五章 四 天使は自らの剣の名を歌いながら戦う
四
翌日、一行はまた登山の道を進む。登山の入口から見上げたときはさほどの高さではなかったように見えたが、この調子でいくと七日は必要な距離だということになる。
しばらく進むと鳴神は道に看板を見つけた。古城戸が孟婆に翻訳を頼む。
「おこらずへいわをおうものはこうふくである とかかれています」
「なるほど憤怒の道というわけね」
鳴神は憤怒と聞いて気になったことを質問する。
「私、思ったんですけど、怒りは罪なんですか?」
「そういうことになってるわね」
「怒りに任せて人を傷つけたりするのが悪いってことはわかるんですけど。でも、『神の怒り』ってありますよね。神話でもしばしば神様は怒ってます」
「神話の神とキリスト教の神は別物よ。 神話の神は確かに所構わず怒ってるけど、キリスト教の神の怒りというのは、なんというか災害みたいなものよね」
「なるほど、怒りという感情ではないんですね」
「そう、人間の感情の『怒り』とはまた違う、単なる概念なのよ」
鳴神は半分くらいは呑み込めた気がした。神の怒り、というのは神様が人間のように怒っているもの、と思っていたがそうではないらしい。古城戸はそれを災害や概念と言ったがようするに感情のようなものはなく、プログラムのように決まった動きをしているだけ、というようにも聞こえた。鳴神はこれまで『神』とは髭を生やしたお爺さん、をイメージしていたが、もっと概念的なものなのではないかと思うようになった。
その日も夜には天使が現れ、三つ目の『P』の文字を額から消し、残りはあと四つになった。夜、閉め切った堂の外には何者かが走り回っているようだった。だが天使が守護についているからか、建物の中まで入ってくる気配は無い。鳴神は一体何が外にいるのか気になった。
部屋の隅で座っている孟婆に尋ねてみる。
「モウバちゃん、外には何がいるの?」
「さっさとみてこいくそむし」
「……見ないほうがいいってことか」
そう言うと古城戸が小さく笑う。
「扱い方が分かってきたじゃない」
「お友達になれたらいいんですけど」
「あれに人間と同じ感情なんて無いのよ」
「……こんなに可愛いのに」
翌日の道の看板には、『かなしむものはしあわせである。なぜならなぐさめてもらえるのだから』と書かれていると孟婆が翻訳する。相変わらず、鳴神には呑み込むことができない。慰めてくれる人がいることに感謝しろ、みたいな意味なのだろうか。
「これはどういう意味なんでしょう」
「これもキリストの言葉じゃな」
神子島がそう言うと古城戸も頷く。
「悲しいことは避けたいもの。それがどうして幸せなのかって思うわよね」
「普通はそうですよね」
「一般的な解釈は、悲しみを抱えすぎると心に闇を作ってしまうから、素直に苦悩を表現しよう、ということだけど、私は別の解釈ね」
「どんな?」
古城戸は道を歩きながら説く。
「これはね、己の罪を自覚して悲しむものこそ主に慰められる、ということだと思うのよ」
鳴神はまだ呑み込めていなかった。古城戸はやさしく話す。
「人生で最大の悲しみは『死ぬこと』よね」
「そうですね、確かに」
「罪を悔いながら死んでも、神が暖かく迎えてくれる。最大の慰めと平安を与えてくれる。そう知ることが幸せだ、という意味なのよ」
「死んだら神様のところに行けるからハッピーだということですか」
「そう。だからそれを知ろうとせず、快楽と笑いだけを求めるのは怠惰、ということ。ここは怠惰の道」
そこまで聞いて鳴神はまた胸のつかえが取れた気がした。ただ登山しているだけなのに魂が浄化されていく感覚が嬉しくてたまらない。もしすべての罪が浄化されてこの嬉しさがもっと高まり天国に辿り着いたら、自分はそのまま成仏してしまうんじゃないかとすら思える。
「所長はすごいですね。古城戸教があったら入信します」
「単なる私の解釈だから」
その日も夕方には堂に辿り着き、一行はそこで身体を休める。夜には天使が現れていつものように『P』の文字を一つ消した。これであと三つ。
「残りの罪は、えっと……強欲、暴食、色欲ですか」
「うん。半分は過ぎたわね」
翌日も雨の中、一行は傘を差しながら登山の道を歩く。鳴神には見えなかったが、ここは悲鳴が絶えず響く不気味なところだった。
「見えないけど、他の魂達がここで罰を受けているのね」
「強欲の罪でしょうか」
「おそらくそうね」
やがて一行は美しい実をつけた一本の木を見つけた。ただし、その木は幹の上のほうが太くなっており、登ることはできなさそうである。
「暴食の木じゃな。腹を空かせた亡者共はあの木の下でずっと木に登ろうとする」
どうやら強欲の道と暴食の道はつながっていたようだ。罪としても近い位置のあるのかもしれない。鳴神はここまで四日間飲まず食わずだが、特に空腹を感じていない。だから木の実にもさして興味は湧かなかった。見えないが、たくさんの亡者があの木の下に群がっているのだろう。強欲と暴食を抜け、残す罪はあと一つ、色欲である。
降りしきる雨の中、鳴神は湿気を含んだ重い風を受けて足を止めた。古城戸と神子島も顔を見合わせている。
「これはマズいわね」
古城戸がそうつぶやいた時、鳴神は由井薗に習った『風が吹くと良くないことがある』を身を以て感じていた。うまく表現できないが、この後何があるにしてもそれは良いことではない、不吉な何かが訪れるという、確かな予感があった。
「これが、風……」
鳴神は掠れる声でつぶやく。
「これは、お主が言っておった魔物か」
「多分そうだと思います。 何かわかる?」
古城戸は横に控えた孟婆に尋ねる。孟婆は首を振る。
「かなりのおおものです」
「……『応龍』ね」
鳴神はそわそわしだした。
「逃げますか?」
「逃げるなら天国に向かって逃げましょう。さすがにそこまで追ってこれないでしょ」
「うしろからきます」
この道はオフロード用のバイクなら走れそうだが四人は乗れないし、車が通れそうなほどの幅はなかった。逃げるなら走るしかない。
孟婆がちらちらと後ろを見た。古城戸は傘を放り出すと頂上目指して走り出す。神子島も孟婆もそれについて行ったので、鳴神も慌てて傘を捨てて走る。
だが、一行はすぐにヘバってしまう。雨で体力も奪われ肩で大きく息をする。
「夢の中なのに、ぜぃ、なんで、ぜぃ、息が、きれるんでしょうね」
「条件によっては空を飛んだりできるんだけど」
鳴神は確かに空を飛ぶ夢を何度か見たことがある。それも、過去飛ぶ夢を見た時は、何故か同じ夢だった気がする。「あっ前もこの夢見た」という漠然とした記憶がある。きっと条件を満たしたときに同じ夢を見ているのだろう。
やがて前方には美しい楽園が見えてきた。車で上から見た時は見えなかったが、煉獄の山の頂上にこんなところがあるなんて信じられない。楽園の中心には大きな赤い果実をつけた巨大な木がある。
「あの樹ね!」
「知恵の樹じゃ!」
知恵の樹。鳴神も聞いたことがある。かつてアダムとイヴがその実を食べたという知恵の樹。あの樹に触れれば、天国に行ける。ここがその楽園だったのか。
前方二百メートルに迫った樹の向こうから一つの人影が現れる。それは美しく日に焼けた褐色の肌。力強く金色に輝く髪。地中海を思わせるエメラルド・グリーンの瞳。話には聞いていたが、始祖夢魔と呼ばれる魔物は想像を絶する美少女だった。まるで美術の教科書を見ているような感覚だ。鳴神は何かを言わなければ、と思いつつ何も言葉がでてこなかった。
「イリナちゃん!」
古城戸が名前を叫んだ。あの魔物のことだろうか。この場には女しかいないから、魅了される心配はない。だが樹の影からもう一つ大きな何かが姿を現した。
「刑天じゃ!」
神子島が刑天と呼んだものは両手に刀を持った偉丈夫だった。黒く長い髪が無造作に背中まで垂れ、頭部以外は中国風の煌びやかな鎧を身に着けている。その威圧感は凄まじく、鳴神は全身が震え鳥肌が立つのを感じた。
「来た!」
古城戸が叫んだほうを振り返ると、羽の生えた巨大な白い龍が空の上に見え隠れしていた。鳴神はこれまで見た一番大きな動物は、動物園の象だった。その象など比較にならない巨大な生き物を目の当たりにし、恐怖のあまり足が震える。
巨大な龍の咆哮が腸を揺さぶり、鳴神は悲鳴を上げた。自分は能力も何もない、ただの人間だ。
偉丈夫は風の如く走り出し、一行に向かって来る。前後を挟まれ、もはや絶望なのだろうか。他の三人も身動きできない様子だ。
偉丈夫が迫ったとき、空の龍に向かって大きく跳ねた。
「え!?」
古城戸は飛び上がって空を舞う男の姿を振り返って追う。男が振る白刃の煌めきは鋼よりも硬いとされる龍の鱗を散らし、高貴なる血飛沫が楽園に散る。それを見た古城戸は始祖夢魔の方に向き直る。金髪の美少女はその美しい唇を開き、うっとりするような声で古城戸に話す。
「冬美。ここは刑天が抑えます」
「……どうしてなの!」
「私のことはもはや信じられないかもしれませんが、伝えておきます。中国の施設に居た一人の少女が、冬美に魔物を向かわせているのです」
「盤古や応龍のこと!?」
「そうです。彼女は延行を崇拝しています。延行が死んだのは、冬美、あなたのせいだと思っているのです」
応龍と刑天はまだ闘い続けていた。応龍の牙は刑天の鎧を弾き飛ばし、肉を削る。刑天の二刀は龍の羽を散らし、鱗を貫く。
「彼女の最終目標は、延行を蘇生し自らのものにすることです」
「兄さんを」
「私が研究所を離れたのはそれに関連しています」
「研究所にずっといたあなたが何故そんなこと知っているのよ!」
「……刑天もそろそろ限界でしょう。あの応龍は生半可な魔物ではありません。かつて不死身の戦士と名高かった蚩尤を討ち取ったのですから」
「シユウ?」
「蚩尤の首は、それが饕餮となったのです」
その時、全身を血に染めた刑天が始祖夢魔の隣に着地すると始祖夢魔を抱えて飛ぶ。空から始祖夢魔が古城戸に叫ぶ。
「冬美! 樹に触れて行きなさい!」
その声で古城戸は跳ねるように動き出す。
「みんな! 行くわよ!」
神子島、孟婆も古城戸について行くのを見て、鳴神も気力を振り絞って走り出す。その時背後で血に染まった応龍が咆哮。地響きと共に巨大な津波が森の遥か上の高さに見えた。応龍は水を操る龍だと古城戸が言っていたのを思い出す。あんなものに呑み込まれたらどうなるのかわからない。津波はたちまち接近して襲いかかってくる。鳴神たちが、どう走っても逃げきれそうになかった。
鳴神が悲鳴を上げたとき、巨大な津波がビデオを一時停止したかのように空中で止まった。
「今のうちじゃ! 急げ!」
神子島の能力は流れを止める。どうやら津波を止めたのは神子島の『雷山小過』のようだ。鳴神は慌てて前を向き直り全速で駆ける。古城戸、神子島、孟婆が樹に触れ姿が薄れていくのを見ながら自分も大きな幹に右手を着いた。
気が付けば四人は山の遥か上、雲の上まで浮き上がっていた。身体が自然に上昇し、碧く昏い空へ向かっている。隣には天使が二人、鳴神達に付き添うように飛んでいた。古城戸や神子島の額からは『P』の文字は全て消えていた。恐らく自分の額からも消えているのだろう。
「イエスの魂が近いわね。もう一気に侵入するわよ」
「え?」
鳴神がそう訊き返しているうちに辺りは白い霧に包まれ、何かに吸い込まれるように意識が遠のいた。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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