古典落語「そばの殿様」
古典落語「そばの殿様」
台本化:霧夜シオン
所要時間:約25分
必要演者数:3名
(0:0:3)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
殿様:江戸時代のどこかの大名。
上流階級のご多分に漏れず、下々の事など分からない。
ご親類の屋敷で見た蕎麦の手打ちを見て、自分でもできると思い込
んでみずから蕎麦を打って家臣に振舞おうとする。
三太夫:殿様の家来その1。
殿様が打ってくださった蕎麦…のようなものを食してえらい目に
。
本田:殿様の家来その2。
殿様が打ってくださった蕎麦…のようなものを食してえらい目に。
中村:殿様の家来その3。
殿様が打ってくださった蕎麦…のようなものを食してえらい目に。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
殿様:
本田・三太夫:
中村・語り:
※枕はどちらかが適宜兼ねてください。
枕:大名と言えば贅沢三昧のように考えますがそうでは無いようです。
殿様は下々のことに通じていない。それはお傍の者達が伝えないよう
うにしていたからであります。
『「ト」の字に一の引きようで、上になったり下になったり』。
トの字の下に一を書くと『上』という字になります。
これは上のことは分かるが、下のことが全く分からない。
一の字を上の方へ持っていくと『下』という字になる。
すると今度は上のことが分からない。
『中』の字は口に一本縦棒が抜けていますから、上下に口が通じると
言いますが、これはこじつけです。
下の者が教えないと知りたくなるものです。
語り:ある日、ご親類の屋敷の園遊会に招かれます。
もちろんお大名でございますから、我々一般人がお客を呼んだのと
違って、親子丼かなんか一つ取ってそれでおしまいてわけではござ
いません。
山海の珍味などのもてなしをいろいろ受けまして、その上に蕎麦を
打つのをご覧にいれたいという事で、殿様は興味津々でそれを眺め
ます。
蕎麦はご馳走ではございませんが、いわば蕎麦の手打ちショーとで
も言うべきものを御前にて披露したわけであります。
お屋敷へ帰る道すがら、殿様はさっき見た光景を思いだします。
殿様:うぅむ、蕎麦というものは初めから長いものだと思うておったが、
ああやってこしらえるものであったか、いや、感心したのう。
そうじゃ…!
これこれ、詰め合いの者一同、これへいでよ。
本田:ははっ!
【声を落として】
えぇ…また人相を見るとか言い出すんじゃないか…?
中村:【声を落として】
我が殿は口が悪うござるで、人相見はご免こうむりたい…。
本田:【声を落として】
その事よ。
ああもあけすけに言われたのでは、我らも浮かぶ瀬がない。
中村:恐れながら申し上げます。
詰め合いの者一同、これに控えましてございます。
殿様:うむ、その方たちは蕎麦はどうじゃ?
本田:は…?
中村:そ、蕎麦にございまするか?
殿様:そうじゃ。
蕎麦は好きか嫌いか、遠慮のう申してみよ。
本田:はっ!
【声を落として】
おい、どうやら今日は少し風向きが違うようだぞ。
中村:蕎麦が好きか嫌いかとおおせられたな。
拙者はもう大好物でござる。
本田:うむ、拙者もだ。
して、田中、木村、伊藤、鈴木、山崎、お主らは…?
中村:なるほど、みな好きか。
柴田、お主は?
…なに?できることならば天ぷらそばが良い?
贅沢な事を申しておるぞ。
本田:殿、恐れながら申し上げます。
一同みな、大好物のよしにござります。
殿様:うむ、左様か。
しからばその方たちに、今日は蕎麦を馳走してとらすぞ。
本田:!そ、それはありがたき幸せに存じます。
中村:されど殿、いずこの町の町人を呼び寄せて蕎麦を打たせまするの
で?
殿様:いやいや、町人に申しつけるには及ばん。
予が自身で蕎麦を打ってとらすぞ。
本田:!?
お、恐れながら申し上げます。
殿おん自ら蕎麦をお打ち遊ばされるとおおせられまするか?
中村:これは恐れ入りまする事で。
手前どもは蕎麦を打ったことはございませぬが、
殿におかれましてはご存知であられましたか。
殿様:うむ? その方たちは蕎麦の打ち方を知らぬと申すか。
不憫な者どもじゃ。
語り:別に蕎麦が打てないからって不憫な事はないわけで。
家臣たちは互いに顔を見合い、ざわめきます。
本田:しかし、殿が蕎麦をお打ちになるというのは初めて聞いたな。
中村:なに、殿のようなお立場にあられる方は、元来蕎麦を打つべきも
のである。
本田:それはどういうわけじゃ?
中村:昔は陣中で勝ち蕎麦というものを打ったものだ。
勝ち戦の折には殿様みずからが打ってこれを家臣一同に振舞うと
いう例がある。
本田:ほう、それは初耳。
中村:御前みずから蕎麦をお打ちになるので、未だ看板にも御前蕎麦と
いうのがござる。
本田:ははは…御前蕎麦のいわれはちと怪しいのう。
中村:怪しくはない。
殿様:これこれ、蕎麦の素をもて。
本田:はっ?
中村:素、と申しますと?
殿様:分からん奴じゃ。
あぁー…なんじゃ、何と申すか…、そうじゃ、粉である。
本田:蕎麦粉にござりまするか?
殿様:あぁそうじゃ、蕎麦粉と申すか。
それだけではならぬ。
容れ物がのうてはいかん。
中村:木鉢にございましょうや?
殿様:いや、木鉢では足るまい。
大きい方がよい。
厩へ行って、馬たらいを持って参れ。
語り:馬たらいに入れられた日には一大事です。
動物に使っていたものを人間に使っても良いと思っているあたりが
、殿様の世間知らずなところで。
殿様:これ、はよう持って参れ。
本田:は、ははっ…。
【つぶやくように】
ええ…いくら何でも馬たらいはいかんのではないか…?
殿様:あとは蕎麦粉をこねたものをを乗せる板がのうてはいかん。
そうじゃ、玄関の杉戸が良い。
あれを一枚外して参れ。
中村:ははっ、ただちに!
殿様:それから延ばすのに棒がいるゆえ、辻番の六尺棒をもって参れ。
本田:は、ははっ!
【つぶやく】
えぇ…本当に打ち方を存じておられるのか…?
殿様:さて、身支度をいたすか。
語り:辻番の六尺棒のなんてのは、ドブの中をかき回したりします。
こんなものでこねた蕎麦粉を伸ばされた日には、大変なことになる
わけで。
それでも殿様、たすきを十字に掛け、袴の股立ちを高々に取り上げ
て進み出でましたる所は、さすがに威風あたりを払うばかりであり
ます。
殿様:ふんっ、ふんっ…、
これこれ、少々粉を入れよ。
本田:ははっ。
これでいかがでしょうや?
殿様:うむ、ふんっ、ふんっ…、
これ、水を入れよ。
中村:はっ。
…このくらいでよろしいでしょうや?
殿様:うむ、ふんっ、ふんっ…、ああ、ちとこれは柔らかい。
粉を入れよ。
本田:は、ははっ。
…このくらいでは?
殿様:うむ、ふんっ…ふんっ…ふんっ…、
うーむ、これはちと硬い。
これ、水を入れよ。
中村:は、はっ。
…いかがでございましょう?
殿様:うむ。
ふんっ…ふんっ…、
あ、また柔らかい。
もそっと粉を入れよ。
語り:水じゃ、粉じゃ、水じゃ、粉じゃ、と左右から家来がどんどん足し
ているうちに、馬たらいが山盛りになってしまった。
さあこれから麺棒へ巻こうというんですが、そこは素人でつなぎを
知らない。
うどん粉を入れずに蕎麦粉だけでやったもんだから、
いくらやったってすぐに切れてしまって全然伸びない。
殿様:くっ、くっ、このっ…!
な、なぜじゃ、向こうで見た時はあんなに伸びておったというに…
!!
本田:と、殿…。
【声を落としてつぶやく】
あ、あんなにあぶら汗をポタポタポタポタ流して…!
中村:【声を落としてつぶやく】
水っ鼻が…うわ、よだれが…!
あぁあぁ、みんな中に練り込まれて…あ、あれを食する羽目にな
るのか…!?
と、殿…恐れながらーー
殿様:えぇい控えよッ!
語り:かくしてどうにかこうにかやっと麺棒へ巻きまして、
抜こうと思うとくっついてしまって抜けない。
無理にやったものだからくしゃくしゃになってしまい、
包丁でこれを細かく切ったがさあ大変、厚いところは下川うどんの
お化けみたいなの、細いところはそうめんの如く、長いので一寸か
二寸、もうわけわからん状態であります。
殿様:よし、次は茹でねばならん。
湯は沸かしておるな?
本田:ははっ、あれに用意いたさせております。
殿様:しからばその方、蕎麦を茹で上げるのじゃ。
中村:は、ははぁっ。
【二拍】
【声を落としてつぶやく】
う、うう…きちんと茹で上がってるのかこれ…?
もう少し茹でてみるか…?
殿様:これこれ、もう上げても良い。
本田:え…されど殿、いま少し早いかと存じまする。
中村:それがしも左様に思いまする。
今しばらくは…
殿様:いや、家来が食すのじゃから良い。
語り:いくら家来が食するとはいえ、生茹ではいただけない。
おつゆはさすがに作れませんから、お台所の方へ申しつけます。
材料がよろしいから結構なお下地ができる。
家来たちは広間の両側にずーーーっと居流れる。
その前にお膳が次々と置かれる。
そして衣服をお召し替えた殿様がピタッとお席に着かれます。
殿様:あぁ一同の者、今日は予の馳走である。
遠慮いたさず、たんと食すが良い。
本田:は、ははっ、ありがたく頂戴つかまつります…。
中村:【声を落としてつぶやく】
う、うぅぅ…なんじゃこれは…!
し、しかし、殿が正面で我らが食すのを今かと見てござらっしゃ
る…!
あ…薬味を少々いただきたい。
本田:うむ。
このネギというものは外せませぬな。
湯豆腐や納豆、そして蕎麦にはやはりこれを入れねば。
中村:その事でござる。
お、わさびがありますな。
しかも本場ものでござるぞ。
いや感心だ。
本田:ほう、わさびにも本場がござるのか?
中村:うむ、本場のわさびと申すものは、このつゆの中にいれてこう、
かき回さんと散り申さぬ。
場違いなわさびは入れるとすぐにばさっと散ってしま
うのでござる。
それゆえ、これは本場ものと申したので。
本場にそうならすまないよと。
本田:…洒落でござるか?
しかし、たいそう入れますな。
中村:かような場合には薬味で少しでも誤魔化さねば。
いくらか役に立つかもしれぬ。
~~~むむむ、わさび…辛いのう。
本田:だいぶ涙が出ておりますな。
中村:うむ…わさびつねって人の痛さを知ると、
こういう事であろう。
本田:貴公は洒落ばかり申されるのう。
ッしかし…これは……。
中村:う、うむ…蕎麦だか蕎麦がきだか分からぬ…。
本田:固まっておる…(ずるずるっ)
【しばらく噛んでいる】
…うっ。
中村:い、いかがされた?
本田:…半熟だ。
中から粉が出てきたぞ。
中村:…半熟の方が、薬になる。
本田:馬鹿を申されるな。卵ではない。
殿様:どうだ、一同。
中村:ははっ。
まことに見事な出来ばえにござります。
殿のお手の内、恐れ入りました。
殿様:おぉ、そうであろう。
予が骨を折ってこしらえたのだからな。
これ金弥、代わりをつかわせ。
語り:一つだけならまだしも、残りが自分の所へ廻ってきてはかなわんと
言うので、どんと三つほどものせられた。
こうなると、もはや蕎麦もどきの押し付け合いである。
本田:【声を落としてつぶやく】
ぐぐぐ…金弥め、多くのせおって…。
し、しかし正面で殿が睨んでいる以上、食わぬわけには…。
中村:【声を落としてつぶやく】
い、いかん…もう、限界じゃ…。
殿様:む、これ金弥、田中の皿が空いたぞ、代わりをつかわせ。
おお、山崎も平らげたか。代わりをつかわしてやれ。
語り:平らげても代わり、平らげても代わり…、
途切れることなく続く蕎麦もどきのお代わり。
挙句にはもう入りきらず、天井を仰いだまま下を向けなくなる有様
。
殿様:これその方ども、いかがした?
本田:じ、じゅうにうぶっ、ん、頂戴をつかまつりました…。
中村:このままではぁっぶ、も、もはや、かがむ事ができませぬ…。
殿様:むぅ、見苦しい奴らじゃの。
よいよい、次の間に下がって休息いたせ。
本田:は、ははっ…。
中村:し、しからば、うぶっ、これにて、御免をこうむりまする…。
【二拍】
本田:な、中村殿、そ、その辺に、拙者の紙入れが見当たらぬかな…?
中村:ひ、人の紙入れが、見えるくらいなら、辺りを探っては、おらぬ
ぞ…。
本田:そ、そういう貴公は、何を探しておられる…。
中村:た、煙草入れじゃ…ん? 何かあるぞ…。
本田殿、貴公の紙入れは、これではないか…?
本田:お?おぉこれこれ、いや、かたじけない…。
中村:し、しかし…生茹での蕎麦をしたたか食したゆえ、
だ、だいぶ下腹がキリキリと…腹痛に堪えがたい。
ご一同、せ、拙者は、か、帰るゆえ、あとはよろしゅう頼む…。
下駄は…むむ、ど、どれがどれやらわからぬ…。
やむを得ぬ、もし取り違えておったら明日、取り替えるゆえ、
これにて…ッ!
本田:な、中村殿っ…!
うっ、い、いかん、拙者もは、腹が…ッ!!
語り:詰め合いの者一同、三々五々に家に帰るや否や、
腰の大小ほっぽり出して、はばかりへ飛び込みます。
こうなると繁盛するのは雪隠ばかり、
夜っぴてガッタンギッコンガッタンギッコン、
しまいには扉の蝶番が壊れて開けっ放しで出入りするという有様。
そうこうしているうちに夜が明け、一同顔が青ざめたままで出仕し
ます。
本田:柴田…、昨夜はだいぶ、通うたようであるの…。
拙者も二十六たび目に、夜がしらしら明けたわ…。
中山:拙者は三十一たび通うた…。
かかる思いをしたのは初めてでござる…。
三太夫:おのおの方はまだお若い…。
何度何度と回数を数えるだけまだ余裕があって、
実に羨ましいことじゃ。
拙者のようにかく老いてはとんといかん。
昨夜はたった一度じゃ…。
中山:一度!
ご老体、ただの一度で済んだのでござれば、至極ご壮健にござる。
三太夫:いや…、宵に入って今朝まで出られなんだ…。
城へ宿直したことはあるが、雪隠へ宿直したのは昨夜が初めてじ
ゃ…。
中山:…うん?
ご老体、何やら届きましたぞ。
三太夫:あぁ、届いたか…。
いや、家のものにおしめを持ってこさせたのじゃ。
語り:などと言い合っているうちに、殿様の居間から鈴がガラガラと鳴り
ます。
詰め合いの者一同うち揃い、殿様の御前へとまかり出でました。
殿様:おお来たか。
その方たちが蕎麦を好きであるゆえ、予は今朝早うから起きて、
蕎麦をこしらえたぞ。
さ、遠慮いたさず、たんと食すが良い!
本田:ぇッッッ!?
【半泣き】
っこ、これはまたお手回しのよろしいことで…。
中村:し、しかし、昨日の本日なれば、
幾分かお手慣れになられたのでは…?
殿様:うむぅ、予も左様思うたが、昨日よりは幾分不出来である。
本田:ぃッッ!!?
殿様:しかし食せぬ事はあるまい。
我慢して食せよ。
中村:【半泣き】
ぇぇッッ!!?
【声を落として】
いや、拙者はもうとても蕎麦はいただけぬ…。
一命にかかわる…。
この儀は何とぞご辞退いたす…。
本田:これはまた中村、貴公は武士として命を惜しまれるか。
ご筆頭の言葉とも思えぬ。
中村:もとより一命は殿に捧げてはおる。
武士たる者、戦場で討ち果てるは本懐と致すところなれど、
蕎麦ごときと刺し違えて相果てるは、拙者、はなはだ遺憾の至りで
ござる…。
本田:遺憾でも金柑でも、かく相成ったからには致し方なかろうに。
中村:恐れながら申し上げます…!
この上さらに蕎麦を食せとお命じ遊ばすなら、いっそひと思いに
切腹をおおせつけ願わしゅう存じまする…!
殿様:なに、予の蕎麦が食えぬと…?
不届き者め、ならば手討ち(手打ち)じゃ。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
三遊亭圓生(六代目)
※用語解説
・はばかり(雪隠):どちらもトイレの事。