八章 五 『山沢損』
五
五月一日の朝は静かだった。延行と冬美は八丈島付近の神子島に借りた島に建っている小さな小屋で朝食を摂ると、島の一番高い丘の上に二人で座った。
延行は妹の支配を解きすべてを話すべきかをずっと悩んでいたが、ついに話すことはできなかった。夕子と海那岐姫が同化して命を救ったこと、夕子と似ているから抱いてしまったこと、夕子との約束を果たそうとしていること。どれを話しても冬美を傷つけてしまうだろう。
自分は何故神の怒りを買ってしまったのだろうか。海那岐姫と同化したのは夕子だし、夕子の計画も実現には至っていない。一番の心当たりは神と同化した冬美を抱いてしまったことだが、あれは合意の上だと思っている。
だが、これらは人間側の都合であることも事実だ。神々の判断基準においては夕子の関係者である延行ともども裁きの対象となったと考えるしかないだろう。
延行が立ち上がって膝の砂を払おうと屈んだとき、頭を掠めて地面に何かが激突した。延行は驚いて地面を確認する。
延行を掠めたのは甲虫だった。形はカナブンそっくりだが大きさはピンポン玉ほどもあり、鈍色をしている。延行は地面に転がった甲虫を踏みつけてみたが、甲虫は潰れず地面にめり込んだ。
気が付けば周囲には同じ甲虫が飛び回り、次第に数を増していた。ざっと目算した限り百を超えていたが、数えているうちに次々とその数は増していく。いつの間にか甲虫の群れは黒い霧となって延行の周辺を飛び回る。
「くそっ、二千匹くらいはいそうだな」
甲虫が人間を攻撃してくるなどありえない。神の刺客とみて間違いない。
延行の因果、『山沢損』は支配の因果であり、目の前の甲虫を支配することもできる。だが二千匹を支配するのは骨が折れるだろう。
甲虫は周囲から急速に軌道を変更し、棒のような形状となって延行に直進。その速度はバッティングセンターで見たことがある時速百四十キロほどの速さで迫る。
延行はかろうじて躱したが、甲虫の塊は次々とアメーバのように形を変え、再度延行に襲い掛かる。あの鉛の砲弾のような攻撃を受けたら無事ではすまないだろう。
「うわっ!」
間一髪で避けた延行は、冬美に『雷沢帰妹』でグレネード・ランチャーを出させると甲虫に向かって撃ち込む。爆風で甲虫は吹き飛んだが、ほとんど傷ついていないようだ。
「何でできてるんだよ! 硬すぎだろ!」
グレネードが通用しないならば銃や刃物も通用しないと思っていいだろう。そうなると神経ガスや酸性の液などの化学物質による攻撃しかない。だがここでそれを使っては自分や冬美、あるいは周辺の島民を巻き込む恐れもあった。
有効な戦術を見いだせないまま延行は冬美を連れながら回避を続ける。
甲虫は物量攻撃を再開。高速で動きながら全方向から一匹づつ延行を急襲。何匹かは躱した延行だったが、ついに横っ腹に甲虫の突進を受けて吹き飛ばされる。今の一撃で内臓を損傷したかもしれない。胃から逆流した血を吐きながら延行は立ち上がると再び甲虫の群れが高速で突進。延行が手を突き出すと五匹程の甲虫が延行の前に集まり小さな盾となる。
延行は『山沢損』で少しづつ甲虫を支配し始めていた。
甲虫の群れが雪崩のように延行に激突。支配した甲虫を盾として心臓と頭部を防御。しかし、右腕が甲虫の攻撃により千切り飛ばされる。
「ぐあっ!」
右腕からは血が噴き出し、内臓も損傷している。だが延行の顔には笑み。『藤柄八山勾玉』の欠片が延行を不死にしている。千切られた腕はたちどころに再生開始。失われた血液は体内で生成され、顔に血の気が戻る。延行は不死身となっていたが、脳や心臓を破壊されて意識を失うわけにはいかないので、頭部と心臓は死守しなければならない。
延行は冬美を確認。冬美には傷一つない。やはり甲虫は冬美には攻撃しないらしい。狙いは延行だけのようだ。だが延行は冬美を盾にする考えはなかった。妹を盾にする兄など人として最低だとわかっていた。
甲虫は再度集結し、延行に突撃の構え。延行は無事な左腕を突き出すと今度は十五匹程度の甲虫が延行を守る。『山沢損』の支配は少しづつではあるが甲虫の群れを侵食していく。
やがて支配した甲虫が百匹を超えると、延行は甲虫を足場としてサーフィンのように乗ることが可能となった。やがて甲虫との闘いは空中戦となり、激しいドッグファイトとなっていた。
延行は必死に回避を続けながら全力で『山沢損』を発動し続けていた。
身体をあちこち損傷しながらも『藤柄八山勾玉』の力で再生を繰り返し、戦い続けた。やがて日が沈む頃、すべての甲虫を支配した延行は膝をつき、肩で息をする。
「なんとか……しのいだか……」
初戦は勝利した延行だったが、当然このままで終わるとは思えない。神が手を引くまで戦う覚悟はできていた。それに延行は今日の戦いで自信をつけていた。一撃でやられない限りは宝玉が回復してくれるし、相手が一体なら支配で即決着する。警戒が必要なのは意識外からの攻撃、つまりは不意打ちだったが、それも二千匹の昆虫を支配したことで解決した。昆虫は眠らないから不寝番には最適だったのだ。
その日の夜の夢は、見知らぬ荒野だった。見たこともない赤黒い雲模様に、泣き声が絶えず聞こえてくる。泣き声のするほうに向かって歩いても一向に声の主は見当たらない。冬美もいないため、延行は不安になった。
「なんなんだよ、ここは……」
延行は孟婆の夢に侵され始めた。この夜は嘆きの原を彷徨うこととなった。方角は全くわからず、どこに進んでも景色は何も変わらない。絶えず聞こえる泣き声は延行の精神を蝕んだ。
延行は三日間程荒野を彷徨った頃にようやくこれが刺客による攻撃だと気付いた。相手を支配する能力は無敵だと少し驕っていたが、こういった精神攻撃に弱いのだということを知った。
やがて一ヶ月が経過し、夢から覚めた延行の精神は疲弊しきっていた。もうあんな夢は見たくない。あの夢を何度も見て正気でいられる自信はなかった。なんとか夢の主を突き止めて斃す必要がある。
五月二日の朝、天気は大雨だ。悪夢の精神的ダメージを抱えたまま次の戦闘は始まった。敵は複数いるようだが、延行の能力を知っているのか姿を見せない。延行の『山沢損』は相手を視認する必要があった。昨日の戦いからその情報が相手に取られていると考えていいだろう。
草むらの影に見え隠れする一体は、中国風の鎧を着た大男のようだった。他にも巨大な蛇や犬に猿もいるようだが延行の視界に入ろうとはしない。かといって気を抜くと背後からナイフを投げてくる。延行は昨日支配した甲虫を守りに使っていたため、背後からの攻撃はすべて甲虫が防いでいた。二千匹の甲虫は周辺を飛び回って警戒し、固まって盾となるため使い勝手は非常にいい。
どうにかして相手を視認し、『山沢損』で支配したかったが、なかなか姿を見せないため延行はイラついた。昨日からの精神疲弊も重なって、体力の消耗も早い。
延行は冬美とともに甲虫をサーフィンのように固め、足場にして空高く飛翔した。上空から見れば相手を見られるかもしれないと考えた。
十五メートルの高さに上昇し、周囲に隠れる者たちを探す。その瞬間、草むらから青い紫電が走り足場としている甲虫の塊に直撃。延行も強烈な電撃に感電し、一瞬意識が飛ぶ。足場の甲虫は気絶し、延行と冬美は落下。ビル五階の高さから落ちては無事には済まない。延行が冬美に指示すると、冬美は雷沢帰妹で大きなマットを出し、二人はその上に落下した。
「冬美もろとも殺すつもりなのか!?」
延行は姿を見せない相手に声を張り上げたが、返事は無い。
延行は先ほどの電撃は危険だと判断した。電撃は見てから躱せるものではないし、先ほどの威力のものは直撃すれば恐らく高い確率で死ぬだろう。延行が甲虫に乗って遮蔽物が少ない空に上がる瞬間を狙っていたのだ。
意識を取り戻した甲虫は再び延行の周囲を飛び回り、警戒しているが、何度もあの電撃を受けきれる保証はなかった。もう甲虫を使って空を飛ぶのは危険だろう。また狙い撃ちされるに違いない。
このままでは長期戦になってしまう。それは延行にとっては不利だ。だが、そんな延行の思いとは裏腹に、相手は引き揚げたようだった。どうやら今日は延行の視認範囲や反応速度を確認に来たかのような、相手の情報は最低限に、こちらの情報は最大限に取られた印象。相手には相当戦い慣れたやつがいる。明日以降の戦術は考えなければならない。
疲れ切っていた延行は小屋で簡単な食事を済ませ、甲虫に警戒させながら眠りについた。
夢の中で延行は自宅にいた。まるで両親が健在で、冬美が小学生、夕子と付き合っていたあの平和な過去に戻ったかのようだった。
「冬美ー?」
延行は声を張り上げたが返事はなかった。何気なく一階の洗面所に行くと、鏡には今と変わらぬ十六歳当時の延行が映っている。延行は鏡を見ながら髪をかき上げた。右手に違和感を感じたのでふと目を落とすと、大量の髪の毛が抜け落ちていた。
「うっ……」
延行は得体のしれない恐怖に心臓が締め付けられた。再度、頭をゆっくりと撫でると、また大量に髪が抜けた。思わず鏡を見ると、頭の片方だけ禿げ上がった自分が映っている。
延行は声にならない呻き声を上げ、これは昨日と同じ夢での精神攻撃だと判断した。攻撃元を何とかしなければ。
「くそっどこのどいつだ!」
そう怒鳴った延行だったが、口の中に違和感。何か硬い物が口に入った。思わず洗面台に吐き出すと、なんと自分の奥歯だった。延行は頭から血の気が引いた。延行は家の中はもちろん、家の周辺も探し回って攻撃の主を探したが、影すら見つからなかった。ふと窓ガラスに映った自分を見ると、頭は落ち武者のように禿げ上がり、歯は前歯以外は全て抜け落ちたおぞましい姿へと変わり果てていた。
指がむず痒いのでふと見ると、爪が浮いて、今にも剥がれ落ちそうだ。延行は思わず固唾を飲み込んだ。
あまりの恐怖に延行の目には涙。亀のように蹲って嗚咽を上げる。「もう勘弁してください、許してください」と泣きを入れたい気持ちを夕子と冬美の顔を思い浮かべて必死に堪えた。
「俺は……こんなことで折れない!」
恐怖を無理矢理怒りに変換し、延行は立ち上がった。
夜中の四時に目が覚めたが、目覚めは最悪だった。疲れが抜けていない。こんなコンディションで今日も戦い抜けるだろうか。先ほどの恐怖のせいでまだ指先は震えていた。思わず自分の爪を確認し、舌で口の中に歯があることを確認し、手で髪の毛があることを確認した延行は、再度涙を流した。
五月三日の朝が来た。
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