一章 七 悪夢
七
「さっさとずらかろうぜ」
建物を出て空港出口に着いた時、生臭い陰風が俺の前髪を揺らした。古城戸も風に押されるように足を止める。夢の中で吹く風は、不吉の前兆なのだ。
「よくない感じね」
古城戸はそう言って辺りを注意深く見渡す。俺も周囲を警戒。
突如轟音を立てて正面の壁が粉微塵になった。俺と古城戸は互いに身構えて正面を注視する。破砕された壁の向こうには、黒い達磨に無数の手足がついた異様。明らかに人間ではない。
次の瞬間、俺たちは無言で回れ右からの全力疾走を開始。後ろを振り返ると、あからさまに追って来ている。どう見ても「オレオマエトモダチ」という雰囲気ではない。
黒い魔物が進む毎に周囲の車やバス、警備員が吹き飛ばされていく。だが夢の中ではパニックというものはあまり起きない。皆、ほぼ無意識に過ごしているのだ。
さて、どうしたものか。撃退するか振り切るかだが、今は逃げるしかなさそうだ。夢の中なので、死んでも現実で死ぬわけではないとはいえ、古城戸の『雷沢帰妹』は『入手したものを持ち帰る』ことで現実に持ち出せるようになるから、ここで死ぬわけにはいかない。
俺たちはビルを出て右に曲がり、空港前の豊中市蛍池小学校の中を進む。二十時前だからもう学校は真っ暗で誰もいないようだ。
黒い魔物も小学校に入る。無数の手足が機械のように蠢くのが見え、嫌悪感を催す。小学校のブロック塀が砂のように崩れて黒い身体が滑り込んでくる。
俺たちは九十度方向転換。古城戸は早くもバテ始めた。秘書の格好だから、靴は革靴だ。夢の中なのにバテるのは肉体のイメージが強いせいだろう。
後方三十メートルほどに迫った異形から逃げながら、古城戸に吐き捨てる。
「なんだあいつは!」
「わかんない!」
「古城戸の兄貴とかいうオチじゃないだろうな!?」
「あんな家族はいないわね!」
「古城戸に粘着しているように見えるが!?」
「ストーカーもいないってば!」
「あれを撃退できる武器とかないのか!?」
古城戸は走りながら、上を向いて考える。
「撃退できるもの、撃退できるもの~! ニューナンブM60!」
鋼色のニューナンブM60出した古城戸は、俺に投げてよこした。日本の警察官が持っている銃だ。俺たちが警察身分ということもあって、とっさに思いついた武器がこれだったのだろう。俺は横を走りながら受け取る。ずしりと重い。実銃を手にするなんて初めてだと気づいた。こんな小さな拳銃では幾分心許ないが、俺もこれなら使い方がわかる。
「お願い!」
古城戸は自分で撃つよりは俺が撃つほうがマシだと判断したようだ。俺は慌てて拳銃の撃鉄を起こし、走りながら後ろを振り返って片手で銃を魔物に向ける。照星をあわせて、引き金を引いた。
その瞬間乾いた音とともに銃を握る右手が後方に跳ね上がった。それが発砲の反動だと気づいたのは一瞬後。もう少しで銃を取り落とすところだった。
「あたってないわよ!」
古城戸は走りながら後ろを二回、三回と確認しながら悲鳴を上げる。
「くっ!」
俺はもう一度振り返って、足を止め、今度は両手で拳銃を構える。化け物は二十メートルの距離まで迫っており、じっくり狙う時間はない。照門と照星が重なる一瞬で、引き金を引いた。再度の銃声。先ほどと同じ反動が来るが、わかっていれば耐えられる。
銃弾は間違いなく命中したはずだが、化け物は動きを止めずに向かって来るのが分かった。そもそもあの黒い身体に夢の銃弾が通用するのかもわからない。
「だめだぞ!」
俺は銃を足元に放り投げ、先を走る古城戸に悲鳴のように叫んだ。
追ってくる黒い魔物は電柱をなぎ倒し、車をアルミ缶のように潰しながら迫ってくる。人間などひとたまりもないだろう。恐怖のあまりアドレナリンが噴き出てくるのを感じる。
古城戸は再度の『雷沢帰妹』で、今度はバイクを出した。撃退ではなく逃げる方向でいくらしい。すばやく跨った古城戸はエンジンスタート。鋼鉄の咆哮で空気が震える。ギアをローに入れると、二回空ぶかしをする。
化け物がもう手前まで迫っているが、俺も後方に飛び乗る。その瞬間、古城戸はアクセルオン、白いトライアンフ・デイトナ675が急発進。加速のGが俺をバイクから振り落としに来るが、運転手の古城戸に掴まる。右手に熱くやわらかい感触。で、でかい。十三歳のくせに生意気な乳をしていやがる。
「ちょ、ちょっと由井薗君!?」
古城戸がもぞもぞと身体を動かす。
「許せ! 今は手が離せない!」
古城戸はさらに加速しながらシフトアップしていく。
「バカァ! 変態! 降りなさいよ!」
「ま、前を見ろ!」
正面にコンクリ壁が迫るが、古城戸は小さい身体を左に思いきりバンクさせ、急旋回。俺も身体を倒す。カーブを抜けたところで再度スロットルオンすると、三気筒エンジンが誇り高く吼え、前輪が浮いた。デイトナ675は三秒で時速六十キロメートルから時速百キロメートルを突破。
古城戸はいつの間にかゴーグルをしていたが、俺は裸眼だ。時速八十キロメートルを超えると目を開けて前を見るのが困難になる。時速百キロメートルではもう前を見ることはできない。速度が落ち着いたところで、右手は古城戸の腰にずらしておく。
十分程走って、古城戸はバイク上で伏せていた身体を起こす。古城戸がスロットルをオフにすると、デイトナの刺激的な吸気音が響く。どこぞの大学の研究によると脳が一番興奮する音というのが、このデイトナのエンジン音らしい。
「振り切ったかしら」
俺も後部座席から後ろを振り返る。何も追ってくる気配は感じなかった。
「撒いたかな」
古城戸はバイクを停車させ、サイドスタンドを出すと俺に降りるように促した。十三歳の身長で、デイトナ675を支えるのは辛そうだったのでさっさと降りる。ローダウンされていそうだったが、そもそももう少しシートが低いバイクを出したほうが良かったろうに。
俺がバイクを降りると古城戸も降り、ゴーグルをミラーに掛けた。デイトナ675はそのまま乗り捨てるようだ。無尽蔵に出せるし、夢の中だから気にする必要もないのだが、貧乏性の俺はもやもやする。
「念のため車に乗り換えましょう。もうモノは手に入れたし、さっさとゲートに行ったほうがいいわね」
確かにあのバイクは目立つ。乗り換えたほうが無難だろう。古城戸は青いトヨタAQUAを出し、運転席に向かう。
「十三歳が運転していいのか?」
俺は吐き捨てたが、古城戸は気にした様子もない。無視かよ。必然的に、俺は助手席側のドアを開けて乗り込む。古城戸は背負っていたA四サイズの書類がギリギリ入る小さめのリュックを後部座席に放り込む。預かった書類を持ち帰らなければ。
エンジンがかかり、軽い振動を感じる。AQUAはかなり静かだ。サイドブレーキを解除する音が聞こえ、古城戸がチェンジレバーをドライブレンジに入れると車はゆっくりと発進。
「ゲートはどこだ?」
「そうねぇ、大阪の街中だからなぁ。たぶん高速道路かな」
伊丹空港からバイクで逃げ回って走り、現在地は小路あたりだ。俺はモノレール小路駅を確認。
「小路か。なら吹田ジャンクションから乗るのが楽かな」
俺は流れる景色を見ながらそう伝えた。
「そうか、由井薗君は大阪出身なのね。じゃあ道案内はよろしく」
「やっぱり俺が運転したほうが良かったじゃないか。あ、次そこ左だぞ」
青い車体は夜の街に溶ける。車内はラジオもオーディオもかかっておらず、時折俺の案内がナビのように流れるだけで古城戸は特にしゃべらなかった。胸を触った件についても蒸し返してくる様子はない。そもそも夢の中での話だし、古城戸は夢の中では十三歳だ。(その割には発育がいいが)こちらから言い出すのも、意識しているようで腹が立つし、今さら言ったところで微妙な空気にしかならないことはお互いわかっている。
中央環状線から吹田ジャンクションへ進み、料金所のETCレーンを通過したあたりであたりが白んだ。夢の出口、ゲートに近づいたのだ。ちらりと横の古城戸を見る。ゴーグルをしていたせいで若干髪が乱れている。それでも十三歳とは思えない美貌を放っている。俺がこの世界を知ることになったきっかけの美女。あの祭りの日に収めた写真は今でも消さずに保存してある。やがて、古城戸も白に包まれて見えなくなった。
ようやく、目が覚める。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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