013
アリシアの願いは、聞き届けられなかった。
翌日は、雨だった。
イーダスは一人、愛馬の背にまたがり、昨日アリシアと言葉を交わした木立の中で肩を濡らしていた。
アリシアにとって、晴れた明日は、もう永久にやって来ないのだった。
朝、侍女が発見した時にはもう、彼女は冷たくなっていた。
左手首に蛇の噛み傷が見つかった。
閉め忘れたバルコニーの扉から侵入してきたようだった。
アリシアは王子のタイを枕の下で握りしめたままだった。
死後硬直のため、彼女からそのタイを奪い取れる者はいなかった。
たとえ命を失おうとも、これだけは放すものかと、か弱い腕に力を込めているかに見えた。
イーダスは、タイを彼女の棺の内に、ともに納めることを承知した。
『……タイしか、あげられなかった……!」
イーダス王子は、空を仰いだ。
どんよりと重苦しい灰色の雲が立ち込めた、空を。
無数の冷たい針が、彼を目がけて降ってくる。
針は目にも口にも、容赦なく突き刺さってくる。
彼に関する忌まわしい噂が、またひとつ増えた。
森の王子に恋した乙女は、森の女神の怒りにふれる、と。
当の王子は、噂など歯牙にもかけなかった。
あとひとつくらい、ろくでもない秋分が加わろうが、今更どうということもなかった。
彼を打ちのめしているのは、人々の口さがなさではなく、針の雨でもなく、あの風変わりな三人目の妃候補……内気そうに見えて、時折ぎょっとするほど大胆な行動をとる清楚な男爵令嬢が、もはやこの世にはいないという、無常なる現実なのだった。
彼には以前、傷ついた小鳥を拾い、介抱してやり、やっと元気になったところで自然の猛威にさらわれてしまった、という苦い経験があった。
今、胸をふさいでいるのは、まさしくその時と同じ、無念さ。
『泣き虫なのがたまにキズだが、あの笑顔は悪くない』
あんなふうに慕われて、悪い気はしていなかったのに。
ぞんざいな態度ばかり取って。
彼女はぼくが、彼女をどう思っているか、ついに知らずに逝ったのだろう。
決して嫌ってはいなかった。
うまく表せなかったけれど、嫌いではなかったんだ。
「……アリシア」
名前さえ、まともに呼んでやらなかった。
イーダスは目を閉じた。
針の雨が目にしみて我慢できないせいだと自らに言い聞かせた。
頬をつたうのは雨だ。雨だ。雨だ。
イーダスは彼女を愛してはいなかった。
まだ、自覚するほどには。
ただ、彼女の笑顔は、もっと見たいと思っていた。
目を閉じたとて変わらぬ針の雨の攻撃に身をさらし続けながら、森の王子はアリシアの楽しげな声を回想した。
『嬉しい、きっとですわよ!』
『明日、晴れたら……』
『王子さま、カシューナッツはお好き?』
『明日、晴れたら……』
『明日、晴れたら……』
……その頃。
ノエルタリアは夢を見ていた。
はるか南方の異国の空の下、鉄の鎖につながれて。
バロッサ・カノーラの野望も、スープラック・レムノスクの愛憎も、アリシア・カノーラの純情も、イーダスの苦悩も、一切かかわりのない場所で。
ノエルタリアは、蛇の夢を、見ていた。
最後までおつきあいくださり、ありがとうございました(*^^*)
また別のお話もあっぷすると思いますので、今後とも、よろしくお願いしますm(_ _)m