗な金髪お姉さんが立っていた。
年齢はおそらく三〇手前。こちらよりも少しばかり歳上に見えるものの、それでもかなりの美人で若い感じがした。
身長的には一七〇無い程度だろうか、振り向いたら背後に立っていて、待ってましたと言わんばかりに声を掛けてくるものだから流石に驚かないわけにはいかない。
少し目を離した隙に……いつからそこに佇んでらっしゃったのだろうか。――因みに、断じて泥棒猫に見惚れていた訳では無い。えぇ決して。
「いやあの、どう言ったらいいか俺にも……」
小首を傾げた優しげな顔の前で口籠んでいると、後ろに居たはずの泥棒猫はいつの間にやら隣に並んでおり、自分よりも背の高い姿を無言で睨み上げていた。
おいおいおい初対面の人間になんて失礼な――などと思っている間にも、素早い動作で腰からナイフを抜き取り、躊躇無く女性の腹を突き刺す猫。
「……?」
深くめり込ませたナイフを泥棒猫が抜き去ると、お姉さんが着用している真っ白なブラウスには鮮烈な赤色がジワリと広がり始め、その人自身もなにが起こったのかと呆気に取られている様子だった。しかし次第に状況を理解し始めたらしく、
「ぁ、くッ……」
「お前なにやって……!」
「なにって、見れば分かるでしょ」
腹部に手を当てながら膝を落とし、脂汗が浮かび始めた眉間を苦しげに寄せてお姉さんがその場にうずくまると、あろうことか、もたげようとした首を無慈悲にも横蹴りにして意識を奪い去ってみせる泥棒猫。
綺羅びやかな金髪は土埃に汚れた地面へと舞い落ち、倒れ込んだ肉体からは赤黒い液体が滲み出し、石畳の繋ぎ目へと浸透していく。止めどなく広がっていく血液は己の靴底にまで滲み寄ってきて、目視でもかなりの出血量であると思われた。
コイツ刺しやがった、人を……。やっぱりアレだ、人の生命を軽んじる賊……。俺もいずれ……逃げないとッ!
ぐったりと地面に横たわるお姉さんの身体を見下ろしていると凍えるような恐れの感情が急速に湧き上がり、意思とは無関係に震え始めた足から伝わるは、チャプチャプと濡れた地面の感触。
これ以上この場に立ち尽くしていたら走ることもままならなくなってしまうと即座に察し、雑踏が聞こえてくる大通りの方へとつま先を向けて走り出そうとしたのだが――。
「や、やめろ! 働いて金は貢ぐから……!」
「なに言ってんのキミ? いいから行くよ」
咄嗟に腕を掴まれてしまい、その細腕に引っ張られるだけの結果となってしまった。いくら泥棒猫が小柄だとはいえ、女の子一人分の体重を引きずって走るだなんて無理だ。しかも逃走しようとするこちらの動きとは逆方向に踏ん張られてしまっているので、逃げようにも捕まられている以上は走ることは元より、思うように足を動かすことさえもままならなかった。
顎どころか喉まで震えていてまともに声も出せない。殴り飛ばすにしてもそれより先に血濡れたソレに刺されてしまうのは確実。
俺も足元に転がる女性のようになってしまうかもと脳裏に浮かび、リスキーな行動を取るだけの勇気なぞは微塵も湧いてこなかった。今は諦めるしか無いと思い知らされていた。俺は完全に人質なのだ。もう自由は無いかもしれない。終わった……。
運動した肉体を冷却するための汗ではなく、恐怖由来の冷や汗を浮かべながら泥棒猫に引かれてしばらく物陰を進んでいくと、路地裏の更に奥の小路へとやって来たらしく、周囲からは増々人気が失せて、見渡す限り石造りの建物の壁で囲まれてしまっていた。
確かにここならば人に見られずに逃亡の足を進めることが可能だ。そこは薄暗く陰気な雰囲気が立ち籠めており、空を見上げれば晴天だと言うのに、いつかに降ったのだろう雨で地面は湿り気を帯びていた。
おそらくは旧市街地なのだろう灰色のスラム街には、年季の入ったレンガやコンクリ造りの古い家屋が密集しており、この街の格差が肌で感じられるような気がした。
まるで霧が立ち込めるが如く、どこからか、なにかから、などの特定の発生源すらも存在しないのではないかと思われるような”すえた匂い”が周囲に充満しており、カラリとしていた大通りとは打って変わって空気も湿度を帯び、どんよりとしている。
視覚的にも薄暗く、小路を挟んで住居と住居との間に洗濯物が干されていてこれでもかと生活感があるにも関わらず、物音を立てずに隠れ住んでいるのかと思えるほど人影というものが一切見当たらない。
「心配しなくていいよ、キミの安全は保証する。さっきのは私服の人でさぁ」
半廃墟化した旧市街に身を隠してトボトボと付き従っていると、ふと前を行く背中越しに泥棒猫は口を開き、先程の件について聞かせてくれたのだった。どうやらくだんの女性は私服の衛兵だったらしく、「だから自己防衛っ」とのこと。
「だとしてもダメでしょ、あんなこと……」
「服の下に革の腹当てを身に着けてたから平気だよ。深く刺さってるように見えただけ」
「でも結構血が出てたじゃん!」
「それは血気盛んなだけだよ」
「いやそれは関係ないだろ……あでも、血流量が多ければ確かに? いやだとしても、いきなり刺すのはどうなんだよ!」
「だってそうしないと勝てないし。あの人たち鍛え……走る準備して」
「え、なんで?」
喋ってる途中でピタッと足を止めて身体を静止させると、こちらの手首を掴んでいる腕や肩はそのままに、まるで獲物を見定めるかの如く顔だけを前に突き出して、誰の姿も見えない薄暗い前方をジッと見詰め、
「こっち!」
ピクッと片耳を動かしたかと思いきや急に駆け出して、まるで風が吹き渡るかのように全速力で路地裏を走り始める背中。
進行方向にあった三辻を右に曲がり、今度は左に曲がっていく。どうやら路地を縫うようにしてジグザグと動いているらしかった。
この泥棒猫が一体全体なにを感じ取ったのかは知らないが、今はその背中に着いていくので精一杯だった。ゆっくりと歩けるかと思ったらまた猛ダッシュなのだから、心休める暇など無いのかもしれない。
「ちょっ! どういうこと!?」
「後ろを見ればわかるよっ!」
腕を引かれながら振り向いてみるが、そこには過ぎ去った景色が佇むのみで、別に誰かが居るわけではなかった。コイツは猫みたいだし、幽霊の類いでも視えているのだろうか? それとも透明になる魔法でもあって、それを使ってるとか? わからん。誰も居ない。
「誰も居ないんだけっ、どッ!」
危ない、後ろを見ながら走っていたから転けそうになってしまった。おそらくは道に敷かれている石が剥がれていたのだろうけども、責任者である背中に文句を言ってやると何度目かの角を曲がった所でふと立ち止まり、
「なら見てごらんよっ」
今まさに通り過ぎてきた道角の先を見るようにと目で合図してくるのだった。言われるに従い顔を出して覗き見てみるが、やはり誰も居ない。
「いや誰も来てなんか……」
約数秒後、肩を揺らしながら道の先を眺めていると、言い切るよりも先にメイド姿の女性が姿を現し、小走りでこちらへとやって来るものだから硬直してしまった。
「囲まれてるんだよ。これは街を出るしかないかも」
いつの間に包囲されていたのかは不明だが、メイド隊の人海戦術を駆使してしらみ潰しに見て回っているらしく、確かにコツコツと石畳を走る複数の靴音が微かに聞こえている。
「ほら行くよっ」
それだけ伝えて再び駆け出した背中を無言で追い掛け、逃げる。しかし心中は複雑だった。疲労が溜まり始めているのもあって、いっそのこと王宮の手に捕まってしまった方がラクになれるんじゃないかと思い始めていた。
なぜ自分が逃げているのかが分からない。確かに王宮の居心地はよろしく無かった。男を攫ったわけだし、泥棒猫が俺を連れて逃げるのも分かる。だが、なぜ俺がこんなにも必死で走り回っているのかが段々と分からなくなってきていた。
とは言っても、決して離さまいと手首を強く掴まれており、前を行く泥棒猫の方が脚も速く疲れ知らずなわけなので、たとえその小さくて熱い手を振り払い逃げたとて、王宮の手に捕らえられるよりも先に再び捕まってしまうのは確実。
ただ最も近くに居て、身柄を共にしているという事実だけが、泥棒猫と一緒に走る理由となっていた。