010
木陰から出現した馬は、栗毛ではなかった。
彼女が連れ出した馬よりも、はるかに立派な、白馬。
「どうしてきみが、ここにいるんだ」
信じられないと言った顔つきで、馬上のイーダス王子がつぶやく。
たぶん同様の表情を、アリシアは自分も見せているだろうと思った。
あたかも森が、歌の褒美に意地悪をやめて、イーダス王子を自分の前に導いてくれたかのような錯覚に陥ったのだ。
「そんな泣きそうな顔をするな、もうタイはやらないぞ!」
イーダス王子は自分が今しめているタイに手をやって、うろたえた様子でこう言った。
「あ……自分ので……」
アリシアは胸もとからレースのハンカチを取り出し、それで目頭をおさえた。
「そうでしたわ、これを」
昨日借りたイーダスの白いタイを差し出す。
タイは丁寧にしわを伸ばされ、几帳面にたたまれていた。
「昨日は大変失礼をいたしました。わたくし、すっかり取り乱してしまって……お詫びの言葉をそえてこちらをお返ししたくて、散策のお邪魔にあがりましたの」
「今日もすっかり取り乱しているようだな。王族の前で座りっぱなしとは、いい態度だ」
「これは、わたくしとしたことが……!」
「そのままでいい! それよりぼくの質問に答えたまえ。落馬か?」
「……はい」
アリシアは唇をかみ、うなだれて髪に手をやった。
土埃に薄汚れた、この姿……イーダス王子には、一目見た瞬間から、察しがついていたのに違いなかった。
『……恥ずかしい。消えてしまいたい』
「どこか痛めたのか、足か?」
アリシアの動揺を意に介さず、イーダスは馬から降りながら問いかけ、アリシアの傍らに歩み寄った。
「い、いえ、あの」
「正直に言いたまえ」
アリシアの傍らに、ひざまずくイーダス。
底無し沼の色をした瞳が、アリシアを射た。
「……左の、足首をちょっと、捻ってしまって……」
細い声が、ますます細くなる。
「どら」
イーダスの手がアリシアのドレスの裾にかかった。
アリシアは真っ赤になって裾をおさえた。
無駄な抵抗だった。
「なにも手当てしてないじゃないか。何故、馬を探しに行かせる前に、供の者に応急処置をしてもらわなかったのだ」
イーダスは、アリシアに連れがいると思い込んでいるらしかった。
当然だろう。
アリシアは口ごもりながら、真実を告げた。
「いいえ、供はおりません……」
「なんだって?」
「……わたくし、一人で……」
「なんということを! たった一人でこんな森の奥まで? 貴婦人のすることではないぞ!」
「申し訳……」
「それで、馬は?」
また涙ぐみそうになったアリシアの言葉を遮って、イーダスは事務的に訊ねた。
「逃げたきりか……どちらへ向かった? 毛色は? 牝馬か?」
イーダスの質問へ、言葉少なに答えるアリシア。
彼女から必要な情報を引き出すと、イーダスは自らの白馬を撫でながら、頼りになる相棒に接するときの気安さで彼に語りかける。
「おまえの友達を探しておいで、プランセット。すてきな栗毛の美人だそうだ。ここへ連れてくるんだ、わかったな……お行き!」
白馬の尻をぴしゃりと叩く。
プランセットは主人の言いつけに、ただちに従った。
「すぐ戻る。きみは靴下を脱いで、足を出しておきたまえ」
てきぱきと指示を下しながら、王子は木陰に消え去った。
「……は?」
アリシアは、呆気にとられて、その後姿を見送った。
と、木陰に消えたはずのイーダスが、顔だけ出して怒鳴った。
「早くしたまえ! それともぼくに手伝わせる気か?」
二度まばたきをした後、アリシアは慌てて行動を起こした。