四代将軍源とも、イザッ鎌倉!
相模の国は三浦半島の付け根に位置成す鎌倉は、気候穏やかにして風光明媚。しかも湾に面し三方を山で囲まれた天然の要害であります。治承四年、源頼朝公入府。征夷大将軍となった頼朝はこの地に幕府を置き天下を治めます。頼朝は鎌倉を京に模して整備しました。北山に八幡宮を勧請し南の由比ヶ浜まで真っ直ぐ若宮大路を貫く。その東西に碁盤目状に区画され整然と居並ぶ街並みは誠に壮観。正に「武家の都」に相応しい威風堂々。頼朝は志半ばで世を去りましたが、その偉業は北條氏に受け継がれ、武家政権の盤石とともに、鎌倉はいよいよ発展繁栄していったのであります。
由比ヶ浜に一艘の小舟が漂着したのは承久元年七月二十四日の早朝でした。奇妙なことに小舟が何時からそこにあったのかハッキリしません。勿論、浜の者は心当たりがない。所有者が名乗り出ないのです。しかも小舟はまるで新造でした。難破とはとても思えません。それより何よりの不審は、舟の腹に墨黒々「七」と大書されていたのです。
七月二十五日、若宮大路は黒山の人だかりで大変な騒ぎ。何と何と鎌倉の玄関ともいうべき一ノ鳥居に大きく「六」の落書きが!鶴岡八幡宮に通ずる三つの大鳥居は鎌倉の象徴であります。それを承知の上での悪質なイタズラ!神をも畏れぬ罰当たり、大胆不敵と云おうか。しかもこれは幕府に対する挑発、敵対行為あろう。北條のお膝元での狼藉は沽券に関わる。執権相模守義時は色をなして叱咤!侍所所司・三浦義村は捜査に血眼であります。
ところがところが翌二十六日、今度は二ノ鳥居に「五」!ではありませんか。鎌倉中は蜂の巣をつついたよう。そこへ例の由比ヶ浜「七」小舟発見の報が入ったものですから恐慌はますます拡大の一途。これはもう同一犯に違いない。浜から一日刻みで若宮大路を北上となれば、明日は当然三ノ鳥居を狙ってくるでしょう。義時は実弟・武蔵守時房に命じ厳重に警戒させました。
若宮大路は通行を厳しく制限、日没後も鳥居周辺には篝火が赤々と焚かれまるで戦前夜。沿道では家財道具を担いで避難する者続出の有様。時房と義村の軍勢が鳥居を幾重にも囲んでおります。幕府でも義時は政所別当・大江広元と夜通し待機。そうして恐るべき夜は白々と明けました。おお見よ、三ノ鳥居には何の異常もない。どっと鬨の声。時房も義村も肩を叩き合って笑い安堵いたします。武士の面目躍如!
時房は意気揚々と引き揚げる。義時に報告し、次に姉である尼将軍政子の住まいなす大倉御所へ向かいます。夜が明けたばかり、まだ門は閉まっている。フト、時房は正門に何やら大きな紙が貼りつけてあるのに気づきました。そこには!
「四」
鎌倉中、紛糾!執権義時の目と鼻の先、あろうことかあるまいことか、将軍家のいや東国武家の慈母と崇敬される尼御台様のお邸に貼り紙とは何たる無礼!御家人共、激昂!
しかして、下手人は何者か?そしてその目的は?
由比ヶ浜に「七」の小舟が漂着したのが二十四日。翌二十五日には一ノ鳥居に「六」、二十六日「五」が二ノ鳥居、そして本日大倉御所に「四」・・・
この数字は何を意味するか?大江広元は何かの前触れ、犯行予告であろうと推測。すると明日以降「三」「二」、そして晦日には丁度「一」となるハズ。晦日?・・・ここで何か騒動を起こすつもりでは・・・
先年、有力御家人だった和田義盛を討取った。その残党が襲撃を企んでいるのだろうか?いやいや幕府北條に逆らう勢力はほぼ駆逐した。まして鎌倉は難攻不落、大軍を以てしても攻略は不可能でありましょう。
「そもそも戦を仕掛けるなら虚を突くべき。わざわざ知らせてどうする」
義時は敵の襲来をキッパリと否定しました。痴れ者の仕業である。武士が右往左往する様が愉悦なのだ。騒げば騒ぐほど図に乗る、無視がよかろうと断言。
「ならば由比ヶ浜から若宮大路を北上し、明らかに八幡宮を目指していながら東に折れ、大倉御所を狙った意図は?」
「狂人に理屈なぞない。三ノ鳥居は厳重に警戒されていた。近寄れなかったのだ。そこで大倉に変更したのだろう。目立つ所ならば何処でも良かった。もしかしたら儂の屋敷と見誤ったかもしれんな」
確かに得体の知れぬ相手、筋の通った説明は求められません。それよりも賊を捕えるのが先決。そう、もう夜が更けてまいりました。この間にも闇に潜む怪人は次の「三」を謀っているのです。
北條政子はズキズキとした頭痛に悩まされている。昨夜はよく眠れなかった。あの門に貼りつけられた「四」が不気味であります。あれから即座に時房の手勢が警護し、邸内もそれこそ天井裏から縁の下まで隈なく探索いたしました。侍女や家人ひとりひとりにも厳しく詮議。しかし何処にも異常は見られない。弟達の「三ノ鳥居を諦め、たまたま手薄な大倉御所へ・・・」などと呑気な憶測も、政子には気休めにもなりません。賊は最初から尼御台を狙っていたのでは・・・もう居ても立ってもいられない。食事も喉に通らず、苛立って家人を叱り飛ばしたりして荒れていました。それでも朝のお勤めを済ますと幾分落ち着いた。侍女に白湯を用意させ、ぼんやりと庭を眺めております。
はて?政子は違和感を覚えます。何?胸騒ぎ。
あっ!政子の両眼は庭の灯篭に釘付け。
灯篭に・・・灯篭に大きな白い紙が貼られていました。そして、そこには・・・
「三」
敵の魂胆はハッキリした。
畏れ多くも尼御台様を狙うとは!義時は直ちに半狂乱の政子を大江広元に預ける。まさかとは思うが、一族の屋敷ではかえって危険との判断。居場所を知る者は他に時房・三浦義村のみ。そして改めて鎌倉中に戒厳令が布かれた。外部からの鎌倉への入出路・七口切通しは総て閉鎖、蟻の這い出る隙もない。滞在中の旅人は一か所に集められ監禁。住民も不要不急の外出は禁じられ、往来を騎馬武者が駆け巡る。いやはや、何とも重苦しい空気に包まれた。そして固唾を呑んで夜明けを待つ。
・・・二十九日、何事も起こらず。流石に手が出せぬであろう。義時やや安堵も、気を緩める訳にはいかぬ。
袋の鼠を捕縛するのだ。最早、何処にも逃げられぬ。市中を虱潰しに探索し必ずや獄門にせん!
北條政子は大江広元邸に身を潜めている。起居する部屋は毎日変えた。身の回りの世話は侍女ひとり。姪の鶴子をわざわざ呼び寄せたのだ。そうして終日引き籠っている。この間、大江広元にすら目通り許さぬ徹底ぶり。その甲斐あってようやく政子は平静を取り戻した。あれから何事も起こらぬ。大倉ではまだ監視が続いているが月も替わったことだしそろそろ戻っても良かろう。ちと大袈裟、とんだ取り越し苦労であったか。
政子は思わず知らず傍らの茶碗を手にした。かさっ!茶碗の下に紙が敷いてある。何と不調法な!こんなことではいけません、鶴子らしくもない・・・はて?鶴子に茶を誂えさせた?何時の間に・・・改めて紙を見・・・えっ?これは・・・驚愕!そして絶叫!
「二」
隣に待機していた北條鶴子が慌てて飛び込むと政子は部屋の隅で震えている。
「どうしたのでございます!」
政子は言葉にならず、鶴子に武者ぶりついて泣きじゃくった。政子の指し示す先にはズタズタに引き裂かれた紙片。驚いた鶴子は大声で家人を呼んだ。
「直ぐに広元が参ります。ご安心なさいまし」
そうして優しく政子を抱きしめる。背中をさすっているうち、鶴子の指に紙のようなものが触れた。
「みっ・・・御台様?」
北條政子の寝間着の背には「一」の紙が貼りつけてあったのです。
明けて八月二日、幕府に京より使者が参る。義時は目を剥いた。連絡は受けていない。それよりも街道上り下りは、ことごとく封鎖してある。鎌倉には入ることは元より出ることも出来ぬハズ・・・一体何処から湧いて出た?
正使・藤原秀能、副使・橘善行。
秀能、堂々たる口上、
「来る二十七日、京八幡宮にて故将軍家、右大将及び左金吾・右大臣の法要を営みます。相州様、尼御台様におかれましては御列席賜りますようお願い申し上げます」
義時は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。嗚呼、そうであった。此奴だ、此奴の仕業だったのだ!考えてもみよ、当節この国で北條に楯突く者なぞ、ひとりしかいないではないか。あのネチネチとした陰湿な執拗さ!悪戯を仕掛け大人が困惑する様を舌舐めずりで喜んでいる小娘!いや、大女!
「喪主は清和源氏将軍家当主・四代将軍ともが相務めます」
怒髪天に紅潮した時房が刀の柄にに手を掛ける。よせっ!義時は目で制した。傍らの大江広元も首を振り溜息を吐く。斬れぬ。使者は礼を持って遇さねばならぬ。まして将軍家は北條にとってかつての主君。ばかりでなく、故人は夫であり子であり義兄であり甥なのだ。今この者共を斬る訳にいかぬ。そもそも、妾腹の女子如きが喪主とは片腹痛い。無理を承知の招待は明白。とことん愚弄している。
秀能が書状を差し出した。四代将軍直筆である。墨痕鮮やか、意外と繊細、流暢な達筆。しかし読み下し義時は顔色を変えた。
「都ノ四代将軍ヨリ書ヲ、鎌倉在相模守ニ致ス。恙ナキヤ・・・」
何だ、この朋友に物申すような馴れ馴れしい文面は!何たる無礼、傲慢!仮にも公文書であろう。法要の案内ならばその旨記すのみで事足りる。それを時候の挨拶やら故人への想い等つらつら情熱的に書き連ねる。それだけならまだしも、ガマンならぬは末尾!いけしゃあしゃあと綴っている。
「是非是非オ越シクダサイ。オ待チシテオリマス。アラアラカシコ」
花押がまた巫山戯て、丸の中の点々や線で女の顔になっている。これで歌でも添え香を焚き込めば恋文ではないかっ。
・・・これが源とも、か。成程、京へ遣わした倅泰時が手こずる訳だ。
義時には未知なる四代将軍の姿形がありありと浮かぶ。長身の白拍子が小首を傾げ大きな黒い瞳でジッと見つめてくるのだ。口元には笑みさえ浮かべて!人蕩らしめ!こうやって院も公家共も篭絡したのであろうが、武士には通用せんぞ。極彩色の花びらには甘美な蜜がたっぷり、だがその下には猛毒の棘が光っている。そう、尼御台はあれから寝込んだままなのだ。義時は秀能を冷厳に見下ろした。
「返事は近日中に追って沙汰いたす。本日はお役目、御苦労である」
四代将軍の使者藤原秀能及び橘善行が、家人・英次と善行であることは云うまでもなかろう。ともは北條が参列出来るハズのない法要にあえて招待した。無論、ただの嫌がらせである。都での法要は、源将軍家当主ともを満天下にお披露目する場に他ならない。北條が参列すれば四代将軍を認めることになるばかりか、臣下の礼をもとらねばならぬ。そのような屈辱は到底受け入れられない。かといって欠席すれば恩知らずの烙印を押され、幕府継承の正当性をも疑わせるのだ。ともの計略には念が入っている。それだけに鎌倉への使者は命懸けであった。十中八九、北條は彼等を斬るであろう。英次も善行も覚悟の上で出発した。
一方で、ともはカブトを先回りさせました。こちらの獲物は尼御台北條政子!せっかくの機会、義母様にも挨拶しておきましょう。
カブトは目立つよう痕跡を残しながら移動。真綿で首を絞めるように徐々に網を狭めていきます。由比ヶ浜から若宮大路の大鳥居は目印にお誂え向きでありました。そうしてカブトは充分に注意をひいてから本命に喰いついたのです。何、元盗賊には人目を忍んでの細工なぞ他愛もない。武家屋敷の侵入に至っては、昔取った杵柄、得意中の得意。外が堅固であればある程、内は緩いもの。しかも相手が直情径行の尼御台では、赤子の手を捻るより容易であります。大江邸に移ってからは、もう慌てることもない。カブトは悠々と機を窺います。ただ、あの鶴子なる侍女のみが目聡くなかなか隙を見せなんだ。やむなく日延べ、油断させたところで「二」「一」を纏めたのです。細工は流々、仕上げを御覧じろ。
もう十日も前から鶴岡八幡宮に潜伏していた英次と善行は、カブトの合図に満を持して乗り込みます。既に騒ぎは近隣諸国にまで鳴り響いている。その渦中に飛び込んで来た超弩級の火種!これだけ鎌倉に耳目が集まれば、如何に北條といえど迂闊なマネはできまい。主筋の使者なぞとても斬れぬ。斬れば、武家の根本「御恩奉公」が崩壊する。かくて家人の安全を確保し、憎っくき尼御台にも一泡吹かせ、一石二鳥。ともの思う壺であります。
幕府は完全に四代将軍に翻弄されました。
あまりの痛快事に庶民は溜飲を下げる。果ては「源とも、鎌倉に侵入」なる伝説まで生まれたのです。
曰く、
「四代将軍、尼御台ガ寝所ニ”鬼婆”ト落書ス!」
「四代将軍、大仏ニ登ッテ遊ブ!」
ちなみに当時、鎌倉に大仏様はまだありません・・・
承久元年八月二十七日、京の八幡宮において頼朝・頼家・実朝の法要が盛大に執り行われた。
喪主は勿論、四代将軍源とも!
皇族・公家が多数参列。神社仏閣からも寄進があり、一般の焼香は無慮数千の人人人!京ばかりでなく大和大坂、更に遠方より続々と蝟集してきたのです。
さて武家、北條及び鎌倉方は当然の如くこれを無視。また各地にも参列せぬよう通達します。しかし、かねてより北條に不満を持つ者はこの機会に旗幟を鮮明にしました。別流源氏はもとより、西国の主だった武家が出席。堂々と四代将軍に従い、存在を誇示する有様。
喪主挨拶で、ともが「国家安康!君臣豊楽!」と締めるや、満場が唱和!異様な盛り上がりは、さながら反北條決起集会!
この法要は、四代将軍源ともの人気と勢いを改めて満天下に示すものとなった。
しかし一方で鎌倉北條は、ともへの憎悪を極限まで募らせてゆく。
一触即発、両者の対立はいよいよ抜き差しならぬ。遂にこの直後、大乱勃発。
阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられるのです。




