013
移動優先でとにかくアジトへと辿り着くことを目的に歩みを進めて行くと、段々と日が陰ってあたりは薄暗くなり始め、上空に浮かぶ橙色に染まった雲は鮮烈な赤へと移り変わっていった。
生命最期の煌めきを彷彿とさせる眩い夕陽が木々の奥に落ちると、世界が群青色に覆い尽くされていき、昼間は微かに見えていた大小三つの月は明かりを放ち始め、先を行く泥棒猫の頭や小さな背中、特に長い尻尾が次第に周囲と同化して、薄闇の景色と判別し難くなっていく。そう、誰そ彼の時刻に入ったのだ。
遠くから聞こえ始めたヒョウッ、ヒョウッ……という得体の知れない不思議な鳴き声はどこか寂しげで、伝説上の生き物、あの禍々しいキメラの姿を彷彿とさせられた。そう、まさに鵺のようだった。
なんとか目を凝らせば周囲を見渡せるものの、これだけ暗くなってきても明かりを灯さないということは、きっとそういった道具を持ち合わせてはいないのか、それとも明かりを点けると目立ってしまうからか、あるいはそもそもが不要で夜目が効くのかもしれない。ネコだし。
それにしてもなんだか肌寒い。実際に気温が下がり始めたのもあるだろうが、今日一日、あの応接間で目が醒めてからまだ何も食べていない。これだけ身体を動かしているというのに身体の芯が凍え始めていて、少しでも気を抜くと足元がふらついてしまう。
「これはやばいね……」
「ん、なにが?」
完全に陽が落ちる直前の色。ほとんど黒にも見えるダークな留紺色の髪を揺らしながら、先程よりも足早に歩を進め、立ち止まる事もなく先を急ぐ泥棒猫。
あの時みたいに顔を前に突き出して周囲の様子を窺い――否、前方には何も無いというのに小枝の下を潜るかのように軽く前傾姿勢にまでなって、限界までピンっと耳を立たせている。ゆらゆらと左右に揺れていた尻尾には緊張が走っており、毛の短いそれを真っ直ぐ下へと伸ばしきっていた。
見るからになにかを警戒している様子だが、周囲を見渡してみても木々の合間に薄闇が広がっているのみで、なにも見えず、またなにも耳には聞こえてこない。
今にも走り出しそうな勢いで進んでいく背中を必死で追い掛けていると、ふとした瞬間にピタリと立ち止まり、前傾姿勢のまま地面に手を付けたかと思った矢先――薄闇を切り裂く一筋の白い軌跡が現れ、土を抉る音が前方から聞こえるのだった。
「こんな時にっ……!」
目を凝らして見てみると、闇と同化し始めている小柄な人影の手には、先程軌跡を描いたらしき大振りのナイフが握られており、木々の隙間から差し込む月明かりを銀の刃に反射させていた。
片手を地面に付けたまま、逆手持ちにしたナイフを顔の前で構えている泥棒猫の先には、周囲よりも一層暗い、漆黒の塊があった。
それは大型犬ほどの大きさをしており、もやもやとした闇の中から血生臭い吐息の音が聞こえてくる。
「キミは下がっててッ!」
あまりにも突然の出来事に、脚はたじろぐ事もせずにただ棒立ちとなってしまっていて、気を取り戻すまでにワンテンポ掛かってしまった。
未だ状況は理解できないものの、鬼気迫るその声に意識はハッとなり、悠長に考えていたら危険であることだけは本能的に察せられた。泥棒猫の姿から目を逸らさずにゆっくりと後退していき、様子を窺う。
なんだアレは……。
雲間に表れた月が周囲を照らし、また雲に隠れていく。短い時間だけ月明かりに照らされたその瞬間、目にしたのは、「ふうぅぅッ……!」と威嚇の唸りを上げながら尻尾を立たせている泥棒猫のお尻。
そして、その先でこちらを見定めている真っ黒なオオカミの姿――いや違う。アレは決してオオカミではない。そんな生易しい可愛げのある生き物ではない。
ソレは確かにオオカミと同等かそれよりも少し大きい程度の体躯をしていて、脚も四足で立っているものの、一見してオオカミのようなシルエットを浮かばせているソレに焦点を合わせてみると、全身の毛がミミズのようにわなわなと蠢いており、実際に細長い黒ミミズが数千数万と体表から生え、躰を覆っている様子だった。それはこの世ならざるモノ。バケモノであった。
「来いッ! 魔獣のクセに怯えるなッ!」
泥棒猫が”魔獣”と呼んだソレは、寄生するかの如く全身を覆っているドス黒い蟲に眼まで隠されてしまっているらしく、鬱陶しそうに顔を振って片眼を覗かせると、異様に裂けている口をグルルル……と震わせながら口角を引きつらせるようにして牙を剥き、挑発する声に反応を示してみせるのだった。
白目の無いその眼は、毒々しい血色に染まっていた。実際に眼球内で出血でもしているのかもしれない。大きな口を開き、牙の隙間からヘドロのような闇色の液体を地面に滴らせると、月明かりが雲に閉ざされるのに合わせて地面を蹴り、泥棒猫へと襲い掛かるバケモノ。
「チィッ……!」
再び影の塊と化した魔獣の猛攻を身軽に避けつつ、ナイフを振るって前方の闇を切り裂くが、しかし、唯一視認が出来る牙と牙との隙間で空振りしてしまったらしく、悔しげな声を上げる泥棒猫。
どうやら横払いして無慈悲にも魔獣の眼を狙ったようだが反れてしまい、口元が大きく裂けているが為か、どこにも当たらずに真っ赤な舌の上で刃が素通りしてしまったらしい。
ある意味では奇跡的にも思えるが、そのバケモノは咄嗟に顎を上げて眼を護り、あろうことか横からやって来るナイフに噛み付こうとさえしたのだ。
月が隠れると人間の眼にはもう殆ど何も見えなくなってしまうほど周囲が暗くなってきたというのに、やはり泥棒猫には視えているらしく、時たま宙に飛び上がって回避しながら刃を振るっており、まるで闇夜の中で舞っているようであった。
月明かりが差し込むと泥棒猫の瞳は一瞬だけ緑に光り、銀と赤の流線が月夜の中で飛び交う。
その赤い点光は魔獣の眼が月明かりを反射したものらしく、毒々しい反射光を眺めていると血液を穢れとして忌み嫌う本能が自ずと反応し、言葉には出来ない背筋を撫でるような危機感に直面させられてしまった。
魔獣と顔の高さを合わせるようにして地面に身体を伏せ、牙を突き出すが如く逆手のナイフを構える泥棒猫と、飛び掛かる直前にのみ足音を立てる漆黒の獣。
部分的に月に照らされた魔獣の尻尾は太く伸びていて、それもまたミミズの集合体によって形作られていた。そのおぞましい姿を目の当たりにしてしまった瞬間、ゾワゾワとした嫌な感覚が背筋を昇り、意図せず脚が震えてしまう。まるで穢れの塊のように感じられた。