022 第九話 濃密な月夜
食後、カウンターへと向かって会計をする際に肩掛け鞄の中から小袋を取り出して「この付近に安い宿は無いかね」と例のウェイトレスさんに何枚かの銀貨を渡しながらミアが訊ねると、銀色に輝く小銭をジャラリと受け取った看板娘さんは「それなら……」と銀貨を握った事によってわずかに指が浮いているその手で天井を指差し、
「ここなんて、どうですか?」
ニッコリとした笑みを浮かべて”ここ”をオススメしてくれたのだった。どうやらこの酒場の二階は宿になっているとのことで、感じからしてこのまま客室へと案内してもらえるらしい。
どうしようか? と隣のミアと視線を交わし、無言のままコクリと頷いたそれに頷き返すと、店内はより一層混雑してきてきっと忙しいだろうに、文句も言わずに辛抱強くこちらの返答を待ってくれている看板娘さんに「ならお願いします」と伝え、今宵の宿が決まるに至った。
人の良心を利用して考える隙を与えないだなんて非常にズルイと思いました。気にしなければ良いだけなのだろうが、駆け引き負けだ。
「では、こちらです」
手にしていたお盆をカウンターに置いてエプロンドレスのポケットに小銭を入れると、あれだけ項垂れていた尻尾を今度は機嫌良く立たせてくねくねと動かしている背中を見せ、さっさと前を行く看板娘。
カウンター横の細い通路を進んで右手に厨房、左手にトイレらしきドア、そして突き当りに手すりの無い階段があり、半螺旋状の狭い階段を上っていくと幾つかのドアが暗闇の中に並んでいた。
「お酒飲んでそのまま泊まれるのは確かにいいね」
「でもこういう処は多いですよ? お部屋はこちらをお使いください。私も住み込みで働いているので、夜はあの部屋に居ます。何かあったら呼び出してくださいね? では失礼しますです」
なんとも商売上手なやり口だなと思っていると、やはりまだまだ仕事があるらしく、奥の角部屋を指差してそそくさと一階に戻っていく看板娘さん。
こうして酒場の宿を借りられたのは良いものの、二階の通路には明かりが灯されておらず、ミアがドアを開けると部屋の中もまた同じくであった。窓から月明かりが差し込んでいるので目が慣れれば別に困らないだろうが、本当に寝るだけの部屋といった感じでベッドしか置かれていない。
お金を出してもらう立場なのでワガママは言えないけども、雰囲気的に今宵は相部屋となるらしい。ミアは決して自分からは襲わない――と思いたいので今は置いとくとしても、女子と一晩を共にした経験など皆目無いので、寝れるかどうかが最大の問題であった。ベッドはひとつだけ、背中合わせで寝るにしてもちょっとな……。
「あの、別の部屋も借りれたりは……」
「そんな余裕はありませーん。ま、野宿よりもマシってことでっ」
グーッと背伸びをしながら当たり前のように即答されてしまった。ですよね~、分かってますスミマセンでした。
「いや別に文句は言わないけどさ、お、襲ったりとかなんとか」
「発情期じゃないから襲わないし、ボクだって女の子なんだよ? あなたを待って、好きにされたい。派なんだよねっ。人間の血って凄いよね、年がら年中、発情期」
「いやそれどっち……」
「沐浴もしてないから恥ずかしいし、ボクからは襲わないよ」
先に手を出した方が負け。そんなゲームをしている気分だった。それからは二人でベッドに腰掛け、様々な話しを聞かせてもらえた。主に学校で習ったことらしい。
話しを聞かせてもらえた中で最も嬉しかったのはトイレであった。今のところではあるが、どこに行っても洋式で――と言ってもネコの集落もこの酒場も板材で作られた簡易的なものだったが、和紙に似た質感の厚い紙が置かれてあるのだ。とはいえこの紙は、一度に使用できるのは一枚だけという暗黙のマナーがあるらしく、希少品だった。
つまりはこうだ、各個室には小さなシャワーが備え付けられており、それを使用して最後に紙。という具合。最初はやはり慣れなかったものの、よくよく考えてみればこれ以上無く衛生的であり、また資源の節約にも繋がっていて関心してしまった。
まぁ結局のところ、紙を量産するだけの工場も無ければ、機械を作るだけの技術もまだ発展途上にあるのだろうから致し方ない。本なんかも基本的には高価で、貴族と修道会のものらしい。こういったマナーなども含め、全てミアに教えてもらった。
因みにトイレの話しに少し戻るが、付近の川に垂れ流している民度の低い国もあるものの、基本的にはどこも汲み取り式で、農家に買い取られた後は肥溜めに集められ、畑の肥料として使われているとのこと。家畜の糞と同じく、土に還して利活用しているのだそうだ。
田舎も都市部もこれは変わらず、シャワーの水は都市部は上水道、田舎は雨水や井戸水をタンクに貯めているらしい。魔法というものが存在するらしいからそれを使えば一挙解決な気もするが、こればかりは単純なカラクリで実現させたのだろう。
文明レベルを観るに、あちらで言うところの産業革命手前、およそ近世ほどと思われた。その割にはこういった衛生面での仕組みがなんとか整備されているのは、きっと前人たちのおかげであり、ハイヒールを履いたり香水をつけずに済むのは大助かりであった。道も清潔で石鹸もある。野宿する事も多い旅人には恩恵が薄いだろうが。
「そういえば集落にも学校があるって言ったけど、どうやって勉強してるの? 紙は貴重なんでしょ?」
「お手洗いにもあるから別に貴重って程でもないよ? 製本できるくらい薄くて丈夫で綺麗な紙が貴重なんだよ。そういうのは手間が掛かるからね」
「あぁなるほど、手漉きなら簡単に作れるもんね」
「ボクも学校で作ったよ、紙っ! 繊維質の草を潰して、水に溶かして、お手洗いに置いた」
「そういう用途には使わなかったけど、俺も子供の頃に作ったなぁ。まさかこんなところで同じ経験してるなんてね」
「奇遇だねぇ! もしかして、運命……!?」
「お互い、特にミアは生活に直結してるから自作出来るようにって事だと思うけど……まぁいいや。紙はあるとして、なにで書いてたの?」
隣に目を向けると窓際に座っているミアの顔は逆光となっていたが、酒場でパンを食べている時まで聞き耳を立てていたその表情はリラックスしたものになっていて、流石に二人っきりの室内という事もあるのだろう、ほっと警戒心を解いているのが窺えた。
並べている肩を軽く丸めて脚と脚との間に両手を差し込んでおり、思いのほか大人しげな様子を見せている。まるで同級生の女子と教室で話しているかのような、そんな感覚を覚えた。
「細い木炭だよ」
「あー、画家が使ってるようなやつね。パンで消すやつ」
「パンで消すってなに? キミの星は木炭で真っ黒になったパンを好むの?」
「違うよ。捨てる。ちなみに白パンを使います」
「あっへ~! 貴族の人がやりそうなことだねぇ……」
ネコの集落でもそうだったし酒場でも黒パンだったので、おそらくは精製された小麦粉の類いを使う白パンは高級品であると想像に容易かった。
その確認を兼ねて口にしてみたのだが、どうやらやはり、白くてふわふわとした手間の掛かるパンは貴族の特権的な食べ物に値するらしく、ガヤガヤとした喧騒が床下から聞こえてくる物静かな空間に驚きの声が響き渡ったのだった。
「あっちでは普通の学生が平気な顔してそれやってたけどね。まぁ最近は知らないけど」
「ボクたちは間違ったら黒塗りだよ!」
「そして使い終わったらトイレっと」
「そう、お尻に炭がついて、下着も気付けば……」
「真っ黒っと……。でもそうしないともったいないもんね」
「そうだけどさぁ……お気に入りの下着に炭が付く悲しさが分かるかい!?」
いや、そんな必死な顔で見られましても……。気持ちは分かるけど洗えば良くね? こんなこと言ったら元も子もないから言わんけどさ。
「せっかく紙でお勉強してるんだから裏表使いなさいって言われてさぁ……どっちかだったら平気なのに、両面とも文字で埋め尽くすの。先生は粗悪な紙すらもまだ貴重だった時代の人だったからね」
ここまで話しておいて今更ながら気付いてしまった。正確な年齢は不詳としても十代半ばということは、ミアはおそらく、卒業してすぐにひとり立ちしたタイプ。
俺の祖母も昔の人なのでそうであったし、学校というよりかは尋常小学校や高等小学校と呼ばれる類いのものであると察せられた。卒業したら働きに出るのが普通で、更に進学するのは金持ちに限るというやつだ。
産まれた環境で殆どが決まる時代、個人的な努力が簡単には報われない時代、格差が固定化されている時代――ミアはそんな動かぬ社会に歯向かい、自らをイレギュラーな存在としたのだろう。
すべてただの憶測なのでこのくらいにして、ベッドの傍らに鞄や水筒と一緒に置かれている簡素な胸当てや、ナイフがぶら下がっている腰ベルトなどを普段身に纏っているとはいえ、これでもしっかりと義務教育を受けていたのだと考えると、安堵感にも似た親近感をどこかで覚えてしまった。
だとしたら中身は結構まともで、思っているよりもずっと普通の女の子なのかもしれない。
「でもさ、水気を拭くだけなんだからタオルでも良いんじゃないの?」
「それはそうだけど、なんかヤダじゃん」
「言われてみればそうね」
まだお互いによく知らない間柄にある相手との会話と言えば、食べ物の話題が無難であると知ってはいたが、まさか紙の話しでここまで盛り上が……っているのかはともかくとして、話しが続くとは思わなかった。確かに食べ物と同じく生活必需品だし、そりゃお互いに語ることはあるか。
「そんなわけだから、学校のトイレには行かないほうがいいよ。子供たちのお勉強した紙がそのまま積まれてるからね」
「お、おけ……」
こうやって呑気におトイレの話しをしていたわけだが、この時はまだ自分が置かれている状況を真に理解しておらず、ことの重大さを自覚していなかった。ただただ、ミアと会話が弾んで嬉しさや仲間意識を覚えている自分がいた。




