プロローグ
以前執筆投稿していた小説を改めてちゃんと書こうと思って新規で始めました。
プロローグ
寛政八年江戸。
「わ、若! 敵が――敵襲でござる!」
初老の武士が襖を勢いよく開けた先で、若と呼ばれた男が目覚める。
「何事じゃ!」
男が尋ねると同時に、鉄砲の音やつばぜり合いの音が聞こえる。そして事の重大さに気づいた男は叫ぶ。
「馬鹿な、ここは藩邸だぞ! どこの手の者か!?」
「わかりませぬ! しかし、敵は二百はおります!」
「二百だと!?」
藩邸を襲撃するうつけはいないと考えていたため、三十足らずの人数しか常駐していない。男は考える。新月の夜とはいえ、江戸の中心部にある藩邸を襲う理由はなにかと――
「若はお逃げください! 若にもしものことあらば、我々の面目が立ちませぬ!」
初老の武士は、男の腕を掴み廊下に出る。
「まさか!」
思い当たる節がたった一つだけあった。それは、一年前、堺の商人である今井家に囚われていた少女、キリ。男は、その少女を今井家から救い出し、藩邸に匿っていたのである。
「キリも連れて行く。槍を持て」
「若! キリ殿は拙者があとから送ります故に、まずは若だけでも!」
「ならぬ! 刀を貸せ」
男は刀を受け取り、廊下を走る。しかし、すでに襲撃者たちは藩邸の中に入り込んでいた。
「道を切り開くぞ!」
斬りかかってくる悪漢に対して男は、キン! と相手の刀を弾き、返す刀で斬る。
ドドドドと大人数が廊下を駆ける音が屋敷に響き渡っていく。
「ひるむな! 進め!」
お供を鼓舞しながら、駆け抜けていく。
たった数百メートルの距離が非常に遠く感じる。鬼神の如く敵を斬り捨てながら突き進む。
「うおおおおおお! 邪魔だ!」
男を斬り払う。しかし、その先には火縄銃を持った敵兵が銃口を向けていた。
「く……しまった!」
ここまでかと覚悟を決めた矢先、目の前に立ちふさがる初老の武士。そして、ドンという火縄銃特有の重い音が聞こえる。
「うおおおおおおおおおおおおおお」
立ち塞がった者が叫び、狙撃手に渾身の力を込めて槍を投げる。その槍は、狙撃手の首に吸い込まれるようにして刺さった。
「三原!」
三原と呼ばれた初老の武士は、足下から崩れ倒れた。
「も……申し訳ござい……ませぬ……キリ殿……を……護れず……に……」
「もう良い、しゃべるな」
三原の胸からは血が止めどなくあふれていく。傷口を押さえる手は真っ赤に染まる。段々と胸の鼓動が弱くなっていくのを感じる。
「わ……か……先に……先にゆきますぞ……」
「すまぬ……」
その言葉を最後に、三原は事切れた。口うるさい爺さんではあったが、ずっと今日までずっと背中を守ってくれていたのであった。人は失ってから、その真価を知るものだと痛感してしまう。
三原の血で真っ赤な手をみる。気づけば、男も満身創痍であった。刀は刃こぼれで、のこぎりのようになり、刀身にいたっては歪んでいた。十人を斬ったところまでは覚えているが、それ以上は覚えていない。
昔の将軍は何本も畳に刀を刺し、取り替えながら戦ったという。合戦の起きない今では刀の強度なぞわからないが、なるほど、理にかなった行為だったのだなと、今更ながら座学の大切さを知ったのである。
男が三原を看取り、自身の状態を確認していると、辺りは静かになっていた。
周りを見ると、敵兵が一斉に退いていくのが見える。男はいぶかしげに思ったが、辺りに倒れている兵士の刀を拝借し、目的の部屋まで駆け抜けた。そして襖をバン! と勢いよく開ける。
「キリ!」
「おやおや、遅かったですね」
しかし襖を開けた先に広がる光景は、これ以上にない最悪な結果だった。醜く太った今井家当主が、にたにたと嗤いながらこちらを男をみる。その横には、火縄銃を持った兵が二人。そして今井の斜め前には、短槍を持った兵が、一人の少女に切っ先を向けている。
その少女は、キリと呼ばれる十歳くらいの少女である。
「貴様! 藩邸を襲うとは、ただで済むと思っておるのか!」
「まあ、それは後からなんとでもなるでしょう。この子がいればねえ」
「お兄ちゃん! お願い! 私のことは構わないでください!」
少女が叫ぶ。
「ほらほら、この子もこう言っているのです。邪魔をしなければ、命までは取りませんよお?」
そう言うと、気持ちの悪い笑顔を男に向ける。
「ふざけるな! 貴様! こんなにも小さな子を捕らえ、閉じ込め、なにも感じないのか!」
今井家当主はその言葉を聞くなり、いぶかしげな顔をする。
「なにを言っているのですか、あなたは? こいつは人間ではない。アヤカシなのですよ? 家畜みたいなものです。家畜をどう扱おうが、文句を言われる筋合いはないですよねえ?」
「家畜だと……? アヤカシだろうと意思がある者を家畜と呼ぶのか、貴様は!」
「ぐっふっふっふっふ……ぐふふふふ……ふははははははは! 人ではない、人に利益をもたらすモノを家畜と言ってなにが悪いのですか? あなたは家畜を使わないのですか? あなたは家畜にも愛着が湧くのですかねえ」
「それ以上、その子を家畜呼ばわりするな――その子はアヤカシだろうとなんだろうと、人と話し、時に笑い、時には怒り、時には喜び、時には悲しむ。これ以上人間らしい人間はおらぬ!!」
「おやおや、相当入れ込んでいるみたいですなあ。こんな家畜ごときに」
今井家当主はキリの着物を掴み、思い切り顔を殴る。
キリは勢いよく畳に叩きつけられた。
「貴様あ!」
男は、斬り込もうと一歩踏み出した瞬間、ドンと火縄銃が噴いた。弾は男の右膝に当たり、膝の半分が吹き飛ぶ。男は体勢を崩し倒れると、畳には血だまりが広がっていく。
「いやああああああああ!」
キリが叫ぶ。
「ぐ……ぐぐ……」
男は歯を食いしばり、刀を支えとして立ち上がろうとする。
「もうお願いです! お兄ちゃん! 逃げてください!」
「貴様だけは……貴様だけは絶対にゆるさん。俺が死んだとしても、こんな横暴を藩が……幕府が許すとは思えぬ」
ずるずると足を引きずりながら、一歩一歩今井に近づく。それでも嗤った顔を隠さない今井家当主は、「まあ、三池藩には悪いことをしますねえ。折角、従五位下を叙任し跡継ぎとなる嫡子を殺してしまうことになるので」そう言いながら、キリの髪を引っ張り、脂ぎった顔を近づける。
「たあだあ? こいつがいれば、なんとでもなるでしょうがねえ」
「その子に触れるなあああ」
男は刀を構える。
「いささかあなたとの会話にも飽きましたし、そろそろ刻限です」
今井は、槍を持った兵士に目配せをする。
「では、さようなら」
「やめ――」
しかし、キリの願いは届かない。
男は、首を槍に突かれる。
「き……り……い……つか……たす……け……」
そして、畳にその身が沈む。
「おに――おにいちゃ――」
「さあ、行きましょう」
(お兄ちゃん、ごめん……なさいごめんなさい……この先、何年、何十年……いや何百年かかっても、絶対に―絶対に恩を返すね。ごめんなさい……)
キリは、男の亡骸に誓ったのである。