三章 六 一九九五年三月二十日
六
次に侵入したのは、駅の構内だった。丸の内線中野坂上駅。西新宿の次の駅だ。
「侵入したはいいが、どういう作戦でいくんだ?」
古城戸はあたりを見渡している。通勤時間帯なのかスーツ姿のサラリーマンがほとんどだ。
「この夢がどういうシチュエーションかによるわね」
対象者がどんな夢を見るのかわからないから、事前に作戦を用意しておくのは難しい。だから毎回侵入してから考える。
「旅行先とかなら自然に撮れるんだが」
「二人の強い記憶に合わせた夢になるはずなんだけど、家族で旅行に行ったりしたのかしら」
「さぁな。レストランではどんな話を?」
「団欒というのはあまりなかったみたい。娘は実の父親と思っていたから、仲は良かったらしいけど」
俺は頭を掻く。
「うーん、中野坂上だし、旅行では無さそうだな」
古城戸は地下街の店に流れるブラウン管のテレビ画面を見て、俺の肩を掴む。
「あれを見て。一九九五年って」
夢の世界には時間の概念がないから、過去や未来さえ見ることがある。だから一九九五年の夢を見るのはおかしなことではない。
「誰もスマホいじってないし、公衆電話があんなにある」
古城戸は俺の服の袖を引っ張りながら興奮気味に言った。確かに駅のホームでスマホをいじる人は一人もいなし、公衆電話が六台も並んでいる。
「一九九五年にはまだ携帯はないだろ。ポケベル全盛期だから公衆電話が多いんだよ」
「ほえー、ポケベル! 見たことないわ」
「俺も無いぞ。俺と歳はほとんど変わらないだろうが」
「どんな仕組みなの?」
「最初は電話で数字をプッシュするとそのプッシュした数字をそのまま送っていたらしい。例えば、084でオハヨー、みたいな語呂合わせだな。だが、途中の機種から数字をカタカナに変換して表示してくれるようになったとか」
「変換?」
「よくわからんが、11ならアとか。12でイ、みたいな感じだったはずだが」
当時のポケベル利用者は変換表を財布に入れていたと親戚の叔父から聞いたことがある。
「この時代はインターネットもないんでしょう? みんな何していたのかしら」
「テレビやラジオ、雑誌新聞が情報のすべてだろうな。メールもないからファックスだろうし」
「パソコンはあったのよねぇ?」
「あったはずだがネットはないから完全にスタンドアローンじゃないか。いや、パソコン通信みたいなものはあったのかな」
「確かに新聞持ってるおじさん多いわね」
古城戸はホームを見ながら言う。俺はブラウン管のテレビをもう一度見る。
テレビは朝のニュース番組が流れている。日付は三月二十日。肌寒いわけだ。
「一九九五年ってことは娘が生まれた年か。二十九年前だ」
ということは皆本の妻の夢がベースなのだろうか。ここは新宿からほど近い中野坂上駅。
駅名の看板を見て気付く。
「当時は東京メトロじゃなく、帝都高速度交通営団って名前だったんだな」
「東京メトロも正式名称は東京地下鉄株式会社らしいけど」
「へぇ? 東京メトロが会社名かと思っていた」
古城戸もテレビのニュース番組を見ている。
「それにしてもなんでこんな日常の夢なのかしら」
俺の脳に電流。一九九五年三月二十日、朝の通勤ラッシュ時間帯だと?
「待て待て。今日の日付と現在位置。ヤバくないか?」
古城戸はまだわかっていないようだった。無理もない、自分が生まれる前のことなのだから。
「地下鉄サリン事件だ。正確な時間はわからないが、そろそろだったはずだ」
俺と古城戸は駅の改札口まで移動。ホームのほうを見てみる。通勤途中の人達の邪魔にならないように横にずれて様子を窺う。
地下鉄サリン事件は、オウム真理教による同時多発テロ事件で、東京都の地下鉄における複数の路線でサリンガスが散布され、乗客乗務員などに多数の被害を出した事件だ。史実では十三人が死亡し、負傷者に至っては六千三百人にも及んだ。その後首謀者及び主要実行犯は逮捕され、六年前の二〇一八年に死刑執行されている。
その時、地下鉄ホームからは悲鳴と怒号。ただ、この時点ではまだサリンの脅威というものが人々には知られておらず、ちょっと臭うな、程度だった。それよりも会社に出社するほうが遥かに大事なことなのだ。まさか自分たちの通勤電車に毒ガスが撒かれるなど想像だにしていない。
サリンは本来無臭と言われているが、はっきりと臭いを嗅ぐと死んでしまうため正確な臭いはわかっていない。刺激臭がする、とも言われるが、鼻腔の神経が麻痺することによりそう感じるというのが定説である。ただ、本来は無臭と言われるサリンだが、この事件において電車で撒かれたサリンは化学反応が不十分で、刺激臭がする気体が発生したとも言われている。サリンは皮膚からも吸収されるため、息を止めたり鼻をつまんでも意味がない。被害を受けないためには、すぐにその場を離れるしかない。
体調不良を訴える人が次々と電車から降りてくる中、俺は『坤為地』の因果が湧き上がるのを感じた。近くにパーグアがいるようだが、この雑踏と騒ぎでは誰かまではわからない。
体調を崩して搬送された数人の中に、安納の妻がいた。お腹が大きく、臨月の妊婦だろう。つまり、中にいるのはあの娘ということになる。
当時の皆本が安納の妻に寄り添うのが見えた。偶然電車に居合わせたのか、何か共通の用事があったのかはわからないが、たまたま乗り合わせたように見えた。
安納の妻は真っ青な顔をしていて生気が感じられない。俺たちは急いで駆け寄る。救急隊員により運ばれていく安納の妻は、素人の目で見ても助かりそうになかった。
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