四章 一 月は誰も見ていないときは存在しない
一
まだまだ夏の暑さが抜けきらないとある日、自席にいると古城戸が声をかけてきた。
古城戸は白いシャツに桃色のサマーベスト、下は黒いジーンズだ。清涼感のある良い匂いが俺の鼻孔を抜ける。夏用の香水か。
「政府からまたパーグア捕獲の依頼が来たんだけど」
俺はそれを聞いて『沢風大過』で死なせてしまったパーグア、山路を思い出す。
「またか。次はなんだ?」
「八卦の因果は明らかになってないわ。ただ、能力的には瞬間移動するらしいの」
「瞬間移動? なんの因果で瞬間移動するんだよ。ありえないだろ」
パーグアの能力は八卦の因果に由来する。八卦は全部で六十四あるが基本的に占いにあるような『欲望のままに進むと失敗する』、『他人の協力が必要』、『何をやっても上手くいかない』というような漠然とした因果から生じる能力だ。だからどんな能力だろうと起因となる因果があるはずだが、瞬間移動など何の因果がつながるのか俺にはわからなかった。
「由井薗君なら近づけばわかるでしょう? そこから攻略法を考えて」
「石橋を連れて行っていいよな?」
「もちろん。一応石橋君にもメールはしたんだけど。返事は無いわね」
「相変わらずだな……」
石橋は給料日以外は登庁しないので電話かメールするしかない。
「石橋君にターゲットの詳細は送ってるから聞いてね」
「目の前に俺がいるんだから教えてくれればいいだろうが」
「ちょっと今時間が無いの。すぐに出ないといけないから」
古城戸は手を合わせてごめん、と示すとそそくさと出て行ってしまった。相変わらず酷いやつだ。結局情報は何もわからなかったので、石橋から聞き出すしかない。
早速俺は石橋に電話してみる。が、出ない。またパチンコかスロットだろう。まったくどいつもこいつもしょうがない奴らだ。
とりあえず渋谷にいるだろうから向かうだけ向かってみることにする。
今日は以前のように古城戸が車を出してくれなかったので、面倒だが電車で移動した。
渋谷は今日も人混みが激しい。忠犬ハチ公からほど近いエスパスに入りスロットコーナーを見て回ると石橋がいた。交通量を計測するカウンターのようなものを持っていて、しきりに動かしていた。
「おい 探したぞ」
「ん? あぁ由井薗か」
「ああ、じゃねぇよ、ほらもういいだろ」
石橋はスロットをしばらく見ていたが席を立った。あまり出る台でもなかったのだろう。
「その機械なんだ?」
「カチカチ君か? これは設定を調べるやつや」
石橋は手の中にある機械を弄る。
「設定なんてあるのか?」
「スロットには設定があるんやで。設定四は出たときは爆発的に出る。その分当てるのは難しい。二〇一九年に法律が変わって今は設定六が中心や」
「六は?」
「六は出玉の上限とかに制限がある。勝てないわけちゃうけど、大勝するんが難しい」
「それでわかるのか」
「ああ、これで何が何回出たか数えたら設定何かわかるんよ」
「前に言ってた『ゴト』にはならないのか?」
「ならんならん。別に台に何かするわけちゃうし。持ってないやつは素人やで」
本当のプロはそういうものは持たないだろうが、それは口にしない。石橋もまぁそこそこ勝ってるようなので好きにさせておこう。俺は適当な相槌を打って話を切り出す。
「古城戸から連絡があっただろう? 次のターゲットの」
「ん? あぁ、あったな。無視したけど」
「無視すんなよ」
俺が手を出すと、石橋は携帯を出してメールを開き、俺に渡した。メールの内容によると、ターゲットの名前は印南颯太、二十三歳の会社員。住所は港区になっている。
勤め先は大手の広告業者だからそれなりに優秀な人物なのだろう。肝心の能力については古城戸が言っていたように瞬間移動と書かれているが、どうもそれだけではないらしい。
「瞬間移動ってマジだと思うか?」
石橋は逡巡したが、頷く。
「書かれてるんなら実際にそういうことがあったんやろ? 何の因果か全くわからんけど」
「とりあえずまともな社会人ぽいし、一度会ってみるか」
「ならお前だけで行けや」
「そうだな、マンションぽいから一階で待機しておいてくれ。俺が部屋まで行く」
「マジ面倒くせぇ」
「そう言うなよ。仕事だぞ」
そう言って俺達は渋谷から杉並区にある小さな賃貸マンションまで移動した。五階建ての白い集合住宅は特に変わった点は無く、無機質なオートロックの扉が玄関にあった。奥にはエレベーターが二機あるようだ。建築基準法においては、高さ三十一メートル未満の建物にはエレベーターを設置する義務はなく、この建物もそれを満たしていないため設置する必要はないのだが、人を集めるには必要な設備ということだろう。
「ここか?」
石橋はそう言うと建物を下から上へ見上げた。
「そうみたいだな。印南は……四階か」
俺がそう言って入口に近づくと因果を感じた。これは石橋ではない。
「どうやら御在宅のようだな。ビンビンに感じる」
「ほう。なんの因果や?」
「これは『天雷无妄』か。まぁ待て。今見るから」
俺は因果に触れてあまりの衝撃に足が痺れ、壁に手を着いた。
「どうしたん?」
石橋が心配したのか声をかけてくる。
「とんでもない因果だな。『天雷无妄』」
石橋は、俺に問題ないことがわかったのか、安心した様子だ。
「なんなん?」
俺はどう言うべきか考えて、それを口にした。
「月は誰も見ていない時は存在しないって信じられるか?」
「は???」
石橋からは特大の疑問符が返ってくる。当然の反応だろう。
「『天雷无妄』、易における意味は思い通りに行かない、成り行きに任せるほうがよい、という凶の暗示だよな」
「そうやな、なるようにしかならん、自分じゃどうにもならんって因果やな」
「それと同時に、意識するとうまくいかず、忘れていると上手くいく、という隠れた暗示もある」
「あった気がする」
「俺が『天雷无妄』を使ってできることは、『量子的状態のものに干渉する』ことだ」
「量子的状態?」
「俺がこの程度ということは、だ」
「印南のほうは何ができるんや?」
「量子を操作できる八卦だ」
「量子を操作!?」
石橋は唾を飛ばして大声を出した。
「以前にもいただろ、確率操作をするやつが」
「ああ、道路渡ったやつな」
「そう。車にぶつかる状態とぶつからない状態が重ね合わさっていて、そのうちのぶつからない状態を選ぶってことだよな」
「難しいな」
「古城戸が言ってたんだよ。量子論が絡んでいるかもしれないってな」
「量子論ってあんま知らんけど、猫のやつやんな」
「シュレディンガーの猫の思考実験は有名だよな。物事は観測するまで確定していないって信じられるか?」
「信じられんな」
「だがそれは実は実験で実証されてるんだ」
「マジか?」
石橋の疑問は当然だ。こんなことはにわかに信じられるものではない。
有名なシュレディンガーの猫の思考実験では猫に複数の状態が同時に存在することがわかり、今度はそれを証明するための実証が行われた。実証といっても猫を使うわけではなく小さな電子の一粒でそれを確認したのだ。採用された方法とは、電子を飛ばすマシンの先には二つのスリットが開いた板があり、電子はどちらかを通らなければ向こう側に行けないようになっている。この時、電子は波のように振る舞うことがわかった。だが、今度は電子が二つのスリットを通る瞬間を観測しようとすると波としての振る舞いをしないようになったのだ。つまり観測という行為だけで在り方が変わったことになる。
二〇一七年にはNTTの研究チームによって巨視的なスケールにおいても同様のことが実証されているのだ。
「子供の時、宇宙の果てがどうなっているか考えたことはないか?」
「もちろんあるで」
石橋はやや不安げだ。
「宇宙はビッグバン以降、広がり続けている、それも光の速さ以上で、というのが定説になっているよな」
「そうやな、実際に広がっているのは観測されてるんやろ」
「宇宙の果てというものは、量子と同じで状態が確定していない」
「それは聞いたことないな」
「光が粒子であることはアインシュタインが発見した。だが、二重スリットによる実験では光は波のように振舞った。こんなことは相対性理論では説明ができなかった。アインシュタインは量子論に対して否定的だったが、二重スリット実験の結果を見たら認めざるを得なかった」
俺はそこで話を切る。石橋はなんとかついてきているようだ。
「何かに似ていると思わないか?」
「なんや?」
「人間の魂だよ。 人間の魂は観測されている状態では電気信号、すなわち電子のように振舞う。だがそうでない場合は小さな宇宙のようだ」
「夢もその状態の一つということやな」
「そういうことだ。八卦はその状態のベクトルを決めるための変数といったところだろう」
「脳波を観測されてる人は夢を見ぃひんのか」
「見ないな。レム睡眠、ノンレム睡眠を観測はできてもただ単に深い眠りかどうかというだけだ」
「そこまで聞けばわかるわ。『天雷无妄』は観測されてない状態なら量子をコントロールできるってことやな」
「ああ、超ヤバい」
「使いこなされたらどうにもならんやろ」
「行き当たりばったりでどうにかなる相手じゃないな」
「俺としても『雷水解』を見せるのは絶対勝てる時にしたいからなー」
石橋の『雷水解』は印南の天雷无妄を打ち消し、勝利しうる八卦だが、もし取り逃してしまうと次回からは完全に警戒されてしまって難易度が跳ねあがる。できれば一発勝負で決めたい。
「具体的には、ポーカーとかブラックジャックでは絶対負けんってことやろ? 競馬は観衆が観測しとるから無理やな」
「そうだな。 ルーレットも難しいだろうな。だが麻雀では毎局天和もできそうだ」
「めっちゃええやん。由井薗が干渉できるってのはどの程度や?」
「そうだな……例えば黒いカップに入れて振ったサイコロの目を偶数に絞る程度だな」
「丁半博打なら勝てるんか」
「そんな具合だな。麻雀だと天和は無理でもツモる牌を筒子に絞るとかならできそうだ」
「十分強いやろ」
「天和には勝てないさ」
俺がそういうと石橋は肩をすくめた。
「今日は帰ろう。因果がわかっただけでも収穫だ。こんな因果があるなんてな」
「本来なら『どうにもならない』って因果やろ?」
「逆の意味で『どうにでもなる』ってことみたいだな」
「できれば戦いたくないな」
「味方になればこれ以上はないんだが」
俺と石橋はマンションを離れる。相手の因果が分かった以上、確実な作戦を練るべきだろう。まともな社会人のようだから話ができる相手かもしれない。
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