三章 五 震災当日
五
今日は随分と寒い。目が覚めた布団はいつもと違う布団だ。昨日から神戸の実家に帰っていたのを思い出す。妊娠七か月のお腹は大分と目立つようになってきた。初期のころの悪阻はもう無いけど、無性に餃子が食べたかったり、苺が食べたかったり食欲が安定しない。感情の起伏も心なしか大きくなっている気がする。
時計を見ると午前五時半前。随分と早いが母はすでに起きて朝食の準備をしていた。
「おかあさん、おはよう」
母は手をとめてこちらを見る。
「あらおはよう美由紀、もっと寝ててええのよ」
「昨日八時に寝ちゃったからもう寝れない」
そう言って、居間のソファでぼんやりしていると、父も起きてきた。
「美由紀、もう起きたのか」
「んー」
父は朝のウォーキングに出かけるのか、帽子を被って準備している。
「安納君は忙しいんか?」
ジャンパーを羽織った父がそう聞いてきた。
「うん、全然帰ってこない」
「議員も大変やな」
父はそう言うと玄関から出て行った。
やがて食卓には簡単な朝食が並んだ。白米、みそ汁、お漬物、ハムエッグ。シンプルだけどこれが朝一番のお腹に一番いい気がする。
『一月十七日 火曜日の午前五時半、みなさんおはようございます!』
テレビが朝のニュースを始めた。
母と向かい合って朝食を進めていると、母が言った。
「子供の名前はもう決めてるん? 女の子やろ?」
「まだ決めてないー」
私はみそ汁をすすり、ほっと息をつく。母の味はいい。
「聖子にし、聖子。松田聖子のファンやねん」
「えぇ~? 古くない?」
「いい名前やないの。歳とっても違和感ないし」
確かに最近でてきた名前の中には、中年になってからだと微妙なものもある。その辺は時代の感性というものなのかもしれないけど、私は苦手だな。
「どうし……」
そこまで言いかけた時、食卓が跳ね、一瞬食器が浮くのが見えた。最初は母が食卓を下から蹴ってしまったのかと思ったが、そうではないことが次の瞬間にわかった。
轟音とともに家が揺れる。今まで生きてきて聞いたこともない音が世界から聞こえた。
家からも外からも地面の鳴る音。地震だ。しかも大きい。私は情けない悲鳴を上げて食卓の下に入り込んだ。母はその場で頭を抱えてしゃがんだ。あちこちで物が倒れたり何かが割れる音が聞こえる。木造の家が悲鳴を上げ、壊れてはいけないところが壊れていく音が恐怖を掻き立てる。食卓の上に屋根が落ち、私は命の危険を感じ、アドレナリンが噴き出た。母は失禁し、気絶したようだ。家が一段と大きく絶叫すると私は食卓ごと押しつぶされてしまった。だけど幸いなことに怪我はなく、食卓がうまく盾になったようだ。
母は食卓の外にいたこともあり、完全に柱の下敷きだ。
「おかあさん!」
私は必死に声をかけたが応答はない。床には血は広がっていないけど身動き一つしない。母までの距離は二メートルほどで、そこまでは手が届かなかった。
ようやく音が止み、周囲から悲鳴と泣き声が聞こえだす。
私はこの状況から脱出できないか狭い範囲で這ったり柱をどかしたりできないか試してみたけど、ビクともしない。どうやら完全に閉じ込められてしまったみたいだ。
幸い怪我はないしそのうち救助してもらえるに違いない。
しばらくするとお父さんが慌てた様子で家の外まで戻ってきたようだった。
「美佐子! 美由紀!」
母と私を呼ぶ声が聞こえて、私は大声で返事をする。
「お父さん! ここよ!」
「美由紀! 美佐子は?」
お父さんが私を居場所を見つけたようで安心した。
「お母さんは柱の下敷きになってる。気絶してるかも」
「お前は怪我はしてないか?」
「大丈夫。出られないけど」
「周りえらいことになっとるぞ。戦争みたいや」
父は私の周りの瓦礫や柱をどかしていくが、一人では限界があるようだった。
消防車のサイレン音が聞こえだしたが、家の近くには来ない。要救助者は無数にいそうだから順番待ち、など悠長なことは言ってられないだろう。
父は一人で頑張っていたが、やがて昼になり被害状況が少しづつわかってきたようだった。高架の高速道路が倒れたり、ビルが倒壊したりと惨憺たる有様らしい。半日近く家の下敷きになっているが、不思議なことに尿意や便意はなかった。それよりも風が寒い。お腹に障らなければいいのだけど。
「わし一人じゃあかん。助けを呼んでくる」
といって家を離れていき、私は不安になった。
父を待っている間にも余震があり、そのたび周囲の生存者たちは悲鳴を上げた。わたしもいつ食卓が完全に潰れて押しつぶされるかもわからない恐怖と向かい合い、父が早く戻ってくることを祈る。
やがて夕方になっても父は戻ってこなかった。お腹がすいてきた。何か飲み物も欲しい。大人になって泣いたことなんてなかったのに、私は泣き出してしまった。不安でたまらない。救急車や消防車のサイレンは何度も聞こえるけど、こっちに来るものは一台もなかった。
「美由紀~!」
そのとき、父の声が聞こえ、私はありったけの声を出して返事をした。
「おとうさん!」
父は、大勢の人を連れていた。しかも自衛隊らしき人達も数人中にいるではないか。その姿のなんと頼もしいことか。
「今、助けますよ!」
自衛隊の人は力強い声で私を励ましてくれた。
「慌てないでじっとしていてください!」
もう一人の隊員がそう言ったので、私は頷いて大人しくする。
自衛隊の人たちと、一般人の人たちは長い角材のようなもので家の潰れた屋根をどかしていく。
「せーの!」
という掛け声とともに屋根が持ち上げられ、人が通れそうなスペースが生まれる。隊員の一人が私に手を伸ばし、力強く引き出してくれた。
「美由紀!」
父が私に駆け寄り、抱きしめてくれた。生き返ったように私は安堵した。
「でも、まだお母さんが」
父は隊員に、母がまだ残されていることを伝えた。隊員達はイヤな顔ひとつせずに家の瓦礫をどかし、力強く柱を持ち上げていく。手伝ってくれた一般の人たちは、自分たちも被災者の一人なのに、周囲を助けて回っているのだ。おそらく家族全員の無事が確認できた人たちなのだろう。
作業は進んだけど、やがて夜になった。自衛隊の人達でも、夜に作業することはできない。いつ崩れるかわからないし、どける柱の順番もわかりづらくなる。だから残念だけど今日は夜にすべきことをする、と言ってどこかに行ってしまった。
私は何か食べたかったけど、周りも食べ物や寝る場所に困っている人達ばかりなので我儘は言えない。母はまだ家の下だけど、父と一緒に避難所に行くことにした。
避難所は近くの小学校の体育館だったけど、そこはもう人であふれかえっていた。しかも物資らしきものは何もなく、水すらもない。
「すごい人やな。どうする?」
父がそう聞いてきた。
「もう歩きたくない」
私がそういうと父も「そうやな」とだけ答えて私たちが休めるスペースを探しに行った。わたしもまわりを見てみたけど泣いている人たちばかりだった。みな家族や家を失ったのだ。東京の旦那に電話がしたかったけど、公衆電話はものすごい行列ができていて、とても並ぶ気にはならない。小学校に置かれている大型のブラウン管テレビを見ていると改めて被害の状況が放送されていて、今回の地震がいかに大きかったかがわかった。
やがて父は体育館の中央付近に場所をとったから、と私を連れていき、薄い毛布が敷いてあるスペースに着いた私たちはそこに腰を下ろす。
この体育館に着いてからも何度か余震があり、そのたび周囲は大きな悲鳴を上げた。私ももうあんな思いはしたくない。頭上に柱が落ちてくる恐怖は一生消えることはないだろう。
「旦那に連絡とれないかな」
私がそう言うと、父は立ち上がり、「電話に並んでくる」といって公衆電話に向かった。
私が妊婦だから行列に並ばせるのはかわいそうだと思ったのだろう。テレビを見ていると、不思議と略奪や強盗のようなものは起きていないようだった。日本はつくづく平和な国だ。でも、まわりの話によると外国人の火事場泥棒のようなものがあるということで、自衛隊の人たちは見回りに出ているらしい。昼からずっと働き詰めなのに、夜も寝ないでパトロールをするということだ。私は隊員の人に声をかけてみた。
「夜も不寝番なんてお疲れでしょう」
すると隊員は笑顔で答える。
「国民の皆さんをお守りするためならつらくはありません」
さらに自衛隊はテントの中に鉄パイプとビニールシートで作ったお風呂を作り、被災者の入浴できる場所を用意してくれた。本当にありがたいことだ。
お腹は空いていたけど、私はもう心身ともにヘトヘトですぐに眠ってしまった。
翌日になり、父から旦那へは一応連絡がついたらしい。これで一安心だ。十時を過ぎたころ、救援物資らしきものが配られだした。また、炊き出しも行われ、父が並んで受け取ってきてくれた豚汁をすすると身体の芯から温まる。
私は豚汁を食べ終わると、父と倒壊した自宅へ向かい、下敷きになった母を救助すべく瓦礫をどけていく。周囲の人たちも手伝ってくれて、昼過ぎにはようやく母の姿が見えた。
「美佐子!」
父がそう声をかけても母は動かない。私はおそらくはもうだめだろうなと心の中で思っていたが、わずかな可能性があるかもしれない。
父は母を瓦礫の下から引っ張り出した。だが、思ったとおり母はすでに亡くなっていた。
父はがっくりと項垂れて嗚咽を漏らした。周囲の人たちは父を慰めていたが、やがて次の救助先へと向かっていく。私もひとしきり泣いたが、母の死を悲しんでばかりいられない。まだまだ瓦礫の下で救助を待っている人がいるのだ。妊婦だからとじっとしてなど、いられなかった。
父は大人しくしていろと言ったが、母の死が堪えているのは見て取れたので、父に母の弔いをお願いして、私は一人でも助けると伝えた。
その後、瓦礫をどけて助け出した四人のうち、三人は亡骸で一人は生存者だった。生きている人が救出されたときは、周囲は映画の名シーンのように喜んだ。まだ丸一日だから生存率は比較的高いようで、あちこちから怪我はしているが命は無事、という人が掘り起こされていく。が、周囲からの情報では三千人近い死者が出ているらしい。
夜になって避難所に戻るとやつれた様子の父がいた。
「葬儀は合同でやるらしいわ。さすがに一人づつは無理やろしな」
「そう……あんな地震、どうしようもないよ。お父さんが無事で良かった」
「おまえこそ、運よかったな。俺一人にならなんでよかったわ。そや、家から通帳とか持ってこんとな」
そうだ。お金がないと当面の生活にも困る。
「一緒に東京に帰る?」
私が父に言うと、父は首を振る。
「わしは神戸に残る。しばらくは仮設住宅かもしれんが。お前はもう東京に帰っとき」
「お父さんここで一人で大丈夫?」
父は無理やりな笑顔を作る。
「なんとかなるやろ。余震こわいけどな」
「昨日も十五回くらい揺れたもん」
「安納君も心配するやろ。電車動いてるんかな」
「新幹線は動いてるかもだけど、新神戸まで行けるかな」
その後、周りの情報からだとバスがあるということで、私は翌日家の跡から貴重品を探してなんとかバスに乗ることができた。
後のデータで分かったことだけど、阪神淡路大震災において被災者の救助の七十七パーセントは地域住民の手によるものだったらしい。『共助』という言葉が見直されたのはこの震災がきっかけで、東日本大震災においても『共助』の経験が活きたという。
約二ヶ月後、自宅から旦那が評判を聞いて勧めてくれた新高円寺の産婦人科に検診に行くため、新宿から荻窪行きの丸ノ内線の三号車に乗った。東京の朝は道路の混雑がひどいからタクシーは使いづらい。
電車はすでに混雑がひどかったけど、こんな混雑でも妊婦と分かれば席を譲ってくれた。朝のサラリーマンには申し訳ないな。
となりのサラリーマンはぐったりとしている。よほど疲れているのか完全に眠っているようだ。
私は車内の空気がおかしいことを感じた。周囲の人たちがみな気分が悪そうにしているし、かすかな臭気がする。向いの座席の下に落ちているビニール袋が臭いの元のように思える。あちらの席に座っている人はみなぐったりとしているうえ、一人は泡を吹いていた。
西新宿で多くの人がいったん降りたけどまたたくさんの人が乗り込む。
「あれ、安納さん?」
ふと声をかけられたので声の主を探す。すこし頭が痛い。
「あら皆本さん。今日は永田町じゃないんですか」
「立川の陸自(陸上自衛隊)にちょっとね」
そうか、皆本さんは防衛大臣なのだった。
「……なんだか息が苦しくありません?」
「やっぱり? 僕だけじゃなかったのか。なんか変だよね」
そのとき、悲鳴が向いの席から聞こえた。見てみるとさきほど泡を吹いていた人が倒れて痙攣しているのだ。周囲の人はこの満員電車では逃げることもできない。
これは、毒物の可能性がある。あのビニール袋に何か入っているんだ。
周囲は気分が悪いと訴える人が多くなり、しゃがみ込む人もいた。私もなんだか眩暈がするし、周囲が暗い。皆本さんも気分が悪そうだ。
「次の駅で降りましょう。あのビニール袋に何かあると思う」
私がそう言うと皆本さんはビニール袋の場所を首を動かして確かめた。
中野坂上駅に到着すると、私はすぐに倒れた人の背中から腕を回してひっぱり、車外に出す。
「安納さん、妊婦なんだから他の人に」
「助けます!」
私はつい二ヵ月前のあの地震の時の恐怖を思い出す。あの時の自衛隊の人達を思い出す。「つらくはない」と言い切った隊員もいた。私もつらくない。
そして次はあのビニール袋をどうにかしなければ。私は袋の端を持ち、車外に出した。皆本さんは駅員に言って電車を止めさせているようだ。
車内には気分が悪くぐったりしている人が何人がいたので、その人達を車外に連れ出す。七名ほど連れ出したところで私は足がふらつき、視界が暗くなった。頭によぎったのは、明確な死の予感だ。だけど不思議と恐怖はなかった。ああ、これで私は死ぬな、と自覚したところで意識が途絶えた。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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