CAVE:03 出会い
――クソッタレ。
喉まで出かかった悪態を飲み込んで、代わりに血染めの唾を吐く。背中のモノが重くのしかかり、ありあわせの材料で急造した背負子の紐が、肩に深くめり込んでいた。
「大丈夫。もう少し、もう少しだからな……!」
うわごとのように繰り返し唱える。視界の端に、だらりと垂れた腕がちらつく。もう彼女のために言っているのか、自分のために言っているのかわからない。奈落の底から湿った風が吹く。皮手袋は擦り切れて、命綱を握る手には血がにじんでいた。
「こなくそぉ……!」
マルーイは歯を食いしばり、握力と腕力、それから気力を総動員して命綱を手繰り寄せる。古い説話に残る、蜘蛛の糸に縋る罪人の気持ちを、これほど理解したことはなかった。
どうしてこうなった。マルーイは唇をかんで、頭の隅を掠める後悔がそれ以上広がらないように努めた。
やがて梯子に手がかかる。マルーイはもはや火事場の馬鹿力ともいうべき膂力で、二人分の体重を持ち上げる。
「もう少し、もう少し」
梯子に足がかかった、瞬間。
「あっ」
血にぬめったブーツが、ずるりと滑った。
/// 二日前 / 統合府本部庁舎 / 3F研修室B ///
「よーやく終わった……」
大きく伸びをする。結局あの後、昼休憩をはさんで5時間ぶっ続けの講習と1時間の考査が待っていた。机と椅子に長時間縛り付けられるのも久々で、背骨がばきばき鳴る。
肝心の考査の手ごたえは、まあまあといったところだ。講習中に取ったメモを試験中に見ることが許されていたし、設問もマルバツで回答する二択問題。それも、講習をちゃんと聞いていればまず間違えないような簡単なものばかりだった。一例をあげれば、「洞窟迷宮内には危険な怪物が棲息しているため、注意して進まなければならない。マルかバツか」といった具合だ。もちろんマルーイはためらいなくマルを付けた。
「お疲れ様、マルーイちゃん。試験はどうだった?」
「ペンタグラさん」
試験官の一人であったペンタグラが寄ってきたので、背伸びをやめて居住まいを正す。
「まあ、そんな大したことなかったっスよ」
「あら、すンごい自信ね」
「ガッコとかは行ってないスけど、読み書きソロバンは不自由しないように叩き込まれてるんで」
へへっと鼻の下をこすってみせると、ペンタグラは感心したふうに口笛を吹いた。マルーイの鼻が少しだけ高くなる。
「それは心強い。でも、よく親御さんは洞窟兵なんかになることを許してくれたわねぇ」
「うっ」
高くなった鼻がさっそく折れた。マルーイがうしろめたさから目を泳がせると、ペンタグラはすべてを察したように苦笑した。
「あらあら」
「……養父はどっかの文官にしたかったみたいなんスけどね。そういう退屈そうなの、ごめんだったんで、飛び出してきちゃった感じで」
「立派な不良少女ね」
「いけませんかね?」
「べつに? いいんじゃないかしら。洞窟兵になるために必要なのは、本人の自由意志だけ。今も昔も、それは変わってないもの。でも」
マルーイの探るような視線を笑い飛ばしたペンタグラは、幾分か真面目な顔つきになって、続けた。
「いざ洞窟兵になっちゃったら、きっとそういう退屈さが、愛おしくなる日が来るわ。いつか、絶対に」
「そんなもんスかね?」
「そんなもんよ。少なくてもアタシの知ってる洞窟兵は、みんなそう」
「……」
そう語るペンタグラがずいぶん遠い目をしたものだから、マルーイは押し黙るほかなかった。他人から発せられる、積み重ねていた過去の余韻のようなものは、言語化しずらい圧力となって妙な気まずさを産む。
だからマルーイは少々強引ながら、話題を変えた。
「あー、ところで。後にいる人、なんかすごい手持無沙汰になってますよ」
「あら、そうだったわ。マルーイちゃんに紹介しようと思ってたのよ」
ペンタグラがポンと手を打った。その大きな体を半身ずらすと、所在無げに立ち呆けていた少女の全身があらわになる。年の頃は、きっとマルーイとそう変わりはしまい。服装も、マルーイと似たり寄ったりな旅姿だ。目立った違いといえば、すらりとした長身と発育の良い体つきくらいだろうか。大きなお世話だ。マルーイはひとりでにふて腐れた。
ちなみに少女にはマルーイも最初から気が付いていたのだが、会話のタイミング的に入り込むすきもなく、結果放置してしまった形になる。
ペンタグラに促されて、少女は軽く頭を下げた。
「ニア・テッテンドットです。ええと、よろしく?」
「あーっと、マルーイ・テッペです……いや、どういう状況?」
ニアの疑問符付きの自己紹介に会釈で応えてから、マルーイは怪訝な目をニアではなくペンタグラに向けた。
「どういうって、ほら。同じくらいの年配のコ同士、仲良くしといて損はないでしょ?」
ペンタグラはいけしゃあしゃあと述べると、採点の仕事があるからと早々にその場を後にしてしまった。あとに残された二人はそろってその後ろ姿を目で追って、そしてお互いを見る。
「とりあえず座んなよ」
「あ、うん」
マルーイがパイプ椅子をすすめて、ニアが座る。机を挟んで対面、どこか落ち着かない沈黙が流れる。とはいえ研修室内には他の受験生が大勢いたから、まわりががやがやとうるさかったのは幸いだ。これで水を打ったような静けさだったら、きっとどちらといわず気まずさに潰されてしまっている。
ニアはいまだ幼さの強く残る顔立ちで、くりっとした双眸をきょろきょろと彷徨わせていた。落ち着きがないというよりは、言葉を探している様子だ。マルーイはひとつ息を吐いた。
「ニアさんだっけ。おたくも洞窟兵に?」
「あっ、うん。マルーイさんもだよね?」
「まあね。……っていうかなにあたりまえのこと聞いてんだって話しか。試験中にも見えてたし」
マルーイは湿気のこもった目をニアの胸の位置で止める。洞窟兵の志願者は、ほとんどが屈強な男どもだ。こういう女の子らしい女の子はよく目立った。
「ね、ねぇマルーイさん」
「ん?」
ニアは手を机の上で組んで、もじもじしながら口を開いた。マルーイが視線を胸から顔へ上げると、ニアは少しだけ逸らした目でマルーイを見ながら続けた。
「あの、もしも学科が受かってたら、実技は私とパーティ組まない?」
ニアはそう言った後、反応をうかがうようにちらちらと目を合わせてきた。マルーイは呆けた声で言った。
「実技試験とかあるんだ」
「そこから!?」
ニアが素っ頓狂な声を上げて、周囲の注目が一斉に集まる。部屋の中が一瞬、水を打ったように静かになった。百人近いむくけつき男たちからの視線を受けて、ニアはしなしなと小さくなった。マルーイが険しい目でそれらをけん制すると、男たちは興味を失ったように視線を外し、室内にはまた喧騒が戻る。
「なんかごめん」
「……ううん、いいの。私、すぐ大きい声出しちゃう癖があって」
「難儀な癖だなあ……で、パーティだけど。良いよ、組もうぜ」
「ほんっ――……ほんと?」
ニアはまた大声がこぼれそうになって、慌てて声をひそめた。周囲から生暖かい雰囲気が飛んでくる。外威は無いが、何とも居心地が悪い。
「わざわざ嘘なんてつかないって。さすがのわたしだって、一人で洞窟迷宮に飛び込むのはおっかなかったしさ。渡りに船ってやつ?」
マルーイはしれっと嘘をついた。ニアの顔が輝いた。ちょろいな、とマルーイは呆れる。こんなんでほんとに迷宮都市でやって蹴るのだろうか、この子は。マルーイはちょっとした優越感を胸に抱いた。
「それじゃ、対等なパーティの仲間ってことでさ。さん付けは無しでいこうぜ、ニア」
マルーイが右手を差し出す。握手は万国共通の挨拶だ。
「そ、そうね! よろしく、マルーイ!」
「ああ、よろしくな、ニア」
ニアがその手を握り返す。農作業や荒事に馴染みのない、すべらかな手の感触がマルーイの掌に伝わった。固く握る。
実を言うと、マルーイも少しだけ興奮していた。洞窟に潜るため、即席のパーティを組む。なんていうのは、実に洞窟兵っぽいではないか。マルーイは自分で考えているよりもよっぽどチョロかった。
「とはいえまずは学科か。って言っても、あんな簡単な問題なら、楽勝だろうけどさ」
「でも、結構意地悪な問題が多かったわよ。たとえば一問目とか」
「ああ、洞窟迷宮は怪物が出るから注意しないといけないってやつ? 簡単じゃんか、マルだろ?」
「えっ」
「えっ?」
「…………マルーイ、あのね、アレは「怪物が出なくたって注意しなくてはならない」が答えだから――正解はバツよ」
「え"っ」
マルーイはすごく不安になった。
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