一章 四 新人教育一限目
四
事務所の九階は防音の研修室になっていて、そこでは俺が教育係として後輩達を育成している。俺は部屋の教壇の後ろに立つと後輩を見渡す。五人の後輩はみな若い。まっすぐな瞳が俺に集中する。
俺は教檀に手をついて話し出す。
「人間が睡眠中に見る夢とは、現代の脳科学的には脳が休息中に情報整理を行っているため見るものというのが一般的な説とされている。睡眠にはレム睡眠、ノンレム睡眠の二種類があり、夢は脳波や眼球の動きの調査等からレム睡眠時に見るということが報告されている」
俺はそこで話を切ると、生徒はみな、「だいたい知ってる」という反応を示す。
「だが、そんな情報はすべて嘘だ。簡単にいうと、夢は別世界になっていて、人は夢を見ている間は『そこ』に魂を接続している。『そこ』とは、この世界すべての因果が集まる場所であり、どんな事象もありえる世界なんだ」
後輩はこれまで何度か聞いた話だということもあり、いまいち退屈そうだ。
「あちらの世界には時間の概念がない。過去や未来のことを夢で見たり、死んだはずの人が出てくるのもそのためだ。正直、俺は現実世界と夢世界、どっちが真の世界の姿なのか、わからなくなる時がある」
後輩の何人かは、夢に潜入したことがあるので、感覚として理解しているだろう。
「両方の世界を行き来するようになると、肉体をともなうこの世は例えるなら、池の水面に何かがぷかり、と浮かび上がってきて、何だろうと目を凝らすと葉の表面が見えただけ、というような、そんな感覚だよ」
後輩達は俺の話の続きを待つ。最前列の女子、鳴神涼子は先ほどから口が開いている。
「この世の因果は大きく六十四種類に分かれていて、この世で起きることはすべてこの六十四種類のどれかから発生している。古城戸は『雷沢帰妹』の因果に到達した人間だ。易における『帰』は嫁入りすることであり、『沢』は流れのままに、悦びのままに、という意味がある。『雷沢帰妹』は欲望のままに行動すると失敗するよ、という凶の暗示であるのが一般的な解釈だが、裏を返せば欲望のままに手に入れることができるということで、古城戸はこの因果を強引に利用して、夢の中で自分が手に入れた物を現実世界に取り出すことができる」
俺はホワイトボードに『雷沢帰妹』と書く。
「今書いたレジグマ、というのは俺たちの中の便宜上の呼び名で、正しい中国語の発音ではないから注意するように。正しい発音は『レィジィグィマィ』が近いかな」
後輩達は驚きを隠せない。今俺が話したことは国家機密とも言える極秘事項だ。後輩たちは皆、その秘密を厳守するに足る、厳選された人物たちである。今日の会議で藤原の部下、上田が言っていた『どこでもドア』にしても、他人の夢から引き出してきたものだ。狙ったものを手に入れるのは難しいが、現実では手に入らないものも入手できるのが驚異的だ。
俺は話を続ける。
「何かしらの因果に到達した人間は『八卦』から『パーグア』と呼ばれ、因果に起因する能力を手にする。八卦という単語は君たちも聞いたことぐらいはあると思うが、中国の占いだ。『パーグア』は日本と中国にしかいないらしい。俺も『パーグア』だが、利用価値はほぼ無いに等しい。古城戸ほど現実離れした『パーグア』はおそらくいないだろう。基本的に『パーグア』は自覚している者は極少数いるものの、無自覚のまま一生を終えるケースのほうが多い。俺のように実用性がほぼないものがほとんどであり、気づかないんだ」
後輩達は、一人を除いて自分たちがどどの因果に起因する存在なのかをまだ知らない。だから能力についても無自覚だ。それはこれからじっくりと辿り着き、モノにしていく必要がある。
「由井薗先輩」
最前列の鳴神が手を挙げた。目で促してやる。
「私でも古城戸所長と同じ因果に辿り着けますか?」
誰でも古城戸の能力は欲しいだろう。
「まず無理、という回答になるけど、そう答えると逆に何が起こるかわからない」
鳴神は意味がわからず呆けて返事もできない。
「それは自分がどんな人生を送るか次第なんだ。恋でも仕事でもいい。その中で自分の因果が必ず見えてくる。古城戸は過去に相当キツい恋をしたはずだ。それが『雷沢帰妹』につながっている」
鳴神は興味津々といった感じで話に聞き入る。
「でもあの所長だったらどんなイケメンでも落せそうですけどね」
別の生徒、梵宗次郎も茶化す。
「俺だったら即オーケーだけどな~」
俺は手を二回叩く。
「さっきも言ったろ? キツい体験でないと意味がないんだ。君たちは皆、過去に相当キツい経験をしているはずだ。そういう人間を俺たちは集めたんだよ。それに基づいた因果がきっと君たちにはある」
梵は確か両親が離婚して母親についていったが、学費に困った母親が自宅で風俗まがいのことをやりだした。高校生になった梵はある日、母親の嬌声に起こされ覗きにいったところ客のフリをした強盗に目の前で殺されたという。
梵は押し黙る。暗い過去を思い出したのだ。
そこで定時の鈴がなり、新人達は姿勢を正す。
「じゃあ、今日はこれで終わり」
俺はそう言って九階研修室を出た。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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