五章 五 聖母と暮らす幸せな日々
五
鳴神が意識を取り戻したとき、そこには美しい黄金色の草原と小さな町が見えた。天国は雲の上にふわふわ広がる世界だと思っていたがそんなことはなかった。気温は暖かく、日本の夏のような気温だが、乾燥しているせいかそれほど暑くは感じない。鳴神は周囲に古城戸や神子島、孟婆の姿を認めると誰とは無しに聞いてみる。
「ここが天国ですか?」
「いいえ、ここはイエスの夢。いつかはわからないのだけど、場所はナザレだと思う」
「ナザレ?」
「イエスの出身地よ」
そう言って古城戸が歩き出したので皆ついていく。黄金色の作物は小麦のようだ。イスラエルは砂漠が多いが、農業用地として整った場所もあるようだった。ちょうど収穫の時期が終わったようで、刈り取られた麦が干されていた。灌漑された水路には水車小屋があり、中で石臼が回る音が響いている。小麦は収穫してから半年ほど寝かせたほうが成分が安定し質が向上するが、当時はまだそこようなことは知られていなかったのだろう。
「問題は今がいつかってことよね」
「イエス様の誕生日って十二月二十五日ですよね? こんなに暑いし十二月じゃなさそうですね」
「小麦を収穫しているから秋だと思うのだけど」
牛の泣き声や鶏の声がする町の中を歩き、主婦と思わしき人物に古城戸が声をかけると主婦は見慣れない一行の格好を見て訝しむ表情をした。古城戸が孟婆に日付を聞いて、と指示すると孟婆はアラビア語に近い言葉を話し出す。主婦はそれを聞いてどこか恐る恐る答えた。
「اليوم هو 1 سبتمبر」
鳴神は聞いてもまったくわからない言葉だった。最後の部分がかろうじてSeptemberに近いかなと感じた程度だ。孟婆は短くお礼のような言葉を言うと主婦は去っていく。
「くがつついたち」
孟婆が短く古城戸に告げる。古城戸は溜息を一つ落とす。
「九月一日かぁ。四ヵ月も前じゃない」
「この時代にもカレンダーってあったんですね」
古城戸は腕を組んで指を顎に当てる。
「この時代はユリウス暦が採用されているわね。今のグレゴリオ暦になるのは千五百年くらい後よ」
「何が違うんですか?」
「閏年って知ってるでしょ?」
「ええ、四年に一回二月が二十九日になるやつですよね」
「そう、それがユリウス暦」
「えっ? グレゴリオ暦じゃなくて?」
「ユリウス暦では、四年に一回の閏年、つまり四百年で百回の閏年になるでしょ?」
「そうですね」
「ユリウス暦もかなり精度は高いんだけど、それでも少しづつズレがあって、百二十八年で一日余るのよ」
「四年に一回の閏年では多いってことですか?」
「そう。それを調整したのがグレゴリオ暦。グレゴリオ暦では百で割り切れる年は閏年ではなく、四百年で割り切れる年は閏年になる。西暦千五百年は閏年ではないけど、千六百年は閏年ってこと」
鳴神は腕を組んで考え込む。百で割れる年は閏年ではなく、四百で割れたら閏年……
「結構複雑なんですね」
「そう?ようするに四百年で三回だけ閏年が減るってことね」
「個人が生きている間に体感できるものじゃないですね」
「そうね。でも国としての歴史が続くとだんだんその差に気付いてくるわけよ」
「なるほど、それで千五百年ごろにグレゴリオ暦になったんですね」
「そう、イエスの復活祭は春分を基準に最初の満月の次の日曜日ってルールなのよ」
「思わぬところでつながりましたね」
そう言って、鳴神は古城戸がカレンダーの話をしたのはイエスと関連があるからだと気づいた。鳴神自身が気付いてくれるよう、誘導してくれたのだ。
「ええ。教会も千二百年を過ぎたあたりでカレンダーと春分がズレ始めていることに気付いて、さすがに十日のズレは看過できずに修正したってことね」
「教会があるってことは、この時代にも宗教ってあるんですよね?」
「当時の宗教は、オリンポス神話の神々が信仰されていたようね。ゼウスとか、アポロンとかポセイドンね」
鳴神はポセイドンは海の神、くらいは知っていたが、どんな神話なのかは全く知らなかったし、興味を持つこともなかった。それよりも全く知らない時代の知らない国に来て、情報整理が追い付かない。町往く人々の服装は麻布の真ん中に穴をあけて頭を通し、紐で腰を縛っただけのものだし、色もほとんどくすんだ白である。靴も木彫りのものか、藁を編んだような草履、裸足の人も多い。鳴神は自分がどんな服を着ているのか改めて意識をしてみると、少し外出するときのようなラフめの普段着だった。古城戸はノースリーブの白いサマーセーターに黒のパンツと見た目にそぐわぬ大人の装い、神子島は和服の中でも軽装の紬だった。孟婆は侵入前にみたメイド服である。
「この格好だと目立ちますね」
「そうね。異端審問で拷問になりかねないわね」
「拷問!」
「当時の拷問はキツそうだし、着替えましょう」
「服、あるんですか?」
店を探して買うにも当時の通貨が何かすらわからないし、町中で目立ちたくない。盗んだりするのは論外だ。古城戸は少し考える様子を見せたが、『雷沢帰妹』で麻布とロープを出した。人数分はありそうだ。
「ま、これでいいでしょ。靴は……草鞋でいいか」
草履も四足だして皆に配る。村外れの草むらで着替えた一行はお互いの格好をみてひとしきり笑い合う。まるでファンタジーゲームに出てくるモブになった気分だ。鳴神は服の裾をつまんで長さを確認する。皆アンダーウェアまでは脱いでいないようなので、鳴神もつけたままだ。何故かいつもより幼い古城戸の麻布から見え隠れする下着姿は妙に淫靡だった。
「四ヵ月もここで待つなら泊まる場所がいりますね」
「そうねぇ。村に泊まるのも何があるかわからないから、村から離れた所にキャンピングカーを出しましょうか」
古城戸はそう言って『WIND』を出すと飛行はせずに走り回り、村の外で目立たない場所を物色する。ナザレ周辺は広大な平地で、遠くまで見通すことができたので、住民に見つからないよう三キロメートルほど離れた場所の岩山付近にキャンピングカーを設置した。 鳴神は煉獄に来た時から四日以上の飲まず食わずでも平気だったのが気になった。
「そう言えばお腹空かないですね」
「現実で食べてから来たしね。でも四ヵ月もいたらそのうちお腹空くわよ」
「夢に来てから四日経ちますけど、現実でもそうなんです?」
「現実ではまだ一日も経ってないわね。夢の中では時間は一定じゃないから四ヵ月が現実で何日、とは言えないのよ」
現実ではまだ一日経っていないと聞いて不思議な気分だった。煉獄の登山が遥か前のことのように感じる。一行はしばらくキャンピングカーで休憩していたが、やがて古城戸は外に出る。
「マリアを探しましょうか。いま、妊娠六か月ってことよね」
九月一日は秋口とはいえ、イスラエルはまだ暑い。キャンピングカーからは『WIND』でナザレの近くまで行き、そこから歩いて町に向かう。
鳴神は町の外れにある大きな樫の樹にふと目を向ける。そこには壮年の男がいて木の枝に紐を吊るしていた。何やら嫌な予感がする。
「あれは?」
鳴神が指をさして声を上げると古城戸と神子島もそちらを見た。
「男の人かしら。自殺でもする気?」
古城戸がそう言うと、手を廂にして見ている神子島も言う。
「どうせ夢じゃ。助けても無駄じゃろ」
確かに夢だし、この時代の人間は皆死んでいるから助けても何の意味も無い。それでも鳴神は目の前で人が死ぬのを見ていられなかった。何かに押されたように樫の樹に向かって飛び出す。
「だめですよ!」
鳴神は男性に声をかけるが、当然意味は通じない。男は一瞬鳴神を見たが、吊るした紐の下に積み上げた木箱に登ると紐に首を通そうとする。それを見た鳴神は男性に飛び掛かり、木箱から強引に降ろして組み伏せる。男性は鳴神の頭を掴んで振りほどこうとしたが古城戸達が追い付くのを見て諦めたようだった。
男が抵抗しなくなったのを見て、鳴神は男性から離れる。古城戸の指示で孟婆が男から事情を聴く。
「こんやくしゃがうわきしてにんしんした」
孟婆が古城戸に男の事情を伝えた。
「なるほど、不義姦通ってわけね。そんなことで死ぬことないじゃない。もう少し詳しく聞いて」
古城戸が孟婆にそう指示すると、孟婆はアラム語で男に何やら質問する。男は古城戸と孟婆を交互に見ながら質問に答えた。孟婆は古城戸に向き直ると可愛らしい唇を開く。
「じぶんはさいこんで、おんなにぜつぼうしたからもうしにたかった」
「再婚した奥さんに不倫されて絶望したと。それはかわいそうね」
八十年生きている神子島にはそんな話は退屈なのか欠伸をしていた。
「あなたのお名前は?」
男は鳴神の言葉が分からず首を捻る。古城戸が孟婆をつつくと孟婆が短く尋ねると男も短く答える。
「جوزيف الناصري」
「なざれのよせふ」
それを聞いた古城戸は「ヨセフ!?」と大声で驚く。
「ご存知なんですか?」
「知ってるも何も、イエスの父親よ!」
「イエス様に父親がいたんですか」
それに答えたのか神子島だった。
「義理の父親じゃな。マリアはヨセフと婚約したが、結婚前にマリアが妊娠したことを受胎告知で知ったというな」
受胎告知とは、天使ガブリエルがマリアの前に現れて崇高な命を授かったことを告げたという出来事で、ヨセフは不義の子だと思っていたが、それを信じて婚約を破棄せずに結婚したという。
「それは神の子だから不義はない、って伝えて」
古城戸が孟婆に指示すると、孟婆は男に説明をした。男は狐につままれたような顔をしていたが、やがて立ち上がった。信じたかどうかはわからない。そして男は孟婆に何やら話す。
「うちにきてくれ」
孟婆はそう翻訳する。
「わかったわ。マリアとも話をしてみましょう」
「わぁ!聖母さまに会えるんですね」
ヨセフの後をついて町の隅にある小さな家に着くとマリアと思わしき人物は麦を棍で叩いて実を落とす作業をしていた。とても物柔らかそうな女性であり、母性に溢れている。女性は一行を認めると作業を中断し、立ち上がる。
「هل انت ضيف」
家は見るからに質素で、客人をもてなす余裕があるようには見えなかった。それはこの家だからではなく、当時の生活はみなそうだったのだろう。鳴神は言葉がわからないので「おかまいなく」と言うこともできなかった。
隣の部屋にマリアは入っていくと物音が聞こえてくる。その時、一段と大きな音がしたので一同は音の方向を見る。鳴神は直感的に人が倒れる音だと感じた。慌てて隣の部屋に行くと、マリアが倒れている。慌てて抱き起したが、気を失っていた。
古城戸が脈を取り、体温を確認。
「妊娠による貧血と栄養失調かしら」
マリアが体調を崩して流産してしまったら大変だ。一行はマリアを丁寧にベッドまで運ぶ。しばらくするとマリアは目が覚めて、起き上がろうとしたが押しとどめる。
古城戸は『雷沢帰妹』で「アイソカル」と書かれた紙パックのジュースのようなものを出す。どうやら医療用流動食のようだ。鳴神は初めて目にする物だったが、パッケージを見るとカルニチンやアルギニンをはじめ、脂質にもこだわって作られているらしい。古城戸はパックの封を切り、木の器に入れてマリアに勧めた。
マリアはそれを一口飲むと、美味しいと感じたのか、残りも全て飲み干した。
ヨセフはマリアと何やら話をしている。孟婆による翻訳だと、自分の命の恩人で、おそらくは神の使いだろう、と言っているらしい。とんでもない勘違いだが、否定するにも話がややこしくなる。「どこからきたのか」と聞かれてもまともに答えられないのだ。
やがてマリアは古城戸達に祈るような仕草をし、涙を流したので一行は戸惑う。
「あなたの子は神聖なる子だから、大事にするようにと伝えて」
古城戸が孟婆に指示すると、孟婆は無表情にそれを翻訳した。その光景はまるで本当に天使による告知であるかのような、美しい一枚の絵画であった。ヨセフは涙し、古城戸達に跪いて礼をする。
「四ヶ月後の出産を手伝う、と伝えて」
古城戸が追加で孟婆に指示するとマリアは頷く。よい、ということだろう。その日はそれでヨセフの家を後にした。
鳴神はキャンピングカーに戻ってから本で何やら調べものをしている古城戸に話しかける。
「受胎告知、しちゃいましたね」
鳴神がそう言うと古城戸は溜息を落とす。
「実際どうだったのかしら。私たちがいなかったらヨセフは自殺してたかもしれないし、マリアは流産していたかもしれない」
「私たちが歴史を変えちゃったとかですか?」
「それはないわよ。 夢は夢だもの、現実とは違う」
次の日から毎日ヨセフの家に行き、家事や畑を手伝いマリアとの親交を深めた。マリアも古城戸から与えられた栄養食を摂り、体調も整ってすっかり元気になったようだ。二ヵ月もした頃には、古城戸も鳴神も簡単なアラム語を覚えて、多少のコミュニケーションなら可能になった。マリアは本当に働き者で、朝から晩まで休むことなく家事とヨセフの手伝いをしていた。
八ヵ月となったマリアのお腹はかなり大きくなり、仕事をするのも大変そうにしていたが休むように言っても平気だ、といって聞かなかった。
ある日、ヨセフがマリアを連れて教会に行くというので、孟婆を除く三人はついて行く。そこで簡素な結婚式が挙げられた。式の参列者は偶然教会に礼拝に来ていた村人数人と神父のみだったが、和やかな雰囲気で執り行われた。
ヨセフは貧しい生活の中、指輪を調達しようと頑張っていたようで、懐から銀の指輪を誇らしげに取り出し、マリアの指に嵌めた。
「おめでとう! おめでとう!」
鳴神と古城戸、神子島らは拍手をし、祝辞を送る。村人も笑顔で二人を祝福した。
月日が過ぎるのは早く、十二月になりここイスラエルも気温は大分低下した。すっかりナザレでの生活も慣れた一行だったが、それと同時に別れの時が近いことも感じていた。
やがて、ある日の夕方にマリアが破水した。Xデーが来たのだ。
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