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 各自背伸びなどをして座りっぱなしだった身体をほぐしている中、顔を洗うために川姫のお仲間であろう湖の前に跪いて水面を覗き込むと、唇には微かな傷跡が残っており……完全に痕となってマーキングされてしまっていた。


 ソレに関しましては頭を振って忘れることにしまして。なんかおかしい気がする。


 水面に映り込むのは一見してなんの変哲もない疲れた顔ではあったものの、泥棒猫の真似をしてニンマリと笑みを作ってみると、どこか歯がおかしいような気がしたのだ。主に犬歯が鋭利に発達しており、その名の通りに少しばかり犬のソレになっているようにも見えた。


 とはいえ犬歯は元から鋭いが故に犬歯と呼ばれるもの。だからこんなものであると自分を納得させ、虫歯の恐怖へと意識を向ける。この世界で虫歯に蝕まれるイコール抜歯で、差し歯とかもないだろうし。――あぁ怖ぇよ不安だよ。


 たしか昔の人は小枝の先を細かく割いて磨いてたんだっけ。でも歯と歯の隙間がヤバいんだよなぁ……あそうだ、食後は細い糸を通して口をゆすごう! あとあれだ、ガムみたいに枝を噛んで唾液の分泌を促し……それもあってソフィアはいつも乳香を噛んでるのかもしれない。


 川姫にお願いしたら掃除してくれるかな? ウォッシング・ザ・ヨウジョ! 頼みてぇ……けど、絶対アウトだよなぁ色々と。いやでもセウトか? まぁ気を付けよ。


 痛みや欠けも無いのでひとまず安心ではあるが、歯は一生物。一番の心配事はとにかく歯だった。こればかりは気を付けるしかない。もしも額にツノでも生え始めていたら歯の健康など考えている余裕は無かった。しかし身体のどこを見ても変わらず――と言いたいところではあるが、若干ではあるものの筋肉が発達してきていて自分でも少々驚いていた。


 魔獣のヨダレや血液が肉体に混入して徐々に走れるように……いや環境に適応して筋肉が育っているだけ、と思いたい。過酷なのかマイペースなのかはさておき、逃亡生活を送るに連れて無駄肉が削ぎ落ち、筋肉の存在が浮き彫りになっているのだろう。


 別に太っていたわけではないけども、自分の腹が割れてるのは初めて見た。道理で身軽なわけだ。やけに腹が減るのも代謝が良くなったせいかもしれない。瞳の色が黒から赤黒になってる気も……したが、まぁ光の加減でそう見えるだけだろう。微かにだし、ウン。黒目でもブラウンがかってる人も多いしそれだな。


 ――俺は、ヒトではなくなってきたのかもしれない。元から人でなしの社会不適合者ではあったが、カラダの奥深くから込み上げてくる異様なチカラを自覚し始めていた。


 頭では現実的な論理によって目を逸らそうとしている反面、ソレはあちらの現世で溜まり積もった鬱憤、抑圧された感情と混ざり合っていて判断が付かないものの、今までとは異なる異物が混入しているのを非感覚的な知覚、つまり直感的に察し始めていた。


 今朝はスッキリとしているのでそうでもないにしても、心の中の獣がチカラを強め、理知の檻を喰い破ろうとしているのが感じられる。誤魔化しきれない違和感によって徐々に意識が蝕まれ、凶悪で非道で残酷で容赦のない、そんな悪魔みたいな存在が己の人格の中に芽生えつつあるのを実感していた。


 しかし忘れるわけにはいかない。俺は純情でありたい。欲望には呑み込まれたくない。もし超人的な力を得たとしても俺は人でありたい。蹂躙跋扈するような獣には堕ちたくない。


 自らの身に訪れつつある変化から目を逸らし、んなワケねぇだろと否定する。くぉわぃし。筋トレでもしてイケメンになればそりゃ自己肯定感も上がるだろうけども、肉体的な変化がそこまで精神に影響を与えるものかと。


 ――などと水面に移る自分の顔を眺めながら考え事をしていると、


(おいトンチキ、聞いておるのか?)


 ずっと話し掛けていたのだろうか、今更ながら川姫の声に気付いたのだった。が、時すでに遅し。


「おい聞いとるのかボンクラ! とんま! あんぽんたん! ヘタレ!」


 無視されているとでも思ったのだろうか、身体の内に響き渡っていた声が急に外界から聞こえ、おかんむりな叫びを何度も上げると同時に、水の触手でべちべちっと往復ビンタしてくるものだからフザケルナ。


 ロクに考え事もできやしねぇ……。


「もぉよいッ! このっ、おたんこなすぅ~!」


 真顔でぶたれながら相手してやろうかとした直後、横殴りの一撃に揺らぎ傾いていく視界。暴力幼女は、強かった。


 隣を見るとほっぺを膨らませたチビが両手を腰にぷんすかしており、構ってくれないとご機嫌斜めになるメンドクサイ幼女であると知った。普段は一言も喋らず静かにしているクセに。


 正直、男を殴り倒すその力に目を丸くしてしまった。乙女のように斜め座りをして、頬へと手を当てて。


 しかしこちらも負けるわけにはいかぬ。


「うっせぇなおいッ! 俺はボケナスじゃねぇよお陰様でなぁ!?」


「でもお主、惚け茄子ではないか。なにせなにせっ、見目麗しいおなごたちに囲まれとるものなぁ~?」


「時折ほうけてるのは、否定できない」


「おたんでも小茄子でもないし、おながなすじゃなっ」


「オナガザルみたいに言うなよ! お前それ分かって言ってるだろ!」


「はて?」


「まぁいいわ……。お前さ、人のことバカって言いたいだけだろ? 助かってるのは事実だけど性格悪いぞ? なんで人を小馬鹿にする語彙だけはそんなに豊富なんだよ」


「だって……」


 しかも古くせぇし。最後に入植された同郷は……いやそれよりも前に入ってきたヤカラの影響をみなが受けてる感じか。この星に罵倒語を広めた偉人だな。


 場所は限定的にしてもコスプレ趣味を広めた奴も居たみたいだし、なんかスゲーっすわ。俺なんかなんも残してねぇよ。あ、でもある種の無菌とすれば文化的保全にも繋がって、この星の習俗を研究する民俗学者からすれば喜ばしいことではあるか。


「だってだって……」


「あうん、だって?」


「ニンゲンって、言い争ってるのに次の日は仲良しだから……」


 今度は声色を急降下させてしょぼーんと語る川姫。


 喧嘩するほど仲が良いってやつか……。あ、今コイツから逃げたらどうなるんだろ? 置いてきぼりにしたら解放されるのかな。改めて見てもチンチクリンにすぎる。


「そんなの真似しなくてもいいから! 意識的にするもんじゃないから! 悪いけどそうやって馴れ合ってるの嫌いなんだよね、なんていうか、仲の良い自分たちに酔ってるだけじゃん。みたいな」


「なら妾はどうすれば良いのじゃ……」


「それしか知らないの?」


「妾が妾として別れる前のわらわ――水辺に訪れるのは動物たち。ヒトを見たことも、話したことも殆どない。河原で野営をしていた二人の会話しかまともに聞いたことがない。嫌味を言い合って、その次には笑い合っていた。羨ましかったのじゃ……」


 そうかそうか、と目を落としている透明な水塊を撫でてやる。水筒サイズの頭に改めて触れてみると、水風船のような弾力の中に細やかな髪の毛の感触も感じられ、脳が混乱するような不思議な触り心地をしていた。


 よく水属性といえば安直にも水色をしているイラストも多いが、本当に水の色――無色透明でヒトの形をした水の塊としか言いようがない、見た目と触り心地だった。


「いま思ったけどさ、この水も別の水系の川姫として、なんで他の仲間たちは姿を現さないの? 恥ずかしがり屋なの?」


「人間は用もないのに人前に出るのか? お主もそうじゃが、目立ちたがりじゃのぉ~」


 別に目立ちたくて目立ってるわけじゃねぇよ! という不満をグッと堪えて話しを進める。


 こちらを見上げた川姫の目元は意地悪にも弧を描き、短く切り揃えられた前髪の下で麻呂眉と共に垂れ下がっていた。魚の尾みたいになっている後ろ髪も上機嫌にくねらせているし、もうヨシヨシしなくても良さそうだ。


「質問を変える。なぜあの時、お前の姿が見えたのか」


「飲んだからじゃ」


「でもみんな水は飲んでるじゃん」


「それは許しを与えた人間用の水。特別に分け与えてやっている意識無き妾たちのカラダ。人間はみな人工的な手段を用いて水を引き、容器に汲み、あるいは煮沸や濾過を経て人間専用の飲み水を作る。故に妾たちも察せられる。直接飲むのは野生動物のみよ」


「どういうコト?」


「頂きますも言わずに勝手に飲んだから、心構えも無しに妾も取り込まれてしもうたのじゃ。敬意が足りぬのだ。普通ならば愛らしい動物らと共に世を見て回り、経験を積んだら共に天へと昇るというのに」


 その身をフィギュアのように掴み上げ、薄っすらと見えるワンピースの布がちゃんと捲れることに感心している間にも、幼気なイカ腹を観察されるのも構わずに川姫は続けた。


「妾の水は活力の水。動植物に恵みを与え、内から見守る。穢れた人間社会など見たくもないわッ」


「だから駄々っ子にも地団駄踏んでわーきゃー言ったってんかよ……」


 人間とは異なりおへそが見当たらないぷにっ腹に触ろうとした指を小さな手で払い除け、それだけ言い捨ててバシャッと姿を崩したかと思えば、手のひらの中へと速やかに吸収されていく水。


 確かに人間社会は平穏ではない。野生動物たちとは比べ物にならぬほど刺激が多いとも言える。自然に生きる精霊からしてみれば、精神的な許容量を超えていて目眩がしてしまうのかもしれない。


 それにしても水とは穢れを流すものではないのか。むしろ穢れを呼び込んで蓄積していく一方な気もする。が、水とは自由に流れゆくが故に彼方まで穢れを運び去ってくれるもの。流れ無きこの身に留まっているから穢れも溜まっていく一方と。


 水も滞れば腐る。人間の肉体をろ過装置のようにも考えているようだが、川姫が抱えた穢れ・腐敗を我が肉体に押し付けているとして、だからいつも川姫自身はキレイなままっと。


 といって出ていってくれるわけもなく。禊ぎ祓いでヒトガタにケガレを移して水に流すという風習があったが、自分自身がそのヒトガタになってケガレの塊と化しつつあるのではないかと思ったら身震いしてしまった。

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