「物理が魔法に勝てる訳がないだろう。少し考えれば分かることだ。いや、猿には分からないかな?」「…。」
頭を空っぽにしてお読み下さい。
「私に、この国での魔物の捜査権を与えて下さい。」
大陸エーテルの中央、大陸最大国家である魔法国家マギウスの更に中央部。ここは、首都たるマギアナに座す巨大な城である。黒を基調とし、特殊な空間魔法によって最大限の空間拡張を可能にした、人類最高峰にして最先端とされる魔法使い達が集まる学院。そして、この国の全てを司る者達が集う場所でもあった。
その城内の一室で、二人の男が向かい合っている。
一人は頭を下げ、一人はそれを無感情に見下ろしている。
頭を下げているのは、銀の短髪を刈り上げた偉丈夫。歴戦の兵士を思わせる精悍な顔立ちに、身を包む服を内部から圧する筋肉。覇気を纏う彼は、一目で『生物として、雄として強い』と分からせる普遍的説得力を持つ男だ。
「ダーレス学院長、何卒よろしくお願い致します。」
そんな男が、深々と対面に座す男に頭を下げる。しっかりと90度、相手に誠意を伝える様に。相手の機嫌を損ねぬ様に、真摯な態度で、だ。
だが、その誠心誠意と言っても過言ではない懇願を受けて尚、対面の男…ダーレスは何も言わない。
ただただ無感情な瞳を銀の男に向け、見下ろすだけである。
その沈黙を受け、再度男は懇願を再開する。
「平素は我々が抑えている魔物―――その内の一匹をマギウスに侵入させてしまったのは、真にこちらの不手際であります。その事についての謝罪と賠償は、全てが終わった後に必ず致します。
―――ですので、どうか私にこの国での行動許可をお願いします…っ!」
余りに異常な光景。ダーレスは(彼がこのマギウスの統括である、最強の魔法使いであることを除けば)何処にでもいるような一介の男だ。中肉中背で、黒いスーツに身を包み、黒髪をオールバックにした中年の男。
そんな男に筋骨隆々の偉丈夫が、誠心誠意頭を下げる。銀髪の彼が立ち上がり、その外見からも分かる力を発揮すれば、間違いなく軽々と捻り潰されるだろうダーレス。
…だが、この場に於いてはダーレスが上で、圧倒的に銀の男が下だ。
故に、こんなことをしても許される。
「…ハア。」
ため息。
男の必死の訴えに対して、ため息で返す。
無礼千万、という言葉では飽き足らぬ傲慢。
頭を下げる男は、北国…魔物が湧き出ずる土地の『英雄』と言われる文字通りの英傑。そんな彼が恥を捨て、国辱を受けることを請け負って下げた頭。
北方民族の誇り、その全てを懸けて下げた頭。
それに対して、国の代表者足るダーレスはため息で返したのだ。
―――つまり、語る必要性はないと。
対話にすら値しない相手であると。
そう言外に示したという事だ。
「…。」
無論、相手が赦しを出すまでは頭を上げないのが謝罪と懇願の常識。英雄は頭を下げたまま、無言で相手の出方を待つ。
いかな侮辱を受けようと、いかな誹りを受けようと、彼は意思を絶対に曲げない。ため息でバカにされようがお構いなし。『魔物を取り逃がした』という罪は、己が雪がねばならぬと決意しているのだから。
「…ハア。」
そんな彼を見て、再度ダーレスはため息をつく。
だが先程とは違い、その後に言葉を続ける。
「一先ず、頭を上げろ。」
―――心底呆れ返ったような様子で、ダーレスは口を開く。
椅子の上で足を組み、膝の上で両手を組んで、上から目線で彼は言う。
国と国、その最高戦力同士の会合に於いて―――彼は命令口調を用いたのだ。
見下している?当たり前だ。
この世界の中心を占める、魔法国家の最大戦力が、一国家の英雄如きに敬意を払うものか。
国同士の争いに発展する?
構わん。圧倒的暴力で蹂躙するだけだ。北の一国家如き、いつでも潰せる。故に形ばかりの敬語を使う必要は無く、故にいかな非礼も許される。許さなければ祖国を潰す。
―――マギウスの、国民一人一人が魔法使いという強みは、圧倒的国力の現出という結果をもたらしたのだ。誰も逆らえない。逆らおうとしない。『主権国家』という絶対強者に、皆が頭を垂れるのだ。
正に地上最大の傲慢を以て、ダーレスは言葉を続ける。
「まず、許可は出さん。というか、お前如きに出す訳がないだろう。」
そして、顔を上げた英雄に対して、最大限の侮辱を叩き付ける。相手の誠意を全て焼却し、カスの如く打ち棄てる暴挙。
…何も知らぬ一般人が見れば、ダーレスを『気狂い』と断じて止めに入るだろう。
だって、英雄の体躯を見れば、誰だって一目瞭然なのだから。
怒り狂った彼が立ち上がり、顔面にストレートを一発―――なんて事になったら、ダーレスの顔面は間違いなく粉々に砕け散る。
そんな相手に、命令口調では飽き足らず、相手の望みを全て絶った上で罵倒?
…有り得ないというか、あってはならない事だ。
だが、魔法を極めたとされるダーレスは、傲岸不遜にそれを為す。
拳など、恐るるに足らず。文明の利器…即ち、魔法という武器を持つ彼は、英雄との破壊的なまでの力の差を確信しているのだから。
「…そこを押して、どうかよろしくお願いします。」
だが、英雄は今度は相手の瞳を見据えて言う。
ダーレスの黒く濁った瞳を、英雄の紅い瞳が射貫く。非礼など歯牙にもかけない彼は、あくまで対等に彼と接する。
「…意味が理解出来なかったか?ならば、猿でも分かるように言ってやろう。
―――お前らは出しゃばるなと言ったんだ。」
ゾッと肌を撫でつける威圧感を生じさせるダーレス。
「自分達の尻拭いも国内で出来ぬような連中に、国内をうろつかせるほど阿呆では無い。少なくとも、地上最大の国家たる我々は、そんな真似を他国にしない。全てを国内で完結させるからだ。」
「…。」
「魔法も使おうとしない、学ぼうともしない猿に、我々の国を歩かせる訳にはいかないんだよ。」
足を組んだまま両手を広げ、英雄を煽るダーレス。口を吊り上げ、目の前に座る男を猿と侮蔑する。
そんな男に対して、英雄は平然として言葉を告げようとする。
「…ですが―――」
「黙れ。もうこちらから言うことはない、とっとと去れ。後は我々が全てをやる。」
ダーレスは二の句を告がせず、会話を打ち切って席を立つ。もう、全ては決したと。会話をまじわす時間すら惜しいと。
だがそれを意に介さず、去る背中に向かって英雄は言い放つ。
「―――貴方達だけでは、彼の魔物を滅することは叶わない。」
それを聞き、ダーレスはピタリと足を止める。
この男は何を言った?
地上最大、史上最大の国家に対して、小国が逃がした小物を殺すことが叶わない?
侮辱だ。
これは、今まで人間が培ってきた知識を、否定する言葉だ。
「…我々が殺せぬ相手を、お前単騎が殺せると?」
「だから私が此処にいるのです。」
―――瞬間、ダーレスの額に青筋が浮かぶ。
その言葉は、『お前の国全てを敵に回しても、己一人で殺しきれる』と宣言したことに他ならぬ。
魔法も使えぬ小国の英雄が、全ての魔法使いを相手取って殺せると口にしたのだ。
―――人間とは、下の者の反抗を拒むように出来ている。
上が下を圧制するのは良い。
歴史を見ても、『権力』という台に乗り上から殴りつける事象が何と多いことか。
だが、下が上を攻撃するのは許されない。
歴史上稀に見る叛逆―――これは、『よく戦った』や『意義を打ち立てた』という枕詞が付けられ、美談として語られる。
しかし歴史の裏では更に膨大な叛逆が勃発し、人知れず鎮圧されてきたのだ。
記録にすら残らないほど、圧倒的に蹂躙されたのだ。
それは、上に立つ者が叛逆を許さぬから。
『叛逆』という言葉そのものが、権力者の琴線を逆なでする最悪の概念であることは言うまでもない。
…ここでは、上位者がダーレスで、奴隷が英雄。そして英雄の言葉は、権力と文明に対する『叛逆』と言って差し支えのないものだった。
「言葉に気を付けろよ、蛮族。お前は今、この国全てを敵に回す発言をしたんだぞ。撤回しろ。撤回して、謝罪しろ。」
英雄に背を向けたまま、顔だけを横に向けて背後を伺うダーレス。手は血が出そうな程強く握り、額には青筋が色濃く浮き出ている。激怒そのものと言った様子で、ダーレスは英雄を誹る。
地上最大の傲慢に裏打ちされたその申出に、しかし英雄は毅然として答える。
「…失礼ですが、貴方が最強の魔法使いという事で認識するならば―――
―――私は、言葉を撤回する事は出来ません。」
「貴様、俺が力不足だと言うのか!」
先程まで冷静そのもの、冷徹な微少を浮かべていたダーレスの姿は見る影も無い。
あるのは、目前の憎き猿に対して憎悪を燃やす男の姿。魔力を目に見える形で迸らせた、『魔王』という肩書きを背負った男が怒り狂った姿だ。
「…はい。」
「―――その言葉、万死に値する。一度撤回の機会は与えたのだ、容赦なしでお前を殺す。この国の誇りをかけて、俺はお前を打ち倒さなければならない。」
…この男には『誇りにかけて』などという言葉を口にする権利はない。
なぜならば、先程まで『北の誇り』とされる英雄を足蹴にし、それを蔑ろにしていたのだから。
だが、小国と大国では、その面積、人口に比例して受ける誇りの量が違う。
そして量が伴って、質も違う。
『貶す権利があるのは我々だけで、お前らにはない』と言う彼の考えは、真実傲慢であった。
「付いて来い。処刑に相応しい場を用意してやる。」
◇
「…ここは、我が学院が誇る最大の闘技場。あらゆる魔法に対する下準備を簡略化し、外部へのあらゆる物理的、魔術的干渉を断絶する、言わば空間の匣。ここでの決闘にて、雌雄を決するとしよう。」
半径100メートルはある、真円の中。二人は向かい合って立っている。土が敷かれた円の中は、魔王ダーレスが発する魔力によって風が吹き荒れ、砂煙を巻き上げている。
円形の周囲には客席が盛り上がっており、そこには無数の観客が座している。
研究の合間に処刑を見に来た者。
魔王に喧嘩を売った者の末路を見に来た者。
魔王の魔法を盗み見ようとする者。
千差万別、この学院に属する魔法使いの殆どが席に座り、歓声を上げながら二人を見下ろしている。
「…この決闘に私が勝てば、この国での魔物の捜索を許可して下さる、ということでよろしいでしょうか。」
「…そんな事は有り得ない。…が、俺がお前に殺されたならば、そうするよう命じておこう。」
「ありがとうございます。」
魔王ダーレスは黒いローブに身を包み、今正に黒い手袋を付け終えた所だ。
黒いローブは、嘗て世界を暗黒に陥れたとされる伝説の化け物の皮を剥いで加工した、超一級品の魔術補助道具。
そして今し方嵌めた手袋には、膨大すぎる魔力に肉体が耐えうるように作られた代物…言わば、『人間としての限界を超える』ための下準備に当たるものであった。
また、手袋の上から何やら紅い宝石の付いた指輪を両手の人差し指に嵌め、準備を整えた。
左手に嵌めた指輪は、通称『遮断の指輪』。あらゆる攻撃を文字通り『遮断』し、衝撃を無に帰す膜を自分の表皮に生じさせる指輪である。
そして右手に嵌めた指輪は、『英雄の指輪』。身につけるだけで身体能力が跳ね上がり、山を切り裂くことや、獅子を素手で仕留めることなど、さながら神話の英雄然とした行為を可能とさせる指輪だ。
更に手元には豪華絢爛な装飾が施された杖。
金の蛇が樹木に絡み合い、そして先端には膨大な魔力が込められた結晶が浮いている。
魔法に取って、杖とは補助装置の様な意味合いを果たす。杖を用いることにより、体内の魔力を潤滑に魔法に変換することを可能にするのだ。優秀な杖であればあるほど魔力の変換ロスは減り、比例して大魔法を発動しやすくなる。
無論、彼の杖も最上位のものだ。
「…。」
着々と準備を進めていくダーレスに対して、英雄はただ見守るのみ。
何もしない。
何も身に纏わない。
何も武器を持たない。
如何なる武装も、如何なる防備も必要無い。
――そうで無ければ、北方では生き残れない。
常に死線を考え、あらゆる状況に対応して勝利しなければ、容赦なく魔物達は命を奪い去っていくだろう。『まだ装備をしていないから』や、『寝ている最中だった』などの言い訳は一切無し。
というか、言い訳をする間もなく死んでゆく。
そういう状況で、武装などしている暇は無いのだから。
数十秒後、ダーレスが全ての装備を終えた時点で口を開く。
「―――私が身に纏う魔力を感じられるか?知識の無いお前にも分かるだろう。この闘技場を渦巻く風と化した、我が膨大な魔力が。」
ダーレスに促され、英雄は周囲を見渡す。周囲は、装備を行う前までは砂煙が立つ程度だったのに比べ、豪風が吹き荒れている。一般人であれば目を開けるのも難しく、立っているのすら厳しいほどの風量だ。
何の魔法を使わずに、魔力のみが事象として発現する。
その膨大さに、観客は思わず息を呑んだ。
あり得ないと。
魔力を事象に変換するのが魔法である。
魔法も無しに、風として吹き荒れるなど、規格外が過ぎると。冷や汗と共にそう思った。
ダーレスは、愉悦の笑みを浮かべて英雄に問う。
「物理が魔法に勝てる訳がないだろう。少し考えれば分かることだ。いや、猿には分からないかな?」
「…。」
対して銀髪の英雄は、沈黙で答える。真っ直ぐ相手の目を見据え、既に臨戦態勢に入っている。
だがダーレスは、そんな英雄の沈黙を『答えられぬ』という答えとして受け取った。
「返事も出来んか、当然だ。」
…だが『世紀の天才』と謳われた彼は、不機嫌そうに舌を打つ。
40半ばで『不死の法』の形成に到達し、圧倒的な実力で『魔王』に襲名されるという栄誉。
何だって自分の思い通りにしてきた。
恵まれた才能に甘んじる事無く、努力も相応に行って、『魔法』という道具で現実を思うようにしてきた。
逆らった小国を潰した。
意に沿わぬ魔法使いを呪い殺した。
己の実力にモノを言わせて、全ての現実を改変してきた。
そんな彼が、顔を歪めて舌を打ったのだ。
その理由は、英雄の目にあった。真っ直ぐこちらを見据える紅い瞳。それが、魔王たるダーレスの機嫌を逆撫でしていた。
…相対する英雄に、ダーレスを嘲ったり蔑んだりという意思は毛頭無い。
寧ろ、敬意を払っている。あれだけの無礼をその身に受けておきながら、尚も相手に敬意を払って接しているのだ。
目線は、何より関係を語る上で重要な事柄だ。
知己であれば礼儀を弁え、不躾にならぬ程度の目線。
友であれば気安く、気心が知れた仲故に無礼も許されるという安心を湛えた目線。
仇の様な敵であれば、憎悪を持った目線を向け、視線のみで相手を射殺そうとする。
では、始めて出会う相手は―――無論、対等。
『生ける伝説』と銘打たれている彼は、然れど慢心することなく、敬意を込めた上で『対等である』と相手を見る。
それがどんな肩書きを持っていようと、どのような外見の者であろうと。
戦場で彼に相対した時点で、対等な相手と認め、敬意を以て接するのだ。
―――それが、何よりダーレスには気に入らなかった。
知識、実力、品位…全て下である人間に、対等と見なされる屈辱。
無知な童が大人を下に見る―――これはよくあること。
だが、相手は大人。ある程度の経験を積み、『物の道理』が十分分かっている大人だ。
少なくとも、無知ではない。
第一、魔法が全てに於いて最大最強であることなど童ですら知っている。
ありえない。
魔法を使えぬ猿、原始的な方法でしか戦えぬ猿と、先進的で人間的な我々が対等だと?
ふざけるな。
対等な筈があるものか。
お前らが明らかに下だろう。謙り、媚びへつらい、靴を舐めるべき相手が我々魔法使いだ。
怒りで精神が沸騰する。
魔力が滾り、心中では既に北国を滅ぼすことを決意している。
このような猿を産む国など、早々に滅ぼしておくべきだったのだと。
魔法の価値を知らぬ蛮族は、この世界に存在する意義がないと。
怒りを全て魔力に変換し、ダーレスは憎悪を込めた目線で相手を睨み―――そして処刑開始の宣言を行う。
「では、始めるとしようか。何、貴様の得意な体術で闘ってやるとも。」
杖を相手の方に向け、左手を腰に回して半身になるダーレス。身体を打たれる面積を減らし、隙を減らす構えであるが、その実杖を持つ右手は恰好の的だ。目に見える唯一の武器を全面に押し出したその構えは、隙をその一点に絞る目的で行われた。
そして、その構えは完全な『受け』の体勢。身体を地面に垂直にするその構えは、自ら前へ踏み込んで攻撃する選択を捨てた構えであった。
『魔法でない攻撃など、どんなものも問題では無い』という実力に裏打ちされた自信が、彼に『先手を譲る』という愚行を推奨した。
実戦に於いては愚行も愚行、自分から攻めの機会を放棄するなど。
しかしこちらから攻撃すれば、恐らく彼の英雄は一撃で沈む。そうなってしまっては面白くない。
全ての攻撃を捌いた上で、一撃で絶命させる。
それがダーレスの選んだ選択であった。
「では―――押して参る。」
開始の宣言と共に闘いの構え―――足を開き、立てた右手と寝かせた左手でL字を描くような構えを取っていた英雄は、刹那にグッと地面を踏み込む。
そして―――
「何だと―――!」
その瞬間、英雄を除いた会場全ての存在が息を呑む。
消えた。
消えたのだ。
今の今まで魔王に対面し、独特な構えを取っていた男。
それが、踏み込みと共に姿を消し―――――代わりに、魔王が衝撃で吹っ飛ばされた。
そして次に皆が英雄を認識したのは、右拳を突き出した状態で魔王がいた位置の一歩手前。
魔法では無い。魔力の揺らぎが無い。第一、奴は魔法を使えない。
ではこの不可思議な現象――皆の視界から消え、一秒にも見たぬ速度で攻撃を繰り出すという現象は、全てその身体能力で為されたものという事に他ならぬ。
其れは、人間の――少なくとも死線に身を置き慣れていない者の――反応速度を遙かに凌駕する移動と攻撃。
瞬間移動?空間連結?幻術?そんなものは無い。あるのはただ筋力と死線で培った技のみ。
生涯の仲、幾度も死を乗り越えてきたその業が、魔法による小手調べを上回ったのだ。
「あり得ん!」
魔王は吹っ飛ばされた状態で姿勢制御の魔法を使い、強制的に着陸する。身体強化で膂力を強化し、『断絶の指輪』でダメージが0に抑えられていなければ、痛みに瞠目した挙げ句に壁に叩き付けられていただろう。
国の元首、魔法使いの総領たる魔王にそんな無様は許されぬ。
意地とプライドで地面に降り立ったダーレスは、今度は地面を蹴って英雄に仕掛ける。
最早、『全ての攻撃を受けきって殺す』などという当初の幻想は泡沫と帰した。
『一刻も早く殺す』。
苦渋を舐めさせた相手を、相手の土台に則った上で蹂躙して殺す。
魔王としてのプライドは、彼の意思を既にドス黒い殺意で塗り固めてそう決意させた。
「シィッ――――!」
魔王が獣のような俊敏性で繰り出したのは、踏み込みの勢いを活かした突き。
豪華絢爛な錫杖は、翻って敵を打ち倒す武器ともなる。いや、武器として転用することで相手の隙を突く。
無論、杖にも魔法がかかっている。杖の中央から先端は一瞬にして不気味な瘴気で覆われ、先端に浮かぶ結晶が黒色に染まっている。その色が示す魔法は『腐食の魔法』。触れた者全てを腐らせる魔法だ。
今度は戦闘に慣れていない魔法使い達も、辛うじて目で追えた。魔王が何をしたいかを理解し、『速度に対応し切れず、英雄が手で受けて絶命する』ことを期待した。
しかし目で追えると言うことは、それ以上の動体視力を持つ英雄に取っては――
「…。」
「何故だ、何故当たらん!?」
止まって見えるということだ。
最初の渾身の突きを難なく躱した彼は、その場での魔王の振り下ろし・引き戻し・突きという一連の攻撃を余裕を持って回避する。
それでも諦めぬダーレスは突きを連打。醜悪なまでの連打である。何せ、『一撃でも当たれば勝ち』なのだ。攻撃の手を休めるという選択肢は無い。
だが、当たらない。
魔法で抜群に強化された、その身体能力を以てしても掠らせることすら叶わない。
まるで先を読んでいるかのように攻撃を回避し、しかも汗一つかいていない。
致命に至る一撃が次々と繰り出されているというのに、まるで焦燥が現れない。
魔王の一方的な攻勢が暫く続いた後、今度は英雄の方が動きを見せる。
今まで横への回避一方だった彼が、大きく後ろにバックステップをして距離を取ったのだ。
…飛ぶ距離が尋常では無く、一蹴りで優に5メートルは一気に距離を離したが。
バックステップをした後、彼は右手を前に出して攻め続けようとする魔王を制止する。
そして曰く――
「止めましょう。闘うのならば、真に己の得意分野で闘った方が良い。」
涼しい顔をして、魔王にそう言ったのだ。
素手で闘うのは忍びないからどうぞ魔法を使って下さいと、英雄はそう口にしたのだ。
侮辱だ。完全な侮辱。今まで生きてきて、ダーレスはこれ以上の侮蔑を受けたことが無い。
完全に嘗め切られていると、彼はそう思った。
…英雄にそんな意思は無く、敬意を払って『対等な勝負』を持ちかけただけだったのだが。
「嘗めるなよ蛮族風情が…!第一、お前は俺の攻めに対して、飛び退くのがやっとでは無かったか…!」
そう、魔法により補正された無限の体力、それに裏打ちされた永遠に続くトップスピードの連撃。生物ではあり得ぬその攻めに、英雄は攻めあぐねていたと、魔王はそう判断した。
得意分野でも押し切られそうだった愚物が、何を思い上がっているのか。
こちらの体力はほぼ無限、対してお前の体力は有限。
このまま続けていれば、勝ったのはどちらか明らかだろうと。
対して英雄は、冷静に分析した言葉を発する。
「…いえ、試合が始まってより後、私は貴方を六度殺せました。」
「負け惜しみを…!」
「一度目は、最初の踏み込みによる正拳。二度目は突きの隙を突いた蹴り。三度目は振り下ろし。四度目以降は突き三度ごとに現れる魔法の補正による隙。」
淡々と、相手に致命の機会を教えていく英雄。当たれば必死の攻撃を全て回避した上で、隙をうかがって分析まで行っていた。彼の英雄の慧眼は魔王の武技を凌駕したのである。
「恐らく、体勢を崩すと正規の型に補正する魔法がかけられているのでしょうが…三度ほど打てばその補正が入り、それが致命の隙を晒しています。また、そもそも無理な身体強化に思考が追いついていない。本来の能力と比べて、コンマ数秒の思考とのズレがあります。」
懇々と相手に『何が悪かったのか』を説明する銀の英雄。
無論、彼に煽りや嘲笑の意など一切無い。
『こうした点があるから、やはり得意分野で闘いましょう』という申出だ。
余りにも紳士的、余りにも英雄然とした対応。
対して魔王は――激高で答えた。
「調子に乗るなよ無能が!」
戦闘態勢にを取っていない英雄に対して、再度突きを行う魔王。
今度は身体強化を限界まで重ね掛けした上で、杖には相手を無差別に攻撃する破壊魔法が付与されている。杖が英雄に近付く度、破壊の光を湛えて彼を照らす。
目潰し兼、あらゆる防御を貫通する絶対攻撃。
光を防ぐ鎧は無い。どこまでも光は入り込み、身体を侵食して細胞を撹乱する。細胞を破壊されれば、身体はグズグズになって溶けて死ぬ。
…だが。
「…。」
何故か英雄には光魔法が効かず、無言で鋭さを増した槍を躱すのみ。それを何処か予想していたのか、魔王は舌打ちをして言葉を紡ぐ。
「良いか、この『遮断の指輪』がある限り、お前の勝ちは絶対に無い!物理攻撃を全て消す最大の防御だ!」
今度は突きのみでなく、あらゆる方向への払いや突きを含めた猛攻を仕掛ける。
幾ら攻撃する機会があろうと、『遮断の指輪』の防御の前ではあらゆる物理攻撃が無駄の極み。
寧ろ、隙を晒してやろう。
どうだ?攻撃しても意味が無いという気分は。
お前らが生涯を賭して鍛えた身体能力は一瞬の隙を生む身体強化を行使するだけで、経験に裏打ちされた武術は三度に一度の補正を乗り越えることで、そして攻撃は完全に無効化できる。
叡智を学べば、このようにお前らを凌駕できる。
魔法を学べば、非効率な闘いなどしなくても良い。
猿は人間に勝てない、これは自明の理だ。
沸騰した思考で魔王は攻撃を続ける。幾ら隙を晒そうと関係が無い。自分だけがセーフティー、相手は当たれば一撃で致命。状況的にも、有利であるのは確定的だ。
それを読み取った英雄は思う。
なるほど、その魔法があるせいで彼は意地を張っているのかと。
無ければ、ようやっと彼の本領が見られるのかと。
ならば壊そうと。
英雄は、無茶苦茶な動きをしているせいで毎回『補正』が行われ、返って隙だらけになった魔王に向けて拳を握る。
避けながら拳を握った彼を、魔法により強化された彼の動体視力はハッキリと認識するも…どうせ無駄だろうと排して嗤う。
やれるものならやってみろ。
人類の叡智が結集されたこの魔法に、お前如きが打ち勝てるはずがないだろう。
「ハッ!」
幾度目かの突きが終わった所で、英雄は正拳突きを繰り出した。
踏み込みと共に地面が割れ、威圧感で巨大化した様にも見える拳が魔王を襲う。
さながら巨人の一撃だ。
そんな一撃に対し、魔王は躱すことも受けることもせずに、ただ直撃する。
ノーダメージなのだから、避ける必要性すら無い。
ドガンという凡そ拳が立ててはいけない音を立て、魔王は衝撃で吹っ飛ぶ。
だが分かっていれば対処は容易。
先程よりも早いタイミングで姿勢を制御し、優雅に地面に降り立つ。
「…どうだ?渾身の一撃が無に帰した気分は。この通り、俺の身体には傷一つないぞ?」
嗤って、煽る。
生真面目な仏頂面を晒している英雄に対して、愉悦の笑みを浮かべて勝ち誇る魔王。
生涯掛けて積み上げたであろう技量を踏みにじる歓び。魔王は今、それに浸っているのだ。
しかし英雄は魔王に指を指す。
「否、無駄では無い。」
「…は?」
魔王が心底呆れ返った様な声で返答するも――次の瞬間に『異変』が現れた。
ビキビキと、何かが割れる音が周囲に響き渡る。
観客達が無言で見守る中、静寂が支配する闘技場内をその音のみが闊歩する。
そして―――ダーレスの身体を包む白い膜、今まで如何なる攻撃を防いできた絶対防御が崩れ去る。
膜がガラスの様に割れ、それと同時にパキンッと手袋の上の指輪が粉砕する。
この事象は即ち、指輪にかけられた魔法が消失した事を現わしていた。
英雄は指を指したまま、狼狽する魔王に向かってその『理論』を説明する。
「その魔法は、恐らくダメージを膜が請け負うもの。無効と言っても、衝突によって生じるエネルギーを膜が吸い取っていたのだろう。ならば、その耐久を上回る力で叩けば良い。
―――壊れぬ盾など、無いのだから。」
理論上はそうだ。あくまで理論上は。
この『遮断の指輪』は、膜が物理攻撃を、文字通り『遮断』する魔法を使用者にもたらすもの。
膜が物理攻撃を防ぐメカニズムは、今現在英雄が解説した通り。
打撃によるエネルギーを魔力に変換し、指輪が吸収する。
攻撃すればするほど防御は堅牢に、完璧になっていく。
そういう魔法の筈だった。
…だが、何事にも『上限』というものはある。
マギウスの全ての叡智を結集したこの指輪にも、上限はあった。
『この世界に存在する破壊力は、これを上回ることは無い』と想定され、限界まで性能を高められた指輪であるが…上限がある以上、『無敵』ではない。
故に、そこを突いたとは英雄の談だ。
「あ…ああ…。」
ここに至って、魔王は狼狽の声を漏らして全身を見渡す。白い膜で覆われ、無敵の鎧で覆われていた肉体が剥き出しになっている。
例えるなら、今まで牢獄の外から漫然と獅子を眺めていたその状態から、急転直下として同じ牢獄に入れられる。天敵が潜む地帯に裸一貫で投げ出される。そんな絶体絶命の状況に陥ったのだ。
魔王の膝が笑い出す。カタカタと無様に滑稽に振動を始める。
足から始まった振動が胴体に伝播し、そして顔にまで達した時――ダーレスは『天才』と銘打たれた人生の中で、始めて『恐怖』と言う感情を覚えた。名誉に彩られた人生に、突如として全てを呑み込む暗黒が現れた。
死にたくない。勝てない。原始的な方法で叩き起こされた彼の本能は、身体を通して脳に訴えかける。今すぐ相手に背後を見せて、全速力でここから逃げ出せ。無様でもいいから地に這いつくばり、あの強者に赦しを請えと。
「…だが、私は魔王だ。」
本能を自慢の理性でねじ伏せ、原始的欲求から来る震えを止める。理性で以て本能を凌駕する。それが人間の特権であり、獣には出来ぬ所業。人間の粋たる魔王が、本能に踊らされるなどあってはならぬ。
――かつてない苦境に立たされた彼は、不思議と脳内が澄み渡っていた。
怒りによる曇りは既に無い。
恐怖による動揺は理性で殺した。
現れるのは、目の前の敵を殺すという冷徹な決意のみ。油断も慢心も無く、ただ殺す。
思えば、身体強化は魔法の中でも下位に位置するクソのような魔法だ。極めはしたが、それで負けたところで魔法の深淵の一端も見せていない。
俺が究めた魔法の深淵にして最奥の大魔法を用いれば――彼の化物は確実に倒せる。
「…分かった、お前の提案に則り、俺の最大魔法で勝負を決するとしよう。」
「承知した。」
魔法の発動を止められぬよう、勝負の方法をすり替える。無敵の鎧無き今、目に終えぬスピードで正拳突きを放たれたならば一撃で胴に風穴が開くだろう。
『魔法を止める』という選択肢を絞らせるための言動。公明正大を装う彼の獣ならば、必ず乗ってくると思っていた。
この魔法は発動さえさせれば、勝ちが確定する魔法だ。故にもうダーレスは勝ちを確信する。
魔法の発動を確約させたのならば、もう俺の勝ちだと。
「―――天に追放されし愚昧な神よ、この冒涜を見よ。」
詠唱を行いながら自分の親指を噛み、血で濡れた親指を地面に向ける。親指がゆっくりと地面に近付いて行く度に魔力が噴出し、風が嵐となって闘技場内を覆い隠す。魔法使い達は魔王の秘奥を見るために身を乗り出し、彼の英雄の死に様から考察を深めようと必死で目をこらす。
―――そして指が地面に触れた瞬間、闘技場の地面に紅い魔方陣が出現する。
一見普通の魔方陣だが、特異なのはその巨大さだ。半径100メートルの闘技場の地面全てを覆い隠すほどの魔法陣。当然英雄もその魔方陣上に位置する事になる。
それを確認するや否や、ダーレスは魔法開始の宣言を告げる。
「ここを死地とする。」
「…!」
ダーレスが詠唱を行った瞬間、英雄の顔色が始めて変わる。今まで仏頂面の鉄面皮だった表情が、ようやく動かされたのだ。
それを為したのは、両手両足の甲に瞬間的に穿たれた穴。
攻撃など全くされていない筈なのに、突然甲の中心に穴が穿たれたのだ。
当然、直径3センチ程の穴からは血が噴き出す。
紅い魔方陣に照らされた様相も相まって、既に全身が血で染まったように赤く見える。
そして何より不可思議なのが、手足がピクリとも動かない。
穴が開けられた瞬間のポーズ…構えた状態から意思通りに動かすことが叶わなくなったのだ。
まるで釘で打たれたかの様に。空中に、見えぬ釘で打ち付けられたかのように。
手足が震えるほど力を入れても、一向に拘束が解ける気配がない。それどころか、血流が刺激されて血がより穴から流れ出すのみだ。
その無様な様相を見たダーレスは、勝ちを確信した笑みを浮かべる。
「この魔法は、『死を定義する大魔法』。『磔刑』という概念に相手を縛り付ける事で、どんな魔法や物理的障害があろうが殺す魔法だ。」
その言葉を聞いた観衆達は、その恐ろしさに震え上がる。
正しくその意味を理解したのだ。
例えば、自分の代謝を限界まで高めて、身体のどの位置を切られようが死なない再生力を手に入れられたとしよう。
その状態であの大魔法に掛けられたとしたら、恐らく再生などせずに殺される。『死を定義する』とは、『あらゆる絡繰りを無視して死を与える』こととイコールだ。
不死だろうが不老だろうが、この魔法に拘束された者は等しく死ぬ。
『磔刑で死ぬ』という結論が既に用意されており、それに向かって突き進むのみだ。
―――あらゆる不死を殺すその魔法は、今までの魔法防護全てを過去にする革新的大魔法であった。
正に魔王の秘奥に相応しい。
正に魔法の頂点に相応しい。
その神業を目にした観客は、ある者は魔王に跪き、ある者は涙を流してその光景を仰ぎ見る。
素晴らしい。人は、運命すら手にかけることに成功したのだと。
人の死という運命を、好き勝手に制御できる段階に到達したのだと。
あらゆる魔法使いが羨望の眼差しを向ける中、ダーレスは勝者の余韻に浸る。
「ハハハハハハハ!どうだ、動けんだろう!こうまであっさり嵌まるとは、奥義を使うまでも無かったかもなあ!」
右手を顔に当て、今まで見せた最大限の喜悦を滲ませる。
確かに身体能力が優れていた。
今までは相手のペースに乗せられ、此度の大魔法も『よもや』とは頭に過ぎっていた。
…だが、蓋を開けてみればどうだ。
一方的に魔法を受け、死に直通のレールに乗せられた。今も血を噴きながら身体に力を入れているが、一向に拘束が破られることは無い。
自分の本領を発揮した時点でこうだ。英雄も所詮は猿、恐るるに足らぬという事を再認識した。
「無様、無様無様無様!俺はこの光景が見たかった!猿が、手も足も出ずに苦しむ様が見たかった!」
自分の優位性を確信した彼は、戦場で馬鹿笑いを上げる。彼に釣られて観客も立って拍手をし、大魔法を目にした栄誉と魔王の権威を称える。
その間も、英雄は血を両手両足から流出させながら抗い続ける。
それもまた喜悦の肴。その無様さを見て、魔法使い達は嗤う。
そら見ろ。人間様に逆らうからこうなるのだと。世界の中心は、知識と叡智。殴る蹴る等という原始的闘争は、獣のみがやっていれば良いのだと。お前が大言壮語を放ったせいで、お前の祖国はこれから滅ぼされるのだと。
―――喝采と狂喜の中、英雄は足掻き続ける。
ピクリとも動かぬ現実に甘んじる事無く、身体を震わせながら拘束に抗う。打ち付けられた足を地べたに踏ん張り、手の孔に風を感じながら拳を握ろうと試みる。
「ハハハハハハハ!無駄なんだよ!幾ら足掻こうと、幾ら力を入れようと、お前の磔刑は確定したんだからなあ!
―――さあ、決着としようか。」
表面上は笑みを消し、ダーレスは右手を英雄の方に向ける。
「お前は良く闘ったとも。魔法も扱えぬ分際で、非効率に良く鍛えたさ。」
右手を向けたまま、英雄へと一歩一歩歩みを進める。
「だが、全ては無意味。お前は鍛える場所を間違えたのさ。」
10メートル、5メートル、そして英雄の射程圏内まで、自ら近付いて行く。そして立ち止まると、未だ抗い続ける英雄の顔の前で、自分の頭を指差した。
「ここだよ、ここ。お前は頭を鍛えるべきだったんだ。分かるか?ここだよ。」
続いてダーレスは英雄の頭をトントンと叩く。
子供に諭すように、ペットに言って聞かせる様に。
徹底した下等生物扱いだ。
「ここが無ければ、人間様には勝てねえ~んだよ。ハハハハハハハ!」
至近距離で爆笑したダーレスの唾が、英雄の顔に撒き散らされる。誠心誠意の対応に答えるは、史上最低の侮蔑。獣の誠意など受け取るにも値しない。
「おっと、ここでやると血で濡れてしまうなあ?」
散々煽り倒した彼は、英雄の方を見たまま大股で一、二歩後ろに下がる。英雄の全体像を眺められ、返り血がかからないであろう位置まで下がったのだ。
「…?」
しかし三十秒ほど前に全体像を見た時とは、何処か違和感を感じた。
何かが違うような、そんな薄い印象をダーレスは覚えた。
…そう言えば、先程までの割れんばかりの声援が止んでいる。
一体いつからだ?
一体なぜだ?
「まあいい、死を確定させるとするか。」
どのみちコイツを殺してしまえば同じ事。全ての心配事は消え去る。
万が一にもここから逆転の目は無い。
もう、鼻先まで死を突きつけているのだから。その証拠に―――
「―――!?」
ここで、ダーレスは違和感の正体に気づく。拳が、握られている。
先程までは開かれ、釘を打ち込まれていた両手が、しっかりと握られている。
一瞬で血の気が引いたダーレスは、最後の詠唱を開始する。
この一節が唱え終われば、彼の英雄の身体を『槍』という概念が貫き、絶命させる。
急げ、急げ、急げ。
杞憂ならば良い、このままならば良い。俺の奥義たる大魔法が破られるはずが無い。
だが、この焦燥は何だ。胸に去来する、異常なまでの胸騒ぎは何だ。
早く殺さなければ。
「ロンギヌスよ、聖者を貫け!『嘆きの―――――」
刹那バキリという音共に、英雄の四肢が解放され―――
「『現刈り』」
―――その拳が、ダーレスの顎を掠めた。
「え―――――」
顎を揺らされたダーレスは、即座に体力を回復しようとするも、何も出来ずにドサリとその場に崩れ落ちる。立ち上がろうとしても、立ち上がることすら出来ぬ赤子の様によろめいて倒れるだけ。
魔法を唱えようとするも、脳自体に障害が起こったかのように、術式の構成が成功しない。
「な、なぜ…」
ダーレスは、当然の疑問を口にする。何故身体を動かせるのか。何故自分は魔法を使えぬのか。
両手両足から血を流した銀の英雄は、その疑問に律儀に答える。
「まず、何故貴殿が魔法を使えぬのか。それは顎を掠められ、脳が揺れているため。先程、魔法は脳によるものだと示されたので、脳を封じさせて頂いた。」
「あ…。」
ダーレスの脳内を過ぎるのは、先程までの勝ち誇っていた自分。確かに『脳を鍛えろ』とは言った。だが、ダーレスが言いたかったのはそういうことでは無い。
知識を付けろと、魔法を学べと、お前は猿だと言いたかったのだ。断じて『魔法は脳で使うもの』などと言ったつもりはない!
しかし魔法の発動に、脳が大きな役割を果たしているのは事実。現実としてダーレスは一切の魔法を封じられ、ダメージの回復もままならない状態だ。
「そして、何故私が動けたのか。其れは簡単です。先程の魔法は、『磔刑を確定させる魔法』。故に、身体を拘束している釘を上回る力を出せば、抜けぬ道理などない。つまり――――――
――――――最期まで足掻き続ける限り、運命が確定することはあり得ない。」
そんなバカな事があるか。
だって、あの魔法は、俺が300年かけて編み出した、人間の粋が創り出した最高峰の魔法なんだぞ。
それが、『拘束を上回る力を発揮すれば逃れられる』?
両手両足を釘で打たれた上で、魔術的な現象として固定される枷を破壊する?
そんな事は不可能だ。
不可能――――――
英雄の懇切丁寧な説明を聞き、理解の範疇を超えた事象を目の当たりにしたダーレスは、思考を停止し―――意識を手放した。
己の最大限の魔法が訳の分からぬ論理で突破された事に、『天才』として持て囃されていたダーレスの脆弱な精神は耐えられなかった。
―――気づけば、闘技場は嗚咽で塗れていた。観客の魔法使いは、全員の理論が、打ち立ててきた理論が、全て力押しにより敗北した事態を受け入れられなかった。自分達が『猿』と侮っていた北方の英雄如きに、今までの全てを根底から覆された。
皆一様に涙を流し、みっともなく嘆き悲しむ。
何が猿だと、本当に劣っていたのはどちらだったのかと。
誠心誠意の対応を棄却した挙げ句、国家元首たるダーレスが敗北するなど、恥の上塗りでしか無い。
英雄は、それを見ると―――丁寧にダーレスの身体を抱き、闘技場の出入り口で控えていた守衛に渡すと、『後を頼みます』とだけ告げた。
…最後まで誠意を忘れぬその男に、魔法使い達は皆、『英雄』の英雄たる所以を知ったのだった。
以降、魔法国家でのおとぎ話で、こう語られる事となる。
『魔法に我を忘れてはならない。魔法を扱うのは只人、魔法に使われることがあってはならない。
逆に、人として礼を尽くしていれば―――人は英雄たり得るのだ』と。
読了、ありがとうございました。スカッとしたら評価もよろしくお願いします。
※またアイディアが浮かんだので、この度連載を続けることとしました。連載版のリンクは下に張っておきます。