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ハッと、エドは目を覚ました。また、いつの間にか寝てしまっていたようだ。カーテンを閉め忘れた窓から、朝の日差しが優しい光を伴って、部屋を照らしている。無理な体勢で寝てしまったようだ。エドは、首をコキコキと鳴らしながら肘掛けに手を掛け、椅子から立ち上がった。
椅子で寝ていた所をジークに見られたら、どんなお小言を食らうか、たまったものじゃない。エドは、近くに掛けてあったジャケットを手に取り、バサリと羽織った。そして、戸棚から、手提げ鞄を引っ張り出すと、テーブルに広げてあった紙をかき集め、本と共に鞄の中に詰めていった。
「もう、起きているのですか。」
急に声をかけられ、エドの肩はビックと上がった。知らぬ間にジークが、朝食を持って部屋に入ってきていた。ジークはエドの姿を下から上へ、じっくりとなめ回した後、目を細めて、ジットリとした視線をエドに向けてきた。
「よもや、そのままの格好で、ベッドで寝ずに、そこら辺で寝た訳ではないですよね。」
「な、何故それを。」
動揺を隠そうと、一度鞄に仕舞った紙を再び取り出して枚数を数えるふりをしつつ、答えたが少し声がうわずってしまった。エドの、隠し事はいつも、上手くいかない。
「まあ、鎌をかけたのですが。やはり、そうだったのですね。昨日と同じ格好をしていて、皺一つ寄っていないベッドを見れば、誰でも見当は付きそうなものなのですが。」
口を動かしながらもジークは、テキパキとテーブルの上に朝食を置いていく。
「それもそうか。」
エドは、視線を下に落とした。指摘されるまで、自分の服が昨日と同じものであることに気付いていなかった。
「もうしばらくしたら出発ですから、パッパッと食べてしまって、着替えておいてください。あとそれと、ちゃんとこれからは、ベッドで寝るようにしてくださいよ。眠いと機嫌が悪くなって、相手をするのも大変なのですよ。」
「ああ、分かっているよ。」
「本当ですか。一回言って、治るのでしたらこんなにも、苦労しないのですけれどもね。」
「重々、承知しているよ。」
エドは肩をすくめた。
「はぁ。では、失礼します。」
一息ため息をついて、ジークは部屋から出て行った。本当に分かっているのかとでも言いたげに、一度チラッとエドの事を見た。
エドは、一人になった部屋で、着替えを済ませ、朝食を食べながら思索にふけった。
昔は、あの夢をただの悪夢だと思っていた。けれども、ある夜の夢は何時ものとは少し違っていた。
普段は、乾いた道の上を逃げるように走っていたが、その時は、雨粒が地面を叩き道の上にいくつもの大きな水たまりを作っていた。石畳に足を滑らせ、転んだ先の水たまりに映り込んだ自分の姿は、何時も鏡で眺めている自分とは違い、どこか他人の様な顔付きしていた。けれども、その顔は目元や口元に、今の自分の面影を重ねる事ができ、決して他人のもとは思え無かった。
その時からだ。これが、いつか起きるかもしれない事を疑似体験している夢だと思うようになったのは。
今まで色々と調べてきたが、ヘレルブルク王国が介入してきた理由は分からず、あの夢が現実となるのを、回避する為の方法も分からない。
今はまだ飢饉が起きているとの話しも聞かないし、今よりも自分の身長は伸びていたので、あの夢が現実になるとしたら、あと五年ほど後であろう。
朝食を食べ終え、ぼんやりとしていると、遠くで教会の鐘が鳴った。窓越しの、決して力強くはないが、ふんわりと包み込んでくれるような、そんな音だ。
「もうそんな時間か。」
エドは、荷物が入った手提げ鞄を持ち上げた。ずっしりとした重みが手に伝わる。そして、ドアを静かに閉めて、出て行った。
石造りの廊下は、音がよく響く。コツンコツンと足音を響かせながら、エドは歩いていた。今は、父も母も大勢の使用人を連れて帝都に出向いており、廊下で人とすれ違う事も無い。
昼間だというのに薄暗い廊下を、窓から入った光が、ポツポツと等間隔に照らしている。向こうから誰かが歩いてくるのが分かったが、逆光でよく見えない。その人は日だまりで立ち止まり、口を開いた。
「迎えに上がろうと思っていたのですが。少し遅かったみたいですね。」
「あぁ。なんだ、ジークだったのか。ちょうど今、出てきた所だよ。出発の前に寄りたいところがあるのだけれども。いいかな。」
「ええ、構いませんが、一体どちらへ。」
「書庫に用があってね。」
「書庫に、ですか…。」
眉間に皺を寄せて、ジークは若干の困惑をはらんだ目で見てきた。
「この前、読んでいた本の中に、面白い記述を見つけてね、それで読みたい本があるのだよ。」
「なるほど、分かりました。それなら、私も一緒についていきましょう。」
エドとジークは連れだって歩き出した。
「ところで、その面白い記述とやらは、何なのですか。」
しばらく歩いたところで、ジークは不思議そうな顔をエドに向けた。
「ああ、それはだなぁ…。」
エドは、持っていた鞄をガサガサと漁り、一冊の本を取り出した。表紙の角の革は擦れ、丸みを帯び、題名の部分に貼られていた金箔は所々剥がれ落ちており、作者の名前に至っては判読することすらできない。
「この歴史書、レメリア史録という名前なのだが、その中に、レメリア建国記から、引用された文章があったんだ。」
エドは本を、慎重に捲りながら言った。目的の文章がなかなか見つからず、何回も本のページを行ったり来たりする。
レメリア建国記。帝国が建国され、百年ほどたったレメリア歴一〇二年に、帝室の命で、纏められた歴史書だ。建国期の伝承を、体系的にまとめ上げたものだといわれている。しかし、その原書は一五〇年程前に、帝国図書館で起きた火災により、他の建国初期の文献と共に、灰と化した。残された写本も次第に、散逸し全容をうかがい知ることは今やできない。
「それは、また珍しい本から引かれていますね。」
「ああ、その引用されていた文章というのは、こんな感じで始まって…。」
「エド様、着きましたよ。」
ジークはエドの言葉を遮った。
「あぁ、ほんとだ。」
エドは、そそくさと持っていた本を鞄にしまい直した。
目の前には、黒塗りの重厚感あふれる、木のドアが現れている。嫌な音を立て軋む両開きのドアを、ゆっくりと押し開けると、紙やカビの匂いが混ざった空気が鼻腔をくすぐる。
部屋の中は天井近くまでそそり立つ本棚が幾重にも並び、装丁を施された本が整然と収められている。右手に目を移すとその一角だけは、本ではなく羊皮紙や紙の書類やらが、雑多に本棚に突っ込まれているが、収まりきらずに通路側に飛び出している。
昼間だというのに、窓にかかるカーテンは全て閉め切られており、薄暗い。天井近くに開けられた明かり取りの光だけが、部屋に舞うほこりを映し出している。
「やはり、本がここまであると、圧倒されるな。たしか、さる大賢者アルバートが、こう言っていた。
本のない部屋は、さながら魂のない肉体のようだと。そして、…」
エドが、気持ち良く話していると、パンパンとジークが手をたたいた。
「そこら辺にしといてくださいよ。」
「まだ小一時間は、話し続けられたのに。」
エドは口をとがらせた。
「エド様がその話をし始めると、止まらなくなるので困ります。早くお目当ての本を探してきてください。」
「はい、はい。」
ジークに背を向けながら、面倒くさそうに右手を、ひらひらと振りながら答えると、エドは、目的の本を探しにふらふらと本棚の間を歩いて行いった。
「確か、このあたりにあるはずなんだが。」
本の背表紙を指先で撫でながら、本棚の上段から順番に題名を確認していく。
「あったこれだ、これだ。」
本棚から、一冊の古びた本を、ヒョイと取り出すと、おもむろに表紙を開いた。
「ちょっと待ってください。読むのは、馬車に乗ってからでもいのでは。」
少し離れていた所に控えていたジークがツカツカと早足で近づき止めに入ってきた。口元はいつもと変わらず微笑んでいるが、目は全く笑っていない。別に少しぐらい読むのは別に構わないとは思うのだが、ずっと読んでいると、最後はジークに引きずられる羽目になり、それはそれで困る。
「分かった、分かった。馬車に乗ってから読むことにしよう。」
エドは、鞄に丁寧に本をしまい、パチンと鞄の留め金をかけた。