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011

 イーダス王子は、ほどなく戻ってきた。

 たった今受け取ったばかりのタイに、たっぷり冷水を含ませて。

 それを、赤く腫れて熱を持ったアリシアの左足首に巻きつける。

「結局、また取られてしまったな」

「すみません……」

「……別に、いいさ」


 少々乱暴に、薄緑色のドレスの裾と繊細なレースの海であるペチコートを、いっぺんに引き下ろしてアリシアの華奢な足首を隠すと、王子は立ち上がって、彼女の前を、爪を噛みながら、苛々と二往復した。


「……遅いな、プランセットの奴」

 うろつきながら、手近の小枝を苛立ちまぎれに手折り、アリシアの正面の木に、どかっと腰をおろす。

 間が持たないでいるらしかった。

 それはアリシアも同様だった。


「お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「何をだ」

「わたくしで何人目でしたの? 妃候補にお会いになりましたのは」

「……わりと図太い神経してるな」


 アリシアは青くなって口に手をやった。

「いい、いちいち謝るな、きみで三人目だよ」

 機先を制して、イーダスが答える。

 謝罪を差し挟む余地を与えまいと、さらに言い募る。


「一人目はえらく高慢ちきな女だった。名門の出だか知らんが『わたくし、家名の犠牲になる気はございませんの。意に染まぬ結婚を強いられる位なら、神にこの身を捧げとうございます』開口一番、こう来たよ。ぼくは彼女の願いを叶えてやった。いやみな女で、ギスギスしてて、体中にトゲがはえてるみたいだった。だけど冷静で、おのれの主張をはっきり述べてくれただけ、二人目の女よりはましだった」


 王子は苦笑い。

「二人目の女は、ぼくを見るなり泣き出したのさ。この世の終わりを嘆くような号泣だった。『ああ、神様!』彼女の口から聞き取れた言葉は、これだけだったよ。侍従が飛んできて、ぼくは叱られた。なにもしていないのに。ただこの姿を見せただけだ、この……」


 彼は言い淀み、宙に視線をさまよわせた。

「……ぼくはそんなに、醜いかな」

「いいえ、決して」

 アリシアは即座にこう答えた。

 王子の視線が焦点を取り戻し、アリシアを正面から見据えても、目を逸らさなかった。


「きみは本当に変わってる。これまで人からそう言われたことは?」

 アリシアは曖昧な笑みを見せた。

 王子は、笑わなかった。


「あの二人の反応は納得できる。むしろ不可解なのは、きみだ。何故そんなにぼくに執着する? 家名の誉れとなりたいのだったら昨日、兄に身をまかせていた方がどれほど得策だったか知れやしないのに……だが、きみはそうしなかった。おまけに今日は今日で、こんな無謀なことをする……何故なのだ?」

「おわかりになりませんか?」

「ああ、わからないね」


 あなたに魅かれているからです。

 家のためでなく、ただ、わたくし自身の気持として。

 今日ここに来たのだって、あなたに関心があったからです。

 あなたを知りたかった。

 あなたを包んでいる、この森の空気の中に、わたくしも身を置いてみたかった。

 あなたと同じものを見て、聞いて、触れて、感じてみたかったのです。


 もう一度、重ねて訊ねられたなら、迷わずこう申し述べようとアリシアは決意していた。

 けれどイーダスは、口をつぐんだままだ。

 彼は彼女の唇から、決定的な言葉が飛び出すのを、じつは望んでいないのだった。

 どう対処してよいものやら、それこそさっぱりわからなかったからだ。


「……遅いな、プランセットの奴」

 彼は話題を変えにかかった。

 似合いもしない冷笑を片頬に浮かべて、わざと意地悪く訊ねた。


「後悔しているだろう、森に来たことを」

「あら、どうしてですの?」

 作りものの表情は、すぐに消えた。

「どうしてって……決まっているではないか、落馬はするし、足は痛めるし」

「でも、王子さまに助けていただけましたもの」


 花がほころぶような、微笑。

「……ふん」

 イーダスは、自分が眩しげに目を細めたのを相手に気づかれたくなくて、鼻息も荒く、そっぽを向いた。

 アリシアは改めて辺りを見回しながら、うっとりと独白しはじめた。


「不思議な心地がいたします。森の中に、こうしていると。うまく言い表せないのですけれど、なにか自分が、とるに足りない小さな存在に思えてきて……頼りなくて、はかなくて、でも、生きている……生かされているって、こんなに実感できたことは、かつて、なかったように存じます」

「ここには嘘がないからな」


 きっぱりとしたイーダスの口調。

 アリシアの瞳は彼に戻った。

 彼はアリシアを見てはいなかった。

 先刻までのアリシアと同様に、みずからの思考を森に溶かし込んでいるのだった。


「いろんなモノが棲んでいる。いろんなことが起こる。こちらにとって有難いことも、そうでないことも、いろいろだ。けれど嘘は、ひとつもない。ここにあるのは、真実だけだ。美しさも、恐ろしさも、醜さも、みんな本物だ。嘘は、ひとつもない」

 王子の表情は誇りに満ち、その声には強い自信が。

 深緑の両眼に清冽な光が宿り、赤い巻き毛が木漏れ日を照らし返してきらきらと輝く。


 足さえ痛めてなかったら。

 アリシアは彼にふるいついていたかもしれない。

 オオカミ。

 誇り高い、オオカミよ。

 崇高なる自然に敬意を抱き、森の掟を尊び、独自の哲学を胸に秘め、生気に満ちた野生の獣。

 ここであなたは、まぎれもない王者。


 ……けれど、イーダス王子さま。

 あちら側、虚飾にまみれた人間社会の内にも、真実はありますのよ。

 たとえば、あなたのお兄様スープラックさまのご本心。

 そして、たとえば、わたくしのこの心情。

 見えにくく複雑に歪められているけれども、真実はたしかに、あるのです。


 この森のなかにいるのと同じくらい自然に、自由に、あちらの世界であなたが振舞えるようになったなら、どんなに素敵でしょう。

 長い間、偏見に圧しつぶされてきたあなたの自我を、この手で癒してさしあげたいわ。

 ……でも、焦ってはいけない。

 まず、他ならぬわたくし自身が、この方のほうへ、もっと近づいてゆかなくては。


「やっと、帰ってきたようだ」

 イーダスが活気づいた立ち上がった。

 アリシアの思考は中断された。

 早足のひづめの音が近づいてきた。


 ほどなく王子の白馬が姿を現し、栗毛馬の手綱を咥えて駆け寄ってきた。

「よおし、よくやった。えらいぞ、プランセット」

 白馬の首や胴を叩いて、なだめてやる。

 馬はまだ荒い息を吐きながらも、褒めてもらって、いかにも嬉しげ。


 アリシアはプランセットに、少しばかり嫉妬した。

 馬にやきもちをやくなんて。

 こんなにも急速に、これほどまで深く、この方を好きになるなんて。


 彼女の予感は的中した。

 養父の鎖を逃れても、また新たなる鎖につながれるだけだ、という。

 しかしこの新たなる鎖は、なんと甘美に彼女の首に巻きついてくるのだろう。

 なんと切なく彼女のむねをしめつけるのだろう。

 彼女は生まれて初めて、運命に感謝の念を抱いた。


「やっぱり……腹帯が緩んでいたんだ。ちょっとバランスを崩しただけで、落馬するはずだよ」

 アリシアは我に返って王子を見た。

 彼は栗毛馬の腹に手をやって、帯の具合を調べていた。

「……初めて自分で装着したものですから……」

 アリシアは軽く弁解を試みた。


「まったく、無茶なお姫さまだ。ところで、立てそうか?」

 イーダスの手を借りて、アリシアは挑戦した。

 木に寄りかかりながらも、どうにか立ち上がることができた。


「その様子では、自力で馬に乗るのは無理みたいだな。プランセット、おいで、ここに、ひざまずくんだ」

 白馬は王子の命令に、忠実に従った。

 アリシアは感心して言った。

「まあ、よく言うことをききますのね。ひとの言葉を解すんですの? 彼は」

「ぼくの言うことだけはね」

 間近で見る王子の目はいたずらっぽく、いくらか得意げだった。

『あら、王子さまって、鼻の頭にそばかすがあるのだわ、それに笑うと意外に人懐こい感じになる』


 ふわりと、アリシアは抱えあげられ、ひざまずいた白馬の背に腰かけさせられた。

『……線が細いわりには、力もある』

 王子について新発見をする度、アリシアの胸の内で幸福感が増していく。

 花火が、打ちあがるように。


「彼を立ち上がらせる。少し揺れるから、しっかりつかまっているように」

 こう警告してくれる王子、さりげない気配りが嬉しくてたまらない。

 自分でも制御できないほどに、アリシアの心は彼へと傾いてゆく。


 そう、アリシアを乗せた白馬と、もう一頭の栗毛馬を引いて、一歩一歩、森の出口へと向かう彼の背中を見ているだけで、アリシアの内面はのどがつまりそうなくらい愛情でいっぱいになり、好意の波が洪水となって、外にあふれ出てしまいそうだ。


「わたくし、またここに来てもよろしいでしょうか?」

 王子の後姿に、問いかける。

「駄目だ」

 王子の返事は、冷たかった。

 が、すぐにこう言い継いだ。


「ひとりで来るつもりなら、許可できない。本当に、どうしても来たいのだったら、ぼくに言いたまえ、連れてきてやるから」

 イーダスの声は照れのためか、ことさら、つっけんどんであったが、アリシアのおもては喜びに輝いた……後光がさして見えるほどに。


 陽光の暖かさに魅かれる植物のように、イーダスはその時、アリシアを振り返って見上げた。

 彼は前進するのも失念して、瞬間、アリシアに見とれた。

「いつでも?」

 微笑を崩さず、アリシアが訊ねる。

「あ、ああ」

 自分がどもったことに対して、イーダスは腹を立てた。


「では、明日」

 イーダスの動揺をよそに、馬上の男爵令嬢は大胆に宣言した。

「明日? その足でか?」

「だって、申し上げればいつでも連れてきてくださると、たった今おっしゃいましたわ」

 イーダスは絶句して、馬上で微笑む、たおやかな貴婦人を、さらにまじまじと見つめ返した。


「……わかったよ。明日だな」

 ついに王子は根負けした。

 前進を再開しながら、こうつぶやいたのだ。

 やりこめられたのに、不思議と彼は、みずからの頬がゆるむのを抑えることができなかった。

 それを感づかれるのをおそれて、イーダスはアリシアに背を向けたのだった。


 アリシアはすっかりはしゃいで、頬を紅潮させ、一気にまくしたてた。

「うれしい! きっとですわよ。明日、晴れたら、わたくし、いろんな物をバスケットにつめて持ってまいりますわ。ローストチキンにサラダにチーズ……ワインは白と赤と、どちらがよろしいでしょう? あとマフィンと、ビスケットと……王子さま、カシューナッツはお好き?」

「なんだよ、ピクニックのつもりか?」

 うんざりしたふうを装って、ちらりとイーダスが振り返る。


「でも、持ってまいります、明日、晴れたら、きっと」

 彼女の笑顔は、王子が振り向くたび自身に満ちた美しさを増していくようだ。

 イーダスは顔を正面に向けて、つぶやいた。

 ひとりごとめいた、口調で。

「……カシューナッツ入りのチョコレートは、大好物だ」

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