五章 六 愛の炎がまだ消えていないことを知っているから
六
赤道に近い中東だが、冬の夜の気温は十度を切る。今日は特別に冷え込み、積もってこそいないが雪が舞っている。
あたりは恐ろしいほど音がせず、雪が葉に落ちる音すらも聞こえそうなほどだ。
「静かですね……」
鳴神がそう言うと古城戸は頷く。
「耳が痛くなるくらい静かね」
鳴神は何気なく空を見上げると、恐ろしく澄んだ大気の夜空には星がひしめき、厚い銀河を映し出していた。その神秘的なまでの輝きに、鳴神は息が詰まる。この四ヵ月の間にも何度も夜空を見上げたが、今日の夜空は一段と美しい。
「雪が降ってるのに、星がこんなに」
鳴神はかろうじて声に出す。古城戸も空を見上げる。排気ガスや工場による大気汚染も無く、電気による灯りも全くない西暦ゼロ年の星空はまさに神話の煌きを放っていた。
「昔の空はこんなに綺麗だったのね」
鳴神は星空を指す。その先には青白く輝く真円の月がある。
「月が、あんなに大きくて綺麗」
月は毎年数センチづつ地球から遠ざかっている。とはいえ二千年ではせいぜい二百メートル程度の距離だから、見た目に影響するほどではないはずだ。だが古城戸の返事は鳴神の予想と違った。
「夢で月が見える時はどういう時か習った?」
「あっそうでした。花鳥風月。月は確か死人の魂が近くにいるんですよね」
「そうよ。月なら男性ね」
「この時代の人はみんな死人のはずだから月が出てるのは当たり前ですね」
「今日はまさに聖夜。 あの月の輝きは、つまりそういうことなんでしょうね」
聖人の魂の輝きが、あの月に顕現しているのだ。
「花も咲いてますね。冬なのに……」
十二月だというのに、畑にはコスモスが狂ったように咲いている。今は夜なので本来のコスモスの花の色ではなく、月の光を受けて青白い花となっていた。
コスモスは日本の気候で十一月に咲く花なので、中東で十二月に咲くこと自体はそれほどおかしくないとはいえ、今日咲くことを申し合わせたかのように見渡す一面がコスモスで埋め尽くされている。
夜にも関わらず、馬小屋の屋根には聖人の誕生を待っているのか、多くの鳥が集まっていた。気が付けば辺りの畑の中には月の光を反射しているのか、無数の目が光っている。目を凝らして畑を見れば、鹿や狼、兎などの動物たちがいて、数えている間にも次々と集まり、その数を増やしているようだ。不思議なことに動物たちは鳴き声一つ上げず、静かに馬小屋を見守っていた。
鳴神は白い息を吐きながら笑顔で古城戸に言う。
「もしかして、みんな産まれるのを待っているんですかね?」
「神の御子の誕生に立ち会って、自分の子供にその喜びを伝えるつもりなのよ」
古城戸がそう答えると鳴神は胸の前で指を組む。
「素敵。もしかしたら、現代の動物たちも神の子の話を聞いているのかもしれないってことですね」
「もしかしたらじゃなく、そうなのよ。鳥と哺乳類は全て親から神の御子の誕生が伝えられているの」
鳴神は静謐とした空を見上げる。
「神様は本当にいるんでしょうか……」
今まさに世界はひとつの命を歓迎しようとしている。大地も空も、動物も植物も、すべてが待ち望んだ存在なのだ。
古城戸は微かに震える声で語る。
「私も今まで確信が持てなかったけど、ようやく確信したわ。間違いなく神はいる。でもそれは現実ではなく、夢のほうだけど」
鳴神は息を飲み、馬小屋を覗き込む。
「こっちが世界の真の姿ですよね。現実世界は肉体があるっていうだけでほんの一瞬の出来事に過ぎないって由井薗先輩が言ってました」
「うん……夢って名前がついてるけど、別の次元ってことなんだと思う。時間も、距離も、物理的な限界もない、この世界」
「今見ている星空や雪が降る景色も、実際には無いってことなんでしょうか」
「無いってわけじゃなくて……逆に何でもありすぎるのよ」
鳴神は地面の花を摘み、目を近づけて見る。
「やっぱり本物にしか見えませんね、ハハ」
人間は五感以外の手段で事象や概念を把握することはできない。だがパーグアは太極から生じる因果を感じることができる。夢においても五感だけでなく、因果の流れや組み合わせなどを感じることで、その夢が伝えたいことを受け取ることができるのだ。
「現実ではなくても、そこに存在のは間違いないの」
「……私もパーグアになれるんでしょうか? 私の因果はなんなんだろう。由井薗先輩ならわかるのかな」
「由井薗君があなたの因果に気づいていたら私に教えてくれるはずだから、まだわからないのね。天花寺さんはわかったみたいだけど」
「いいなぁ。どんな能力なんですか?」
「因果は『風天小畜』。能力は見つめた人の人生ダイジェストを見るとかだったかな。由井薗君は直近一時間だけ見れたって」
「人の人生を追体験するってことですか。なんとなく、天花寺さんが過去にあったことがわかるような気がします」
「鳴神さんも昔ひどい体験をしているでしょう? そこから予想できたりするんだけどね」
鳴神は古城戸の過去を聞かずとも、おおよその見当はついていた。『雷沢帰妹』の因果ということは、禁断の恋に手を出したということだ。夢の中では十三歳の、女の鳴神から見ても羨む美しさを持つこの少女が、すべてを投げ出して愛に狂ったのだ。だが、自分の暗い過去からどんな因果に辿り着くのか想像もできない。
鳴神は、少しこの偉大なる先輩を茶化してみることにした。
「そういえば、所長は~……」
「な、なに?」
鳴神はにんまり笑い上目遣いで見上げると、古城戸は若干のけ反る。
「由井薗先輩とは、どうなんですかぁ~?」
古城戸はなんだ、というように肩の力を抜いた。
「どうもこうも……最近ちょっと身の危険を感じるわね」
鳴神は目を見開いて驚く。
「えーっ!? 二人でホテルに行ってるんだから当然そういう関係だとばかり思ってました」
古城戸は人差し指で頬を掻く。
「むしろそう思わせることで特定を避けているんだし」
「それは建前っていうかぁ~。 所長みたいないい女とホテルに行って手も出せないなんて、由井薗先輩がかわいそうですよ」
「由井薗君はあぁ見えて結構遊んでるから」
「そうなんですかぁ! 所長は由井薗先輩に迫られたらオッケーなんですか?」
「甘い言葉で口説かれたら流されちゃうかもね……はは」
「そうですよねぇ! かっこいいし、やさしいですもん」
思わぬコイバナに戸惑う古城戸だったが、ふと真顔になる。鳴神もそれに気づいて次の言葉を待った。
「でもね、そういうことにはならないのよ」
古城戸は寂しく微笑む。
「どうして……」
鳴神は子供のように条件反射で聞いてしまう。「どうしてですか」と言いかけたが途中で声が詰まる。答えを聞かずとも予想はついた。
「私の愛の炎がまだ消えていないことを知っているから」
鳴神は『雷沢帰妹』の因果を持つこの少女、いや女に戦慄を覚える。普段物静かで知的な美女の内なる獣を見た気がした。
「詳しくは話せないけど、私は『なんでも願いが叶う』道具を持っているの」
鳴神は人生で一番といえるほどの衝撃を受けた。なんでも願いが叶うと聞いて連想したのはドラゴンボールだ。
「ドラゴンボールがあるんですか!?」
古城戸は苦笑いする。
「まぁ、似たようなもの。私はその道具で愛する人を蘇生することができる」
「じゃあ」
「でもね、それはしない」
鳴神は何故古城戸が愛する人を蘇生しないのかわからない。愛する人を蘇生して抱きしめあってキスでもすれば幸せになれるはずだ。
古城戸は耳にかかった髪をかき上げる。
「なんでも願いが叶う道具で『世界征服』を願うようなものなのよ」
「それもアリじゃないですか? 世界征服すればどんな贅沢だってできるし」
「いいえ。世界征服は、その過程を楽しむものなのよ。ロール・プレイングゲームで、タイトル画面に『エンディングを見る』ってメニューがあっていきなりそれを見るようなもの、というほうがわかりやすい?」
鳴神はそこまで聞いてようやくわかった。確かにロール・プレイングゲームでいきなりエンディングを見ては面白くもなんともない。『過程を楽しむ』のが重要なのだ。愛についてもその過程を楽しむということを言っているのだろうか。
「愛についても同じだと?」
古城戸は頷く。
「『過程を楽しむ』は例えよ。要するに道具で蘇生して終わり、なんていうのは相手も望んでいないってことよ」
鳴神はまだ完全にはピンときていなかったが、なんとなく古城戸が言いたいことはわかった。道具でホイ、ではあまりにも情緒がない。
「なんとなくわかりました。ドラマティックに手に入れるってことですね」
「そういうこと」
そう言って古城戸は微笑む。手に入るからといって最短距離を行くことが必ずしも最良の結果になるとは限らない。どうやって辿り着くかというプロセスがあってこそだというのだ。だが、愛する人を蘇生するのに他にどういう方法があるのか、鳴神にはわからなかった。
その時、馬小屋から孟婆が姿を現す。小屋から漏れる焚火の灯りに映し出される孟婆の姿は、それだけで神話を切り取ったかのような絵になる。
「はじまりました」
孟婆はそう告げると古城戸のちょうど三メートル前に畏まった。
聖母マリアの陣痛がいよいよ本格的に始まったため、古城戸に伝えに来たのだ。
「いきましょう」
古城戸は鳴神にそう言うと小屋に向かう。孟婆は中に入ろうとはせず、小屋の出口から少し離れて壁に背を預けた。
「モウバちゃんは入らないんです?」
鳴神が古城戸に尋ねると古城戸は頷く。
「ええ。あの子は外で待つわ」
鳴神は一度出口を振り返ったが、そこには孟婆の姿はなかった。鳴神は、あの恐ろしいほどに美しい少女は古城戸の友達だと聞かされているが本当は違う、というくらいは察していた。明らかに主従の関係のようだし、幼いのに古いアラビア語を話す。それに気のせいかもしれないが、自分を見るとき小馬鹿にするような視線を向けているようにも感じる。この四ヵ月、ともにナザレで暮らしても自分に対する態度が変わることはなかった。そんな想いが一瞬頭を過ったが、すぐに聖母マリアの具合に考えが切り替わった。
「もう間もなくじゃの」
神子島がそう言って聖母の右手を取る。出産に協力してくれるようだ。
「ヒッヒッフー、 ヒッヒッフー」
古城戸が聖母マリアの足と足の間に入る格好でラマーズ式の呼吸法を演じて見せる。
聖母マリアも汗をかきならが頷いて古城戸の呼吸を真似ていく。
ラマーズ式の呼吸法は日本には一九六〇年代に海外から紹介されてすぐに広まった。それまでは力んで強引に産むのが日本の「お産」だったのだが、このラマーズ式での分娩は痛みを極力軽減する効果がある、麻酔なしでも出産ができる効率の良い方法なのだ。当然西暦ゼロ年には知られていない。
「汗を拭いてあげて」
「はい」
古城戸はそういうと『雷沢帰妹』で白いタオルを出し、鳴神に渡す。鳴神はタオルを受け取るとマリアの額に当てて、汗を吸わせていく。神子島もラマーズ式呼吸のリズムを聖母と合わせていた。
「頑張って!」
鳴神はそう声をかけるが日本語なので当然通じない。だが、励ましているということは伝わっただろう。聖母マリアは目を閉じて大きくラマーズ式の呼吸をしている。
ちらちらと秘所の様子を窺っていた古城戸が声を上げた。
「頭見えてきた! ヒッヒッフー!」
「がんばれ! がんばれ! がんばれ!」
そう叫んだ鳴神は自分の頬に熱いものが流れるのを感じていた。自分でも驚くくらい涙があふれ、視界が歪む。
マリアは一段と大きく呼吸をすると秘所から一気に頭、胴体から足が滑り落ちてくる。古城戸は薄いゴム手袋に大きなタオルを持って”それ”を迎えた。
「産まれたわよ! 鳴神さん、ちょっとお願い」
古城戸は鳴神に赤子を渡すと『雷沢帰妹』で鋏を出し、へその緒を切り落とす。そのあとタコ糸で赤子のへその緒を縛った。すると赤子は大声で鳴き声を上げだした。
「よしよし、ほらお母さんよ」
鳴神は腕に抱いた赤子を聖母に見せ、聖母の顔に寄せる。聖母は疲れていたがちゃんと目を開け意識もはっきりしており赤子の小さい頭にキスをした。
「このあとどうしたら?」
鳴神は古城戸に尋ねる。古城戸も出産は経験がないはずだが、どうして詳しいのだろうか。
「まず赤ちゃんの体をお湯で洗って拭いてあげて。 聖母はまだ後産があるから」
「後産?」
「お胎に残った胎盤が二十分後くらいに出てくるのよ」
「そうなんですね」
鳴神は自分も女なのに出産について全く知らないことに驚いた。神子島は分娩で出た血や排泄物などを片付けている。古城戸は立ち上がると小屋を出ていく。
「所長?」
「すぐ戻るわ」
古城戸が小屋を出た後、鳴神は古城戸に言われた通り赤子をお湯で洗い、綺麗に拭いていく。腕の中に聖人イエス・キリストがいることに頭が呆けてくる。
「ほらほーら キレイキレイちまちょうね」
ニヤけながら身体を綺麗にしていくと古城戸が戻ってきた。古城戸は聖母マリアのところに行くと何やら話しかけた。おそらくアラム語だろう。それを聞いた聖母マリアは頷くと古城戸から受け取った木の器から水を何口か飲んだ。
「アラム語ですか?」
「ええ、今、外の孟婆から教わったの」
「あの短時間でですか?」
古城戸は苦笑いする。
「今の一言だけよ。『あと少ししたらお胎の胎盤が出てきますよ』って伝えたかったの」
「ああ、そういうことですか」
二人とも日常会話程度はアラム語を覚えたが、日常で使わない単語は知らなかったから教わっていたのだ。鳴神は聖なる赤子を胸に抱き、思わず口ずさんでしまう。
「Silent night, Holy night. All is calm,all is bright」
『Silent night』は一八一八年にオーストリアで作られた歌と言われているので、当然西暦一年には無かった歌だ。しかも英語の歌はここイスラエルで意味は通じない。だが、鳴神はこの聖なる御子を胸に、歌わずにはいられなかった。
やがて後産も無事終わり、赤子はベビーベッド代わりに用意された藁の上に布を敷いた桶の中で落ち着いていた。へその緒は赤子の腹についていて、二、三週間すると脱落する。だから今日それを手に入れて帰ることはできない。が、胎盤の側ならすぐに持ち帰って構わないだろう。これもへその緒には変わりない。古城戸はへその緒に注射器を刺し、そこから血を吸い上げるとその血を真空の試験管に入れて、残ったへその緒をビニール袋に入れる。それを試験管と一緒にウエストポーチに入れた。もう帰る準備はできた。
鳴神はふと小屋の出口のほうを見ると、外が白んできていた。
「もう朝になりますね」
「素晴らしい朝ね。 日が出たら外の動物達にも見せてあげましょう」
「はい!」
休むマリアと赤子を見つめながら鳴神は古城戸に問いかける。
「所長はどうして出産にお詳しいんですか?」
古城戸は鳴神の隣に腰掛けて同じようにマリアを見ていた。
「前に由井薗君と侵入したとき、一晩中お産に立ち会ったの」
「へぇ! そんなことがあったんですね」
「あの時は他にもいろいろあって大変だったな」
「由井薗先輩はあんまり教えてくれないんですよね、夢の中のこと」
「変に先入観を持たせないようにしているんだと思うけど」
「そういえば、所長はどうして夢では少し若いんです?」
鳴神は煉獄に入った時から中学生くらいの古城戸を見て疑問に思っていた。
「あら、知らなかった? この姿はパーグアとして覚醒したときの姿なのよ。私の場合は十三歳なの」
「そうなんですね。 私が今パーグアになったらこの姿になるってことかぁ」
「そういうことね。由井薗君は二年前だからほぼ今と同じね」
「十三歳でこんな胸だったんですか? 今の私よりおっきいかも」
「……身長も男子より高かったし、ちょっと恥ずかしかったのよ」
「たしかに百五十以上ありますよね? 中学生にしては大きいかもですね」
「うん。でもバイクに乗り出してからは身長は気にならなくなったかな。足つきいいしね」
鳴神は相槌を打ちながら古城戸の過去を想像する。言葉通りなら古城戸は十三歳で『雷沢帰妹』の因果に到達したということだ。禁断の恋に手を出さないと到達できないのだから、十三歳でつまりそういうことがあったのだろう。天花寺の能力ならそういうことも全部わかるのだろうかと考えていた。
神子島と孟婆は外で待っている。聖母が御子を抱いて朝日の下に出ると多くの動物が小屋を取り囲み、鳥は鳴き始めた。それは大自然の祝福の歌だ。動物は畑をずらりと埋め尽くし、遠く遥かにまでその影が見えた。
「うわぁ! こんなに鳥が飛んでるの初めて見ました! ヒッチコックの『鳥』みたいですね」
「あれは襲って来る話でしょう……」
古城戸は呆れ気味にそう言うとエア・カー「WIND」を出し、ドアを開ける。
「さあ、目的は果たしたわ。もう行くわよ」
そう声をかけると運転席に乗り込む。神子島と孟婆が後部座席に乗り込んだのを見て、鳴神は助手席に乗り込む。
古城戸がパワースイッチを押すと初期浮上。周りには動物達がいるので前進はせず、その場で上昇していく。
西暦一年十二月二十五日の空は快晴だ。WINDは最高高度の百メートル近くまで上昇すると前進を開始。
下では聖母マリアがWINDを見上げている。遠くにはマリアの夫のヨセフの姿も見えた。
二人が点になっても鳴神は窓から手を振りながら叫ぶ。
「さようなら! さようなら! 元気でね!」
鳴神は、この四ヵ月のことを思い出しボロボロに泣いた。そして産まれた御子の将来を想う。やがて十字架を背負いゴルゴタの丘で処刑されることを思うとさらに涙が溢れた。
「彼らから見れば、私たちは天使のように見えるでしょうね。出産を手伝って天に帰るのは、まさに天使のようじゃない?」
古城戸がそう言うと鳴神はあっさり納得してしまった。イエスが物心ついたとき、マリアから今日のことを「天使が降りてきて、出産を手伝ってくれた」と聞くかもしれない。古城戸は美少女だし孟婆はまさに神話の天使がそこにいるかのようだ。神子島も八十歳と言いながら外見は二十代後半の美女だ。凡人なのは自分だけかと内心落ち込む。鳴神には何も無かった。人から羨まれるほどの美貌も明晰な頭脳も無い。ずっと他人を羨望の眼差しで見続けてきた。古城戸や神子島の二人を間近にすると嫉妬を通り越して清々しい気分にすらなってくる。
ふと下方を見ると鳥の群れが森の上を飛んでいる。イスラエルと聞いていたが砂漠ばかりではなかった。
「あっ鳥」
鳴神が思わず声に出すと古城戸もそちらを窺う。
「あの群れについて行きましょう」
そういってWINDの速度を落とし、鳥の群れを追尾し始めた。鳥は夢の出口に向かうので、ついて行けば帰られる。やがて雲の中に入ったかのように辺りは白んでいき、鳴神は「所長?」と声を発したところで目が覚めた。
鳴神が研究所の一室で目覚めたとき、すでに古城戸と神子島は起きて何やら話をしていた。古城戸が『雷沢帰妹』でビニール袋に入ったイエスのへその緒を出し、袋から少し先を出すとそれを自分と鳴神の手に触れさせてから、神子島に渡す。手に触れさせたのは、孟婆の夢を祓うためだろう。
「確かに受け取った」
神子島は心底安心したような表情のまま、ビニール袋を鞄にしまい込む。
そして、もう用は済んだとばかり、部屋を出る。が、出口で止まり振り返る。
「刑天が煉獄におったな。であれば、あやつも目覚めるはずじゃな」
「法雨さんのことね」
神子島は静かに頷く。鳴神はあったことのない人物だが、特別国庫の名簿に名前をみたことだけはあった。
「此度は世話になった。良いものを見せてもらった」
最後にそう一言だけ残して去っていった。
鳴神もその言葉で改めて長い夢を思い出す。魂が浄化される登山、素朴な生活を営むナザレの人々、幻想的な空や咲き誇る花、御子を見に来た動物達。忘れようとも忘れられない御子の美しさ。
そのとき、鳴神の腹が音を立てた。
「お腹が空きました」
「四ヵ月もいるとはおもわなかったわ」
そうですねと言いかけたとき由井薗が部屋に入ってきた。神子島が出て行ったのを見て仕事が終わったことを知ったのだろう。
鳴神は、夢の中で古城戸と由井薗について話したことを思い出した。徐に古城戸の左腕を胸に抱きよせ、右肘で古城戸の脇腹をぐいぐいとしてみる。それで古城戸も夢の中での会話を思い出したのか、やや赤面した。
「随分仲良くなったみたいだな」
由井薗はそう言うとすぐに背中を向けて出て行った。古城戸が帰り支度をしているのを見て、鳴神も慌てて準備する。潜行ってこんな気分になるものなんだ、と感動を噛みしめた。それと同時に、胸の奥に熱い何かが渦巻いているのを感じていた。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
記載されている会社名および製品名は、各社の登録商標または商標です。




