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012

 アリシアはベッドに入る前に、明日のための総点検をおこなった。

 バスケットを開けて、中のものをひとつひとつ取り出しては、また、もとに戻す。

 縁に青い小花模様を散らした小皿が六枚、おそろいのボウルが二個、銀の杯がふたつ、赤ワインの小瓶一本、大きなナプキンがふたつと、小さいナプキンが四枚。

 あとはくれぐれもと厨房に頼み込んだ食糧を、明朝受け取って詰めるだけだ。

 そのメニューを書き込んだ紙を、よく読み返し、ナプキンの上に置く。


 高価なオルゴールでも扱うように慎重な手つきでバスケットのふたを閉じると、彼女はいきおいよく立ち上がり、白いシルクの寝巻きの裾をひるがえして、部屋の隅に置かれている花瓶に、少しびっこを引きながら近づいた。

 オールラウンドに活けられた、とりどりの花々の中から、とりわけ美しく咲き誇る黄薔薇を二輪とりだすと、それを大事に捧げもち、バルコニーへ。


 ちょっとした儀式をとりおこなうのだ。

 いわゆる、晴れ乞いだ。

 これは、彼女が九歳の時に出会った女性家庭教師に教わったものだ。

 その女性はアリシアがただ一人、心を許し、尊敬できた先生だった。


 まだ若く、高い理想と繊細な心配りと気品に満ち、アリシアの人格を尊重してくれ、アリシアの言葉やしぐさに注意をはらい、つねに真摯に対応してくれた。

 型にはめようとばかりする他の教師たちとは明らかに異なっていた。

 教え子というより、妹のように可愛がってくれた。

 アリシアも彼女を姉のように慕い、とてもなついていた。


 しかし、大好きなその女教師と過ごした楽しい時間は、それほど長くは続かなかった。

 養父バロッサ・カノーラが早々に彼女を辞めさせたのだ。

 彼女があまりにも情緒過多で、養父の教育方針に反するという理由のもとに。


 アリシアは、この女性の思い出を大切に胸に秘めていた。

 先生の笑顔、涼やかな声、慈しみに満ちたまなざし、そして、交わした会話のひとつひとつ、彼女が教えてくれた知識のすべてを、細部までも脳裏に甦らせることができた。


 うす曇りの、ある昼下がり。

 二人でミルクティを飲みクッキーをつまみながら、天気についての雑談を楽しんでいた時、姉とも慕うその先生は、ほんの座興にと、彼女の田舎に伝わる無邪気な儀式の数々を話してくれたのだった。


 その時に先生が着ていたドレス、椅子に腰かけているためにスカートにできた、幾重にも折り重なる波模様、つつましやかで上品な食器の扱い、優雅な所作、罪のない呪文を口にする際の、子供っぽい誇りをちらりとのぞかせる瞳……紅茶の湯気、菓子の甘い香り、心通い合う人との他愛ない軽妙な言葉のやりとり、和やかな空気、耳に心地よい先生のやわらかい声……そう、なにもかも、昨日のことのように、瞼の裏に再現できる。


 幸福な思い出は数えるほどしかない。

 その数少ない思い出を、アリシアは大切に大切に、心の内で反芻するのが癖だった。

 だからいつまでも忘れないのだ。


 バルコニーにひざまずき、二輪の黄薔薇に接吻した後、そっと下に置く。

 胸の前で両手を組み、目を閉じて、心をこめて祈りの言葉を口にする。

「月の女神ジョアンナさま、どうかあなたの夫である太陽神におとりなし下さい。天を司るお二方のために黄金の花二輪と心からのお祈りを捧げます。このわたくしのために、どうかあなたの夫、偉大なる太陽神に、明日は必ず、お顔を見せて下さいますよう……」


 熱心に祈りを繰り返した後、静かにその場を立ち去る。

 バルコニーの扉は閉めないでおいた。

 それが月の女神ジョアンナに対する礼儀だから。


 寝台の傍らに佇むと、燭台置きを兼ねたチェストの上にたたんで置いてある、イーダス王子の白いタイに、そっと右手でふれてみた。

 これは、帰城してからアリシアが自らの手でもみ洗いし、シワのばしを施したもの。


 アリシアの片頬に、えくぼが浮かんだ。

 彼女は、少々はしたないくらいの元気さで、レース飾りのついた掛け布団をはねのけた。

 はずみをつけてシーツのうえに身を躍らせる。

 足首の捻挫など、もはや気にならない。

 スプリングの効いたベッドが彼女の身体を何度か宙に舞い上がらせた。


 アリシアは笑い声をもらした。

 自分が別人になったようだ。

 ……別人? いいえ!


 本当の自分を取り戻した気分。

 あの方のために生きると決めた瞬間から、わたくしはきっと新しく生まれ変わったのだわ。

 あの方を支え、寄り添い、足りない部分を互いに補い合って、ともに成長してゆけたなら……これほどの幸福が、他にあるだろうか。


 わたくしは日に日に美しくなれる。強くなれる。

 あの方によって、あの方のために……そう、ただ、王子さまのお傍にいられたら!


 チェストの上に手をのばし、王子のタイを取り上げる。

 一旦それを大事そうに胸に押し当てると、そっと枕の下に忍ばせた。

 片手は枕の下、タイの上に添えたまま、アリシアは目を閉じた。

 爽やかに晴れ渡った明日の空を思い浮かべながら、彼女は安らかな眠りについた。

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