029
しかしいざ木陰にやって来ると、そこにあったのは勿論の事ベッドでも畳でもなく、本当にその辺にあるような土の大地であった。
靴底から伝わる限りでは雨に濡れている様子はないものの、到底寝床とは思えぬただの地面を前にして心底ゲンナリしたのは言うまでもない。こんな所で横になるだなんて初めてだし、本当に嫌気がさして限界まで眉を寄せている自分がいましたよねうん。
想定通りに幹の根本からは木の根が顔を覗かせていて、嫌々ながらも横になってそれを枕にはできたが、ふかふかとした人間の寝床に慣れ切った身体がそんな環境で眠れるはずもなく……。
ゴツゴツとした硬い感触に頭を預けていると、ナニとは言わないが悶々とした色欲は萎えるようにして失せていき、癒やされぬ倦怠感が首にのしかかって痛かった。
仕方ないのでしばらく目を閉じて暗闇を見詰めていると、そんな折、ふと足元のほうから微かな音がしたかと思った矢先、誰かに引っ張られるズボンの裾。
音に関しては始めは風かなにかだろうと思えたが、そうやって肌感覚を伴って存在を主張されると流石に気の所為では済ませない。
薄目を開けて身体の下を確認してみる。が、そこには誰も居らず。しかしおかしい、確かに引っ張られる感覚はして、今もそれは続いている。
どういう事なのかと思って重い身体を起こし、目の前に広がる暗闇にまじまじと目を凝らしてみると、ソレは居た。
およそ手のひらサイズの、漆黒の闇が。その闇色の塊が足元でモゾモゾと蠢いており、ズボンの裾を齧っていた。
なんだコイツ……。
その黒い姿はネズミであった。大きさで言えばモルモットよりかは小さく、しかしドブネズミよりかは少しばかり大きい、わずかに紫がかった闇色のネズミ。
しかし普通のネズミとは異なり、体表を覆っている毛がワナワナと波打っていて――目を細めて見てみると、何千ものドス黒いイトミミズが躰のすべてを覆っており、通常は無毛なはずの細長い尻尾まで狐の尾のようにふっくらとしていて、細いイトミミズの集合体となっている。
あまりのおぞましい姿にあれだけ昂っていた血の気はサーっと引いていき、気付いた頃にはソイツを蹴飛ばしてすぐさま立ち上がっていた。
コイツは、魔獣……。
独りで寝ている雑魚を狙って訪れたのだろうか。このような身体的環境的状況で遭遇してしまうとは悲劇だ。ミアの所まで逃げ切れるか否か――。
しかし長く発達した前歯を覗かせて健気にも威嚇している小動物は、所詮ネコの遊び道具。これならば勝てるかもしれない。自分より何百倍も大きな人間様をエサと見做したこと、後悔させてやる。
ナイフの柄を握り締めてどう斬り刻んでやろうかと思案を始めた瞬間、こちらの殺気を感じ取ったのか、物凄い勢いで顔面に飛び掛かってくる黒塊。
すんませんゴメンナサイぃ~ッ!
ネズミが見せた異様な跳躍力にビビってしまい、ナイフを盾代わりにして身を護る事しか叶わなかった。かろうじてナイフに頭突きさせる結果となったが、手に受けた衝撃は小柄な体躯の割には強烈で、弾丸でも受けたのかと思うほど手に痺れを感じる。コイツはネズミの形をしていて、しかしネズミではないのだ。
このっ……コイツすばしっこ!
腰を落としながら追い払うようにしてナイフを振り回すが、まったく当てられる気配がない。それどころか相手の攻撃から我が身を護るので精一杯であり、再び飛び掛かってきた前歯が刃と衝突するとやけに嫌な音がして、ゾワゾワと脚が震え始めていた。
かといって今は立ち向かう他に道は無い。ミアに助けを乞うよりも先に飛び掛かってきては草間に姿を消し、微かに上がる物音に意識を集中させて常に方向を把握している必要があった。
声を上げる余裕も与えてはくれない自分よりも数十倍も矮小な、しかし執念深く凶暴な怪物と対峙する俺には、”絶対に喰ってやる。”というネズミの声がひしひしと聞こえていた。言葉は無くとも相手の強い意思をヒリヒリと肌に感じられたのだ。
一度素肌に喰らい付かれたら肉が食い千切られてもうお終いであろう事は想像に容易い。故に、決して負ける事は出来ない。コイツはすばしっこいから、逃げたとて後ろから前歯を突き立てられてしまう可能性が高い。
ならば……イマッ!
ネズミが飛び掛かってきた瞬間を狙って身を躱し、盾にしていたナイフの切っ先を野球のバントが如く相手に向けると、自分から斬られに来る形でネズミを斬ることに成功。ねちっこいものを斬る手応えはあった。
あったのだが、木の幹にぶつかる形で着地したのだろうソレを月明かりが照らすと、幹の根本で赤い眼を光らせている魔獣の躰には傷一つ見当たらず。しかし眼の前のナイフにはドス黒いイトミミズの破片と共に僅かな鮮血。付着しているモノとのギャップにどういう事かと戸惑ってしまった。
もしかしたら、内部にまで刃を到達させて深くえぐらないと、すぐに癒えてしまう……のか?
呆気に取られて思考を巡らせているその隙を無慈悲にも狙ったのか、こちらが身構えるよりも先に「キィィイイイッ!」という甲高い怒りの声を上げて、半袖シャツの袖から覗くこの腕へと飛んでくる影。
さよなら腕――そう覚悟を決めて諦めつつも、腕の肉と引き換えにその生命を奪い取るためにナイフの切っ先へと殺意を注いだ刹那。
「やらせぬ」
またしても手のひらから水の塊が噴き出して、小さな魔獣の躰を覆うのだった。
結局、ネズミの魔獣は水球の中で藻掻き苦しみ、暫くして窒息死するに至った。呆気ないものだった。刃を交え、言葉無くお互いの殺意をぶつけ合った相手が簡単に死ぬのは、なんだか物悲しかった。
これで助けられたのは二度目。結果はナイフを少々汚したのみ。水球の内部に浮かぶネズミの身体からは血が滲み出てきているので、完全には癒えていなかったのか、あるいは寄生するかの如く全身を覆っている長い毛に隠れて傷が見えていなかっただけなのかは不明だが、今度は血が混入してしまっているのですが、どうしましょうかね川姫さま。
「あのホントにさ、悪いけどさ、この近くに湖があるみたいだからそこでキレイにしてから戻ってもらえませんかね? お前なんかピンクがかって見えるんだけど……」
「他の水は他の精霊の身体。決して交われぬ水と油の関係……。濁った水はお主の身体で濾過となる。まぁ良いではないか、どうせ排出されるのだからなっ」
「いやキモイよなにそれ! やだよ魔獣の点滴なんて! 血は足りてるよ!」
「てんてき? はてな?」
揺蕩う水球から幼気な姿に身を変え、口の中からネズミの死骸を「んぺっ……」と吐き出して地面に転がしてみせた幼女とこうして話していると、さっきまでの活力はどこへやら。
心の奥底から力が抜けるようにして猛烈な虚脱感に襲われ、身体が怠くて仕方なかった。その感覚は風邪を引いた時のような感じで、一種の脱水症状にも似ていた。みなぎっていたモノはとうに失せており、このまま水を飲んで休めば身体の調和も取れそうだ。――そう思ったのも束の間。
「ま、達者での」
「は? ちょっ……! ……マジカヨ」
幼女の水がひゅるひゅると手のひらに吸い込まれていくと同時にまたしても血が騒ぎ始め、結局この夜は一睡する事も叶わなかった。




