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初投稿です。
東の魔女。
この国でその名を耳にしない日はない。
ある人は言う。
「安寧を与えるモノだ。」と。
別のある人は言う。
「豊穣をもたらすモノだ。」と。
また、ある人は言う。
「悠久の時を生きるモノだ。」と。
ほのかに土の香りを纏った風が、カーテンを波打つように揺らす。春にしては温かな空気が、開け放された窓から、ぼんやりとした部屋に入り、日の光は、カーテン越しの部屋を包んでいる。天井からぶら下げられた、細かな装飾を施された燭台が、風に揺られ、左右に小さくふれる。
部屋には足の短いテーブルが一つあり、その上には豪華な装丁が施された本が、数冊積み上げられ、その横に紙が何枚も乱雑に置かれている。紙には走り書きした文字が並び、所々、丸でグルグルと囲んだ文字も見える。
テーブルの奥には、長ソファーが置かれ、その上には昼間だというのに、一人の男が目をつぶり、右腕を額に置いて横になっている。端正な顔立ちに鼻筋は通っており、切れ長な眼がどこか、理知的な様子を醸し出している。けれど、今の彼の眉間には、深く皺が刻まれ、どこか苦しげだ。
カーテンが不意に、パタパタと音を立て、彼の頬を柔らかな風が撫でる。ふと、彼の皺が緩んだようにみえた。
コン、コン、コン。
ドアがノックされたが、彼が起きる気配は一切無く規則正しい寝息を立てている。
コン、コン、コン。
しばらくしてまた、ノックの音が聞こえた。
「開けますよ。宜しいですか。」
ドア越しのくぐもった声が響く。
ドアを静かに開け、一人の男が入ってきた。先ほどの男よりは、わずかに身長が低いだろうか。前髪を後ろに流し、皺一つ無い服に身を包んでいる。
「エド様、まだ、寝ているのですか。明日が出発だというのに、そのように寝ていたら困ります。色々と用立てる事がまだ、残っているのですよ。」
そう言って男は、家具を避けながら、ソファーにツカツカと歩み寄ってきた。寝ている彼の肩に手を置き、優しく揺り起こした。
「…あ、ああ、ジークか、すまん、私は疲れていたようだな。少し仮眠をとるつもりが、思いのほか長く眠ってしまったようだ。」
ゆっくりと瞼を開け、何度か瞬きをした後、エドは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「そうですか。若干、眉間に皺が寄っていましたが、何か良くない夢でも。」
「いや、何か、夢を見ていた気がするのだけれど、どんな夢かは覚えていないんだよ。」
エドは、眉間を気にするかのように指でぐりぐりと押さえ、起き上がった。
「そうですか。ですが、最近うなされている様子をみうけられますが。やはり何か良くない夢でも見ているのではないですか」
ジークは、どこかエドを疑ってそれでいて、不安そうにエドの顔を見ていた。
「ジークが気に病むことでは無いさ。現に夢の内容を覚えていないのだし、見ているかどうかも怪しい話しさ。」
エドは、早口で言い終えると、これ以上の話を拒むかのようにソファーから立ち上がった。
レメリア帝国、エドワードとジークが暮らす国である。
建国から五百年ほどが経ち、飲み込んだ小国は数え切れない。広大な領土を持ち、人口は近隣諸国で随一を誇る。かつては強力な帝室が実権を握っていたが、広範な国土を持つ国の常ではあるが、地方への監視は年々弱まっている。
肥大化した官僚組織が賄賂を要求し、不正が罷り通る。諸侯の力が伸張し、帝都から派遣された按察使を拒否するなど日常茶飯事だ。
国の東端には大山脈、アルバニール山脈が連なり、夏でも白く輝く万年雪を抱える。険峻な山々は隣国の侵入を幾度も防き、帝国の人々は魔女が宿る山々として崇める。その山々を源とし、南部には大河ドルトエル川が悠々と流れ、その流れが涸れることはない。その周囲には肥沃な土地が広がり、豊かな穀倉地帯を成し、帝国の食料の半分近くを担っている。
北部に行くにつれ、穀倉地帯はなりを潜めていき、山勝ちな、痩せた土地が広がる。北部の農業生産は、決して多くない。痩せた土地のわずかな土壌に根を張る草木を餌に、細々と牧畜が行われている。
小麦の栽培の北限もこの数百年で、ずいぶん北上したとはいえ、南部と北部との貧富の格差は未だに残り、そればかりかその差が更に大きくなっている。
北部の多くの地域は、ずいぶん後年になり、帝国に恭順した地域が多く、北部の地域を蔑んでみる南部の貴族たちも多い。そのため、北部に十分な援助が行われているとは決して言えず、北部では過去にも、何回も大きな反乱を起こしており、平穏な土地とは言いがたい。
レメリア歴四九五年、このような状況の中、ラーンブルク公爵家に生まれたのがエドワード・ラーンブルクである。ラーンブルク公爵家は、長年、南部の穀倉地帯に広大な所領を持ち、南部の雄として、大きな力を持ち続けてきた。領民は百万近く、抱える騎士も一万を数え、南部随一の規模を誇る。
「あのような自分は捨てたはずなのに。」
エドは窓辺にある机の横に立ち、独りごちた。ジークに起こされてから、諸々の用事を済ませ、自室にやっと戻ってきた。ようやく一息つくことができる。窓の外を見れば、もうずいぶん前に、日は沈んでしまっている。今日は月明かりも無く、外は何も見えない。窓のガラスに映り込んだ自分は、うつろな目で
エドを見つめ返してきた。
「一人なりたいから、下がっていいよ。」
近くにいた側仕えのマリーに、顔だけを向けた。
「分かりました。何かありましたら、遠慮無くどうぞ。」
深々とマリーはお辞儀をすると、静かに部屋を出て行った。
「ふぅ。」
ドアが閉まったのを見計い、エドは息を吐き出し、机の側にあった椅子を引いた。椅子のクッションをポンポンと叩き膨らませた後、深く腰掛け、ゆっくりと目を閉じた。
今日の昼間は、久しぶりにあの夢を見た。小さい頃はよく見ていたあの夢だ。