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005

 イーダス・レムノスク。

 アリシアの意思に関わりなく、彼女の夫と定められた、この国の第二王子。

『どのようなお方かしら』


 彼女は甘い幻想など抱いてはいなかった。

 養父とも、養父の翡翠とも別れを告げあ後でも、アリシアは解放感を味わうことはなかった。

 翡翠の鎖から解放されても、また別の鎖が待ち構えているだけなのだ。


 教養、と養父は言った。

 妃となるための教養を施した、と。

 実際アリシアに課せられたのは、そのような前向きなものではなかった。

 それは、矯正だった。

 拒否することの許されぬ絶対的な、矯正。


 彼女の意思や感情は、容赦なく凍結させられた。

 心の中が空なのだから、物覚えは素晴らしく早かった。

 あらかじめ細工されたとおりに動くからくり人形と、大差なかった。


 イーダス・レムノスク。

 物心つく前から、彼女はその名を聞かされていた。

 直接彼女に話した者はいないが、イーダス王子が王家にあるまじき容貌に生まれついているという事実も、彼女は噂話を漏れ聞いて知っていた。

 そてと、漏れ聞いた噂は、もうひとつ。


 まるで森のオオカミのようなお方だ、という。

 未来の夫に関する情報は、これだけだった。


 森のオオカミ。

 アリシアは、その獣が現実に生きて動いているさまを、まのあたりにしたことがない。

 ただ、養父バロッサの書斎には、彼がみずから狩で射止めたという、灰色オオカミの毛皮が床に敷かれていた。


 琥珀の目玉をかッと見開き、鋭い牙と赤い舌を大きく裂けた口から覗かせたその形相はすさまじかったけれど、アリシアの胸には、恐ろしさとは別の想いが去来した。

 それは……哀れみと羨望。ふたつの相反する想念。


『おれは何故こんなところにいるのだ?』

『何故こんな場所に転がって、惨めな姿をさらしていなくてはならないのだ?』

 毛皮のみの、そのオオカミは、そんな問いを絶えず繰り返しているかのようだった。

 とうの昔に生命を奪われてもなお、その身に漂う哲学的なまでの存在感。

 生きながら個性を葬られ、機械仕掛けのからくり人形であれと強制される自分と、なんという対照か。


 養父の足元に力なく横たわるオオカミの毛皮。

 養父の指輪に絶対服従を誓う自分。

 同じような境遇にある者に寄せる憐れみの情と、似た立場に置かれながら決定的に異なる点……アリシアは生きながら自我を否定され、オオカミは死してなお、自己主張を止めはしない……この点において、彼女は羨望を禁じえなかったのだ。


 アリシアの知るオオカミとは、このようなものであった。

 イーダスが森のオオカミのようという噂を聞いて以来、アリシアの心の内では、まだ見ぬ王子と養父の書斎の敷物のオオカミが、しばしば重なってくるのだった。


「困ります、殿下!」

 にわかに扉の外が騒がしくなってきた。

 不穏な空気の中に、侍従のこの言葉だけがはっきりとアリシアの耳に届いた。

 彼女は立ち上がって身を固くした。

 組み合わせた両手には発汗を感じた。

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