014
いつ追っ手が来るかも分からず、いち早く身体を休めなければ身が持たない。今は歩みを止めている訳にはいかない――。
しかし、冷酷な現実はこちらの都合など考えてくれるわけもなく、食料を眼の前にして魔獣が退くわけが無かった。狙いは確実に人間の肉であり、獲物として認識され狙われているのだ。
もしかしたら、野生の勘かなにかで弱っている状態にあるところを狙ったのかもしれない。確かに襲うならば今が絶好のチャンスではある。言うまでもなく、こちらからしたら疲労困憊の状態にある最悪のタイミング。そんな時に訳の分からない魔獣とやらに遭遇するだなんて悪運だった。
「お前の相手なんかしているヒマは無いのに……はやく逃げるか殺されるかしてよッ!」
黒光りする鋭利な爪を地面に食い込ませながら、様子を窺うように首を落として泥棒猫の姿を見定め、周囲に影が差すと同時に蹴り出して生娘の柔肌に喰らい付こうとする魔獣。
しかし、加速された薙刀の刃すらをも易々と躱す泥棒猫からしてみれば、猪突猛進に向かってくる狂牙を避けることは造作も無いことであった。
ナイフを振るうと同時に後方へと飛び退き、両足と片手で自身の体重を受け止めるようにしてふわりと着地すると、空を噛んだ前方へとすぐさま蹴り出して急速に距離を詰め、ここぞとばかりに爪を黒光らせた片脚をナイフで受け止めながら、魔獣の首元を掴み捕らえる泥棒猫。それは一瞬の出来事であった。
魔獣の肉球に貫通し、柔肉を引き裂こうとしていた爪の流れを鍔で受け止めたナイフを素早く抜き取ると、ジタバタと顔を振りながら必死で噛み付こうとしている魔獣の首を刃で掻っ切り、すべての動きは止まった。
殺った、のか……?
天が勝利を称えるかのように煌々とした月明かりが差し込み、泥棒猫とその足元に横たわる黒い死骸を照らし出す。
臥したバケモノの躰から伸びる幾本もの太い毛は未だ蠢き続け、泥棒猫が手にしているナイフにも血染めのソレが付着していたが、しばらくすると刃から溶け落ちるようにしてボトボトと地面に落ちていき、融解して半液体化した泥炭のようなソレの染み跡が足元の土に浮かんでいった。
生命が刈り取られたばかりの光景が鮮明に映し出される一方で、こちらの周りは未だ影の中にあり、退治してもらえて安堵すると同時に心細さにも似た、暗闇を怖がる子供みたいな恐怖心を身体に感じていた。
それは夜の闇が身体に染み込んでくるかのようであり、網膜に映し出されるネバネバと溶けたソレが視覚情報に載せられて脳裏を染め上げるかのようでもあった。今すぐにでも泥棒猫の隣に行って無事を確かめ合い、共に肩を撫で下ろして言葉を交わしたい。
「新人クンッ! 後ろッ!」
硬直していた脚を動かして一歩前に踏み出し、森に響き渡る叫び声に身体を振り向かせた時には、もう遅かった。
茂みの中から飛び出してきた黒い体躯は大きく牙を剥いて顔を傾かせており、こちらの首元を狙って一直線に飛び掛かって来ていた。
その動きはやけに遅く感じられたものの、身動き一つすること叶わず、ただ徐々に近付いてくる大きな口が遠近感で更に大きく、また大きくなっていくのを眺めているのみ。
今にも噛み付かれる、そう覚悟を決めた瞬間、意識せずに身体は手のひらをかざして、身を護る体勢を咄嗟に取ってくれていた。
――が、あと数センチという距離まで牙が迫って来ていたというのに、来ない。何も感じず、痛みも無い。喜ぶべきなのだろうが、来るべきものが来ず、呆気に取られてしまった。
鋭利な牙でガブガブされてない、だと……。あえ……?
瞑っていた瞼を開き、恐る恐る周囲を見渡してみると、魔獣はこちらの身体を横切って背後に転がっており、四肢を暴れさせて藻掻いていた。
ヘドロみたいな魔獣の唾液とは異なり、月明かりを美しく反射させている透明らしき液体――それこそ水のような液体が魔獣の顔に張り付いていて、息が出来ずに藻掻き苦しんでいる様子。
幾つもの気泡が水中で上がり、また消えていくその光景を呆然と眺めていると、
「危ないではないかっ! 喰われてしもうたらワラワの大切なカラダが失せてしまうんじゃぞっ!」
聞こえてきたのは、あの時の声だった。どこからか鼓膜を揺さ振るその声を追って周囲を探すが、見当たらない。
「ここじゃっ! 頑張っているワラワを見よっ!」
どうやら魔獣の方から聞こえてきているらしく、よくよく観察してみると、主に魔獣の口元と鼻を包み込むようにしてウネウネと動いている、その謎の液体からぶちゃくちゃと聞こえてくる。らしい。
「ま、こんなもんじゃろ」
そうして地上に居るというのに魔獣が溺死すると、気色の悪いミミズだらけの顔に張り付いていた液体はサラリと地面に広がり、水溜りから生えるようにして幼女の姿が現れたのであった。
その身体の大きさは、おそらくあの時に飲んだ水の量と同一程度。つまり、水筒よりも二回りほど大きい程度であった。とはいえ、ちんまい事には変わりない。幼女は、少し大きめの妖精サイズになっていた。
「いやお前、どこから出てきた?」
「お主の手のひらからじゃっ」
「あー、なるほどね。……って! 俺の身体から出て来れるんなら、吐き出せとか返せとか言わないで勝手に取り返せば良かったじゃん」
「はて?」
「いや、はて? じゃなくてさ。あんなに駄々こねるくらいなら、さっさと自分から出て行けば良かったのでは? と」
「ワラワは分霊。記憶は、ナイ」
「いや分霊なら少しくらいはあるだろと!」
「しかたないのぉ~……。一度取り込まれて一体となってしまったら、本体とは魂が分離してしまって、もう二度と元の一つとはなれぬのじゃ」
危険が去り、その幼い姿をひと目見た瞬間、張り詰めていた気は一気に抜けて、久し振りに友人と再開した時のような気持ちになってしまった。これぞまさに、水を得た魚。安堵感が凄まじかった。
「ま、川の流れとは逆じゃなっ」
などと語っている川姫を横目に木の葉を取って、ナイフに付着したベトベトな泥炭みたいなモノを必死で拭き取っている泥棒猫。目配せすると(ひとまず喋ってて)といった顔を向けられたのでそれに頷き、今は少しだけ幼女の相手をすることにした。
「って事はつまり、もしも飲み込まれてしまったとしたら、速やかに吐き出してもらわないと手遅れになるってこと?」
「うむ。まぁワラワたちはそうして分離し、増えていくのだがな。どうやらソナタが出会った方のワラワは、それを忘れてしまったアホだったらしい」
「なら自分からわざわざ魔獣に喰われに行ったのって……あ、察し。お前も相当なアホなのね……」
「バカ言うな! 先程のはしかたなくじゃ! た・す・け・て・や・った・の・じゃっ」
「いやごめん、アホって俺言った。バカとは言ってないから」
「バカタレ! ワラワを飲み込んだモノがすぐに息耐えれば、口の中に手を突っ込んで自力で取り戻せるから良いと言っておろうっ!」
「そんなの初耳なんだけど。あぁー、記憶の流れが未来から過去にあるのね」
「そ、そうじゃ。テンサイだからなっ」
「てかさ、色、変わってない? 髪の毛どうしたのそれ」
川辺で出会った際は明るい水色をしていたというのに、目の前に立つ半透明の小人の髪は、薄ぼんやりとした月明かりの色に変化していた。
「当たり前じゃろう。お主は水というものを見たことが無いのか? 晴天の下では空色となり、夕暮れ時には夕焼け色、夜は漆黒となる。それゆえ、もし草木に囲まれたら濃緑ともなろう。周囲に合わせて移り変わるのが水じゃ」
「あぁ納得、透明なのね」
「うむ、そうじゃ。これが恵みを与える色。褒めて遣わせ」
「でもそうやって地面に立ってると蒸発したり土に吸収されちゃうんじゃないの? あー、地面の雑草に恵みをね。把握」
「ハッ…!」
ピタリと身動きを止めて目を丸くさせる幼女。どうやら自らが置かれている現実を忘れてしまっていたらしい。
「も、戻らなくてはならぬっ……! お主、手を出せ! 今すぐにじゃッ!」
「もしかして、また俺の中に入るつもりだったり……」
「当たり前じゃ! お主のその肉の器は、ワラワの身を守る……そう、少ない少ないワラワの身を保管するための容器! ほら早く手を出せ!」
「えぇ……だってさ、あのさ、さっきさ」
「なんじゃ! はよせい!」
「魔獣の口元にベッタリと張り付いて、喉の奥にまで手を突っ込んでさ、飲み込まれた分を取り戻したんでしょ? って事は、お前のその身体にはさっきの魔獣のヨダレとか胃液とかが混入しているわけで……。ごめんだけど、沐浴くらいはしてくんない? 綺麗になってから頼む」
「う、薄気味悪いコトを言うなっ……! ぶちゃくちゃ言われても知らん! もう良いわヘタレ!」
水の身体が震えて幼女の姿が歪んだかと思いきや、魔獣のヨダレが混入した液体の塊はこちらの腕へと飛び掛かり、手の平から皮膚の内部へと速やかに浸透していったのだった。
うっわ、マジかよ気色ワル……。
身震いしたのは言うまでもない。
「精霊さんの加護を受けてたなんて、スゴイねキミっ!」
「いやこれ多分、加護じゃなくて、保管容器として使われてるだけだと思う」
凹の胃袋に凸の水を入れたら、ミニサイズの幼女が誕生しました。
「てか魔獣ってなんなの! あんなのが徘徊してるってコト……?」
「まぁそうだね。あんまりゆっくりしてると次が来るかもだし、夜が深まると大噛みも出るから急ごうっ」
魔獣がなんなのかは知らないが、また食料候補になるのだけは御免だ。魔獣と川姫のおかげで疲れからは目が逸れたものの、それでも物理的に脚が重いのには変わりなかった。
色々なことが起き過ぎて整理が追い付かない。今はなにも考えずに先を急ぐほか無かった。




